プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

亀田信夫・岸輝男

2016-10-02 22:52:15 | 日記
1957年

今夏の全国高校野球選手権大会で活躍、プロ野球からねらわれていた埼玉大宮高の四番打者亀田信夫三塁手(18)は二十九日国鉄入りが決まり、数日中に東京有楽町の国鉄球団事務所で正式契約することになった。また同校の三番打者岸輝男中堅手(18)もすでに近鉄入りが決定している。

亀田三塁手の父親作治氏(56)は二十九日午後大宮市東町の自宅でつぎのように語った。「進学かプロ入りかで最後まで迷った。しかし本人はプロでやりたいようだからその気持を立ててやりたい。スワローズに親しみを感じているのは私も二十九年まで長い間国鉄につとめていたし、現在も長男から三男までが国鉄に就職しお世話になっているからだ。それに私自身、国鉄球団が誕生したころからスワローズの後援会会員でもある。信夫のプロ入りをすすめてくれる他の球団の人たちとも話し合ったがやはり国鉄より親しみの持てるところはなかった。私も東京へ出ていままで進学やプロ入りのことでお世話になった人たちに了解を求め、それから信夫のプロ入りをはっきりさせたい」

大宮高長谷川監督の話「亀田君は学校の成績もいいし、グラウンドに出ても勝負強いすぐれた選手だ。進学してもプロへいってもきっと立派にやってくれると信じている。どこへいくにしろ私はもちろん実家と本人の意思を尊重したい。岸君の方はプロ入りが確定的だときいている」

亀田、岸両選手は夏の甲子園大会で大活躍するまで中央球界に知られぬ無名選手だったが、甲子園大会の強打でいっぺんにストーブ・リーグの立役者となった。とくに大会で首位打者になった亀田は打てる大型内野手をほしがっているプロ野球のスカウトの目にとまり、中日、国鉄、阪急、南海、近鉄、大映からねらわれ、それに早大、立大、関大、法大、慶大などから進学をすすめられるなど大会後はスカウトの大宮参りがはじまった。しかし本人がプロ野球を熱望しているところから進学とノンプロの線はくずれ、プロ同士の争奪戦となり、南海がばく大な金額(一説には五百万円)を提示する一幕もあった。だが亀田の実家が鉄道一家(注・父は二十九年まで東鉄大宮機関区長、次兄鉄道教習所、三兄水戸鉄道局)であり、父親作治氏があらゆる好条件に目もくれず、国鉄を選んだものである。岸は亀田ほどの争奪戦はなかったが、いちはやく亀田をあきらめ、岸一本で話をすすめていた近鉄がさらった。なお亀田選手のプロ入りがいままで表面化しなかったのは父作治氏が「国体終了までプロの交渉はしない」という全国高校野球連盟の通例を守って一切プロとの交渉に応じなかったもので、二十八日国体から帰ってから急に話がすすんだものである。岸選手は国体前に近鉄入りが内定していたところから大宮高長谷川監督の命令で国体ではゲームに出場せず、スタンドで観戦していた。

亀田三塁手略歴 今夏の選手権大会では打力のチームといわれた大宮高の主将で四番を打ち4試合16打数、10安打、打率六割二分五厘をマーク。大会の最高打率者(注・甲子園には首位打者というタイトルがない)でビッグ4進出の原動力となった。好機に強いバッターで長打力もあり、足がおそいことと、肩がやや弱いことが難点だが、安藤(土浦一高)とともに内野手の双璧であった。五尺七寸、十八貫五百、右投右打。

岸中堅手略歴 亀田とともにクリーン・アップ・トリオの一角を打っていた。今夏の大会では4試合、15打数、4安打、打率二割六分七厘とアベレージはあまりよくなかったが、確実性のある打撃と足はスカウトたちに高く買われていた。五尺七寸、十八貫、右投右打。
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中山俊丈

