プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

ブラウンスタイン

2016-10-22 23:37:39 | 日記
1962年

一回表だけほうったブラウンの成績は打者八人に四つの四死球と二塁打二本。三十八球ほうって3点とられるあいだに十九分かかった。その間小雨は降りっぱなしで、ブラウン投手の初登板はさんざんのていたらくだった。それでも帰りのバスの中での一問一答はなかなか愉快だった。

ー固くなった?「からだ中カチカチ。バッド・デー・ネクスト・タイム(悪い日だった。このつぎにやるよ」

ーどんな球をほうった?「ボールしかほうらない」ここでブラウン君はニヤリと笑った。なかなかのユーモリストである。でもそのすぐあとでまじめな表情にもどり、ストレートとシュート、カーブの三種類投げたとしゃべった。

ー調子は?「まだまだ。ネクスト・タイム」

ーストライク・ゾーンはどうだった?「高目はあまりストライクにとらないが、低目はあまい」

そのあとであまりいいわけはしたくない、という意味のことを何回もしゃべっていた。まじめな好青年といった感じだ。近鉄のミケンズをひとまわり大きくしたようなからだをしているが、スピードはない。スリークォーターから投げる球はいろいろと変化するが、コントロールはさっぱりだ。二週間ばかり前にも甲子園でブラウンのピッチングを見たが、ベテラン捕手山本(哲)が閉口するほどの荒れ方だった。一分間に一球ぐらいの割りで暴投がとび出す。その間にも山本(哲)がやっととめるようなひどい球がいくつもあった。梶岡ピッチング・コーチは「ボールの握り方も知らない」といっていたが、あらゆる面で投手になりきっていない感じだ。足腰が弱いからピッチング・フォームそのものにも安定感がない。りきみすぎてボールは高目に浮きっ放し、カーブはほとんど外角遠くにはずれていた。ただ握りがいいかげんなためか、シュートがいろいろ変化するのがおもしろい。無死一、二塁で王を三振にとったのもその球だし、長島を三ゴロにうちとったのもシュートだった。長島を打席に迎えたときはとくにコチコチになったそうだが、いくらかたくなったといっても、一、二塁に走者がいるのにワインドアップでやすやすと重盗されたのはひどすぎた。ブラウンの球を打った王も長島も「ボールが遅かった」といっていたが、長島は「まだでき上がっていないのでしょう」と同情的だった。藤本監督も「テスト・ケースとして投げさせてみたがコンディションも悪かったし、もう一度チャンスを与えてどんな球を投げるかためしてみる」といっていた。初登板、しかも一イニングだけのピッチングで評価するのも気の毒だが、今シーズンは大して期待できない。

マーク・ブラウン カリフォルニア大出身、1㍍88、90㌔、右投右打、背番号18。二十二歳。
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ブラウンスタイン

2016-10-22 23:15:25 | 日記
1961年

阪神では二十五日午後北区梅田の球団事務所でアメリカ、カリフォルニア大のマーク・ブラウンスタイン投手(22)=1㍍88、90㌔、右投右打=の入団を発表した。同投手は高校時代は三塁手、1956年デューク大からカリフォルニア大に移って以来投手に転向した。ことしのカリフォルニア大での成績は3勝0敗。南カリフォルニア・セミプロでも11勝2敗の成績をあげている。阪神入りのいきさつは同投手が「ぜひ日本で野球をやりたい」という希望をもっており、貿易商をやっている父親が戸沢代表の友人にあたる某貿易商にそのむねを伝えたことから話がまとまったもの。なお同投手は来年二月上旬に来日する予定になっており、ブラウン投手で登録される。

戸沢代表の話「この話はことしの夏ごろからあった。からだも大きいし、まだ若いのでとることにきめたが、実力は全然わからない。セミプロで優秀な成績を残しているが、そのセミプロのレベルがわからないので話にならない」
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ブラウンスタイン

