1998年
140キロ台の直球、カーブ、スライダーを低めに丁寧に投げる大学ナンバーワン左腕。177センチ、70キロ。
1992年
彼はもうすぐ27歳になる。さすがに、ファームの選手の中では考え方がしっかりとしているし、社会人の本田技研でサラリーマン生活を送った経験もあることで、世間の厳しさも肌で知っているようだ。高村はドラフト外で入団し、この3年間、ずい分と苦労してきた。入団したシーズンに、右足のふくらはぎに重度の肉離れを起こして、治療に専念するために任意引退扱いになったこともある。こうした試練を乗り越え、一軍のマウンドも踏んでいるが、本人の話によれば「任意引退扱いになったシーズンの終了間際に、一軍の大洋戦に登板した時は本当に感激した」とか。コーチの高村評は「磨けば光るものがあるのに、こちらがアドバイスしても、なかなか結果が出せてない。本人も一生懸命になっているのは分かるんですが」と手厳しい。18試合というチーム内では最多の登板数が証明する様に、大きな期待を背負って実戦の中で腕を磨いていこうとしているところだ。ピッチングは、ノンプロでのキャリアがあるだけに、きっちりとまとめるのは上手い。しかしこれは、見方によっては安心感はあっても、豪快さには欠ける。このタイプの投手は、ファームでは使えても、一軍の好成績は望みにくい。多少の難はあっても、何か一つの大きな魅力がある投手が伸びるのだ。そういう面を引き出そうとして、コーチ陣も数多くマウンドに上げているのではないか。このところ、追い込んでからのスライダーの使い方が巧みになり、球のキレもよくなってきた。また、内角へ思い切って速球を投げ込むことが、できている。それまで、外角球で打者を打ち取ることばかり考えているようなピッチングをしていた高村にとって、これは収穫の一つとして上げられるだろう。試合で投げているのを見ると、彼がテーマを持って臨んでいるのがよくわかる。これは非常に大切なことであるから、残り試合も少なくなった中で、今週は何をテーマにした投球をするのか、それに注目している。
1995年
村田コーチが「頭のよさと度胸のよさ、これだけは書いといてよ」というルーキー。初先発のロッテ戦では中継ぎ投手陣の乱調で負け投手になった。そこで、というわけでもないだろうが、この日は一人で投げ切った。立ち上がりこそ高めに浮いて渡辺に二塁打を浴びたが、二回以降は内野安打2本だけ。村田コーチは早くも四回に完投を予測したという。カーブで追い込んで、決め球は内角に直球とシュート。日本ハムも当然、内角の速い球に狙いを絞ったが、ゴロの山を築くだけに終わった。明大の野球部に入って半年で中退。フリーター生活中に埼玉・所沢駅前で偶然出会ったのが当時プリンスホテルの監督だった石山・巨人ファームディレクター。「ぶらぶらしとるんだったら、プリンスで投げてみないか」との誘いが、破れかけた野球への夢を紡ぎ直すきっかけになった。「こんな形でプロで勝てるなんて、思わなかった。野球に戻してくれた人たちに感謝します」としみじみとつぶやいたのは、一度挫折した選手の本音だろう。両親の目の前で得たウイニングボールは人生の記念品。「両親にあげようと思ったけど、自分で持っていることにします」としまいこんだ。