2016-10-02 22:13:02 | 日記
1957年

中山は二十八日秋山とわたり合って十一回投げ切り九連勝したばかり。二十九日は雨の川崎で約一時間練習したという熱心な中日である。ユニホームの肩を濡らして中山はナインといっしょに宿舎に帰った。杉並区内に自宅を持っている天知監督だが、東京で試合があるときは家に帰らず選手と団体生活をする。その和が中日の強みなのだと断言する人さえいるくらいだから「オレばっかり使われて調子をくずしてしまう。えらい損だ」とグチをこぼす選手はいない。中山ももちろん「たよりにしてもらえるのはありがたい。体をつぶすのは自分の心がけしだいでしょう」といっている。雨と汗でぬれた肩をジャンパーでいたわりながら、中山が話す好調の原因は「コントロールがいいからでしょう。右打者の内角よりに入りがちのぼくのピッチングは、キャンプで投球練習に力を入れず、トス・バッティングの相手をして脚を腰をきたえたから安定性が出来て、それで外角へも球が散るようになったのだと思います」という。いいなおすと体を作った、その体でピッチングをやり出したらほかの心配がいらなくなり、自分の欠点をなおすことに集中できるということらしい。「だから最近は思うところへ球が行くからおもしろいですよ」と小さな一重まぶたの目で笑った。「シュートもあまり利かない。カーブもあまり投げない。ほとんど直球で勝負です」といっているので、どうしてそれで相手が打てないんだろうときくと「内角へくると思っていたら外角、外角と思えば内角とぼくが球を散らすのでヤマをはれないんでしょう」といってから「ぼくはそう思いますが、打てない理由は相手の打者にきいてもらった方が・・・」とこれは不敵な微笑。杉下が二軍に籍をおき、空谷、大矢根、伊奈がパッとしない。このままだと中山は酷使で参ってしまうのではないか。「そんなことはありませんよ。伊奈さんがもう肩がなおって出てくるし、徳永さん、大矢根さんが出てきます。そしたら少し休ませてくれるでしょう」十七貫五百、試合に出るときまってハカリの上に乗ってみる。二百匁から三百匁減っている。昨シーズンは一試合完投すると一貫匁は体重が減った。「体の調子も今年はすばらしくいいんです。夏は案外苦労しない方なので夏から秋にかけてが心配です」連勝記録も気にしない、勝てるときは勝てるし負けるときは負けるんですと笑ってみせた。ナイターになると夜の十二時に床につき、深夜放送をきいて午前二時に目をとじる。目がさめるのは十一時半。これがいま好調の中山投手の平凡な一日だそうだ。
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島原幸雄

2016-10-02 21:51:39 | 日記
1957年

さる五月三十日の阪急戦にスライディングして左足首を骨折、それから四か月休んだ島原が、毎日との二十一回戦にはじめて完投勝利を記録した。西村、島原が使えない投手陣は稲尾一人に頼ってきたが島原の復調は、優勝と日本選手権をひかえる西鉄にとって大きな朗報だろう。一日の十九回戦にも先発した島原は、不調で二回稲尾に救援された。この日は小森、橋本(力)のホームランで二点を失ったが、危なげなかった。「さすがに完投すると疲れる。きょうもあまり調子はよくなかったが、慎重に投げたのがよかった。まだまだ優勝まで試合があるので、徐々に調子をあげたい」といっていた。和田捕手は「シュートとスライダーがよかった。まだ低目の速球は落ちるようで伸びがない」というが、20連勝を記録した一日の稲尾にしろ、完投勝利の二日の島原にしても、リードに助けられて投げ切った。一回二死満塁に河野の右前安打などでとった三点が島原に自信をつけさせ、二、五、七回の得点が島原に完投能力をつけたわけだ。そのうち五、七回に決定打をのばした河野は、この日まで二割二分四厘、第二十六位の打率だった。河野は「やはりデー・ゲームになれば体の調子もよく、得意のねらい打ちもききますよ。それに毎日の投手は元気がなかった。これからはせめて二割六分に打率をあげたい」といっていた。いずれ日本シリーズで島原のスライダー、河野の渋いプレス・ヒットが大きくモノをいいそうだ。
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