2016-10-22 22:44:46 | 日記
1962年

阪神の外人投手マーク・ブラウンスタイン(MARK・BROWNSTAIN)が十三日来日。十四日から甲子園球場の練習に参加した。

「十分間だけ走ってもいいか」エース・ナンバー18の新しいユニホームを着たブラウンは、グラウンドを出ると記者団に断ってランニングをはじめた。「天候が不順でトレーニングは少しもしてこなかった。それに日本はやはり寒い。でも日本のプロ野球のことはいろいろ聞いてきた。大学には日本の新聞もあるし、向こうをたつ二週間前にドローチャー(ドジャースの監督)からもいろいろ聞いた。でもこの球場は予想していた以上にりっぱだ。大きいし、それにたいへん美しい」カリフォルニア大学で経営経済学を専攻。この一月に学位をとったというこのインテリ投手はなかなかじょさいがない。「ピッチング・フォームを写真にとる」というとさっそく右翼のブルペンで大和田捕手を相手にピッチングをする。「全然練習していないそうだが、それにしてはフォームもよく整っている。外人独特の手首の使い方だが、やわらかそうだ。評判どおりのすごいスピード・ボールを投げるかもしれない」鋭く切れるスナップを見て梶岡コーチが目をまるくしてPR?20球ほど投げたあとソロムコをさそってまたランニング。「うわさでは肩を痛めたとかヒジを痛めたとかいろいろいわれているそうだが、私は一度も故障したことはない。いまは寒いからムリだが、暖かくなれば得意のスピード・ボールをお見せする。カーブとチェンジアップも投げるが、勝負のときは上からの速球でいく」約一時間のトレーニングを終えたブラウンは、ぶあつい胸をドスンとたたいて自信たっぷりだった。

ドイツ系特有のがっちりはったアゴ、白い皮膚、太いマユ。映画ベーブ・ルース物語に出演したウィリアム・ベンディックスに似たブラウンは、意外に日本語がうまい。伊丹空港に出迎えにいった戸沢代表は、のっけに「どうもご苦労さん」とあいさつされてびっくりしたそうだ。記者会見でも盛んにかたことの日本語を得意そうに使った。「ライスたいへんおいしい。ジャパニーズ・ビールもおいしい。スシもOK」カリフォルニアで約二か月日本の女性に日本語のレッスンを受けたそうだ。それになかなかのおしゃれ。ロッカーでユニホームに着かえるのに十五分もかかった。ズボンの長さを気にしたり、バンドのところにできるシワを何度も直したりしてつきそいの杣田マネジャーをいらいらさせたが、本人は「プロはみだしなみも大事。お客さんにみせるのだから、時間があればもっとすっきり着るんだが」とケロリとしていた。そのせいか阪神のシマのユニホームがよく似合った。「ひまをみて日本民族の習慣、エチケットを勉強したい」と二十一歳のインテリ投手はいっている。

1941年カリフォルニア生まれ。リバレーヒル・ハイスクールをへて、1958年ジューク大学に入学。二年後の1960年にカリフォルニア大学に転校、今春一月に卒業した。ジューク大学当時は三塁手。一年生のとき十八試合で四割二分、二年生では三十五試合で三割二分一厘の打率をあげ、その間に十六ホーマーを打った。カリフォルニア大学ではずっと投手。休暇にはセミプロ・チームの投手もやった。二年間で21勝4敗。速球が武器。宿舎は宝塚ホテル。1㍍88、90㌔、右投右打。連盟登録名はブラウン。
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岩名健治

2016-10-22 22:12:36 | 日記
1962年

「バッティング・フォームがくるったらすぐ岩名(健治=投手)に直してもらえ」というのが東映の各打者の合い言葉のようになっている。すなおな球とコントロールのよさでバッティング投手をつとめる岩名は文字どおり打者の恋人。平和台、大阪の遠征にも石原(碩)ら準一線級の投手が遠征メンバーからはずされたのに、岩名はかかせぬ存在としてチームと同行している。土橋二世というふれ込みで保井コーチ(現大洋二軍監督)が二年前入団させた軟式(大阪浪速工)出身のかわりダネだ。この岩名、プロ入り以前は大阪市内のとある会社の経理部に勤めていたれっきとしたサラリーマン。ソロバンは二級という銀行からでも口がかかりそうな腕前。いまでもソロバンを見ると会社に勤めていたときのことを思い出して、ちょいとはじいてみたくなるというへんなくせをもっている。「サラリーマン気質が抜けないですね。朝もみんなより早く目がさめてしまって困るんですよ」と本人は野球選手に徹することができない悩みを語っているが、そんなきちょうめんさが芦屋の宿舎竹園旅館の女中さんたちの人気を集めている。「まあ、そういっちゃなんですけど、たくさんいらっしゃる選手のなかにはずいぶん非常識な方もいますが、岩名さんはおとなしいいい人ですわ。いままでムリなことをいったことがないのは岩名さん一人ぐらいかしら」とべたぼめだった。そのせいか岩名選手だけは食事のメシの盛りも多い?というようなうわさまできかれる。
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川端英文

