1957年
今夏の全国高校野球選手権大会で活躍、プロ野球からねらわれていた埼玉大宮高の四番打者亀田信夫三塁手(18)は二十九日国鉄入りが決まり、数日中に東京有楽町の国鉄球団事務所で正式契約することになった。また同校の三番打者岸輝男中堅手(18)もすでに近鉄入りが決定している。
亀田三塁手の父親作治氏(56)は二十九日午後大宮市東町の自宅でつぎのように語った。「進学かプロ入りかで最後まで迷った。しかし本人はプロでやりたいようだからその気持を立ててやりたい。スワローズに親しみを感じているのは私も二十九年まで長い間国鉄につとめていたし、現在も長男から三男までが国鉄に就職しお世話になっているからだ。それに私自身、国鉄球団が誕生したころからスワローズの後援会会員でもある。信夫のプロ入りをすすめてくれる他の球団の人たちとも話し合ったがやはり国鉄より親しみの持てるところはなかった。私も東京へ出ていままで進学やプロ入りのことでお世話になった人たちに了解を求め、それから信夫のプロ入りをはっきりさせたい」
大宮高長谷川監督の話「亀田君は学校の成績もいいし、グラウンドに出ても勝負強いすぐれた選手だ。進学してもプロへいってもきっと立派にやってくれると信じている。どこへいくにしろ私はもちろん実家と本人の意思を尊重したい。岸君の方はプロ入りが確定的だときいている」
亀田、岸両選手は夏の甲子園大会で大活躍するまで中央球界に知られぬ無名選手だったが、甲子園大会の強打でいっぺんにストーブ・リーグの立役者となった。とくに大会で首位打者になった亀田は打てる大型内野手をほしがっているプロ野球のスカウトの目にとまり、中日、国鉄、阪急、南海、近鉄、大映からねらわれ、それに早大、立大、関大、法大、慶大などから進学をすすめられるなど大会後はスカウトの大宮参りがはじまった。しかし本人がプロ野球を熱望しているところから進学とノンプロの線はくずれ、プロ同士の争奪戦となり、南海がばく大な金額(一説には五百万円)を提示する一幕もあった。だが亀田の実家が鉄道一家(注・父は二十九年まで東鉄大宮機関区長、次兄鉄道教習所、三兄水戸鉄道局)であり、父親作治氏があらゆる好条件に目もくれず、国鉄を選んだものである。岸は亀田ほどの争奪戦はなかったが、いちはやく亀田をあきらめ、岸一本で話をすすめていた近鉄がさらった。なお亀田選手のプロ入りがいままで表面化しなかったのは父作治氏が「国体終了までプロの交渉はしない」という全国高校野球連盟の通例を守って一切プロとの交渉に応じなかったもので、二十八日国体から帰ってから急に話がすすんだものである。岸選手は国体前に近鉄入りが内定していたところから大宮高長谷川監督の命令で国体ではゲームに出場せず、スタンドで観戦していた。
亀田三塁手略歴 今夏の選手権大会では打力のチームといわれた大宮高の主将で四番を打ち4試合16打数、10安打、打率六割二分五厘をマーク。大会の最高打率者(注・甲子園には首位打者というタイトルがない)でビッグ4進出の原動力となった。好機に強いバッターで長打力もあり、足がおそいことと、肩がやや弱いことが難点だが、安藤(土浦一高)とともに内野手の双璧であった。五尺七寸、十八貫五百、右投右打。
岸中堅手略歴 亀田とともにクリーン・アップ・トリオの一角を打っていた。今夏の大会では4試合、15打数、4安打、打率二割六分七厘とアベレージはあまりよくなかったが、確実性のある打撃と足はスカウトたちに高く買われていた。五尺七寸、十八貫、右投右打。
今夏の全国高校野球選手権大会で活躍、プロ野球からねらわれていた埼玉大宮高の四番打者亀田信夫三塁手(18)は二十九日国鉄入りが決まり、数日中に東京有楽町の国鉄球団事務所で正式契約することになった。また同校の三番打者岸輝男中堅手(18)もすでに近鉄入りが決定している。
亀田三塁手の父親作治氏(56)は二十九日午後大宮市東町の自宅でつぎのように語った。「進学かプロ入りかで最後まで迷った。しかし本人はプロでやりたいようだからその気持を立ててやりたい。スワローズに親しみを感じているのは私も二十九年まで長い間国鉄につとめていたし、現在も長男から三男までが国鉄に就職しお世話になっているからだ。それに私自身、国鉄球団が誕生したころからスワローズの後援会会員でもある。信夫のプロ入りをすすめてくれる他の球団の人たちとも話し合ったがやはり国鉄より親しみの持てるところはなかった。私も東京へ出ていままで進学やプロ入りのことでお世話になった人たちに了解を求め、それから信夫のプロ入りをはっきりさせたい」
大宮高長谷川監督の話「亀田君は学校の成績もいいし、グラウンドに出ても勝負強いすぐれた選手だ。進学してもプロへいってもきっと立派にやってくれると信じている。どこへいくにしろ私はもちろん実家と本人の意思を尊重したい。岸君の方はプロ入りが確定的だときいている」
亀田、岸両選手は夏の甲子園大会で大活躍するまで中央球界に知られぬ無名選手だったが、甲子園大会の強打でいっぺんにストーブ・リーグの立役者となった。とくに大会で首位打者になった亀田は打てる大型内野手をほしがっているプロ野球のスカウトの目にとまり、中日、国鉄、阪急、南海、近鉄、大映からねらわれ、それに早大、立大、関大、法大、慶大などから進学をすすめられるなど大会後はスカウトの大宮参りがはじまった。しかし本人がプロ野球を熱望しているところから進学とノンプロの線はくずれ、プロ同士の争奪戦となり、南海がばく大な金額(一説には五百万円)を提示する一幕もあった。だが亀田の実家が鉄道一家(注・父は二十九年まで東鉄大宮機関区長、次兄鉄道教習所、三兄水戸鉄道局)であり、父親作治氏があらゆる好条件に目もくれず、国鉄を選んだものである。岸は亀田ほどの争奪戦はなかったが、いちはやく亀田をあきらめ、岸一本で話をすすめていた近鉄がさらった。なお亀田選手のプロ入りがいままで表面化しなかったのは父作治氏が「国体終了までプロの交渉はしない」という全国高校野球連盟の通例を守って一切プロとの交渉に応じなかったもので、二十八日国体から帰ってから急に話がすすんだものである。岸選手は国体前に近鉄入りが内定していたところから大宮高長谷川監督の命令で国体ではゲームに出場せず、スタンドで観戦していた。
亀田三塁手略歴 今夏の選手権大会では打力のチームといわれた大宮高の主将で四番を打ち4試合16打数、10安打、打率六割二分五厘をマーク。大会の最高打率者(注・甲子園には首位打者というタイトルがない)でビッグ4進出の原動力となった。好機に強いバッターで長打力もあり、足がおそいことと、肩がやや弱いことが難点だが、安藤(土浦一高)とともに内野手の双璧であった。五尺七寸、十八貫五百、右投右打。
岸中堅手略歴 亀田とともにクリーン・アップ・トリオの一角を打っていた。今夏の大会では4試合、15打数、4安打、打率二割六分七厘とアベレージはあまりよくなかったが、確実性のある打撃と足はスカウトたちに高く買われていた。五尺七寸、十八貫、右投右打。