2016-10-22 21:50:38 | 日記
1963年

「これで巨人の選手? うそだあい」小さな子供までが信用しないそうだ。無理もない。昭和二十三年三月生まれの川端英文君(15)。面長の顔がまだあどけない少年だ。身長はあっても(1㍍78)体重はまだまだ(67㌔)。「十日に一度は必ずはかってみるんですが・・」なかなかふえないのが悩みだという。茶畑と温泉の町、伊東南中学を卒業したばかり。野球を本格的にやりだしたのも中学にはいってからだった。「ピッチャーをやらせて下さい」となんども先生に頼んだが、バッティングにほれられたおかげでダメ。三年生になったときは不動の四番でセンターを守っていた。これがちょうど近くの稲取に静養にきていた巨人・荒川コーチの目にとまった。昨年十二月のこと。同コーチは地元の知人のすすめもあってさっそく旅館であってみた。「雨が降っていたんでテストは部屋の中でした。素振りとピッチング・フォームをやってみせました」外野手のくせに堂々とシャドー・ピッチングをやったというから相当心臓は強い。「どうしても投手になりたかったから」と理由は単純だ。その度胸が認められたのかも知れない。合宿にころがりこんだのは三月末。七時半起床。朝のランニングはみんなといっしょだが午前中の自由時間は学校の予習復習が待っている。近くの東京高校定時制へ通っているからだ。午後からの練習もきついが現在はまだお手伝いさん的存在。ボールを集めたりバットを整理したり。しかし楽しみもある。「毎日三百球ブルペンで投げさせてもらえるんです」二日は来あわせた中尾コーチがつきっきりでみてくれた。まだ欠点だらけ。「女子野球にもノックアウトされるだろう」(武宮コーチ)だれもが笑って認めている。川端君も「いまはからだづくりの最中。しかたないですよ」と頭をかいているが「三年後には巨人の選手になれるかどうかをはっきりきめる」この荒川コーチのことばを胸にしまって、根気よくからだづくりにはげんでいる。
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黒田勉

2016-10-22 21:31:50 | 日記
1962年

「これでやっと四つになった」黒田(勉)は試合が終わりそうになると、こんな計算をしていた。四つになったとは南海からの勝ち星だ。三十五年に2勝、昨年は1勝だった。「入団してから四年間一度も勝てなかったのは南海や。出ては負け出ては負けていたんや。それがどんなかげんか、一昨年からぼくにツキがまわってきたんやね。きょうもこうして初白星を南海さんからかせがせてもろうたし・・・」黒田(勉)は帽子をつかんだりユニホームのソデを自分にひっぱってみたり、まるで子供のようにはしゃいでいた。「ストレートはたった六つしか投げなかった。それもはじめの方にね。あとは外角にスライダー、内角にフォークボール。左右にパッパッと散らして・・・。考えながら投げたんや」これが南海を八回一死まで四安打に押えた黒田(勉)のピッチングだ。鶴見工(神奈川県)時代四百㍍で連続二年全国大会に出場した陸上選手。オリンピック候補にのぼったこともある。高校を出ると地元の日本鋼管に入社。これが近鉄にはいる前の黒田(勉)の経歴。近鉄には七年前百万円の契約金で入団している。「去年までのぼくははっきりいって他の投手の引きたて役だった。昨年は徳久の・・・。それじゃあまり自分がかわいそうや。だからことしはどうしても一本立ちしたかった」ことしダメだったら思い切って商売がえしようと思ったそうだ。「でもこれで自信がついたから商売がえはやめや。やっぱり野球をやった方がいい」自分のことをしゃべり終わるとこんどは南海の話になった。「広瀬、野村、それにピートはたしかにこわい。でもことしの南海は四番以下にまるで迫力がないんだ。投げていても下位打線はでくの坊ばかりやものね。去年の南海なら下の方からバチンバチンと打ち上げてきたんや。杉山がいなくなっただけでも楽や。ことしのマウンドの上から南海を見てみると、杉山のしめていたウエートがこんなに大きかったのかとびっくりするものね」黒田(勉)はことしの南海をカモだといった。
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