1959年
僕の出身校は常磐線、平の少し手前になる内郷高校です。といってもあまりよくご存知のない方が多いと思いますが…。それほど野球には縁の遠い高校で、いつも福島商業に痛めつけられたものです。僕が野球をはじめたのは高校に入ってからですが小さい頃から野球はとても好きでした。ちょうど僕が二年生のときのこと、常磐炭鉱主催の大会があり、近くにある六、七校が激しく優勝を争いをした。僕も内郷高の遊撃手として出場、会心の本塁打を放ったのです。それが認められて常磐炭鉱に誘われたときのうれしかったことは、今でもなおはっきりと覚えています。常磐炭鉱を経てプロ入り後、一年余り二年生活を送ったわけですが、その間の思い出はきびしかった猛練習の一言につきます。そして自分でも意外なほど早く一軍に加えてもらうことができたときうれしかったことはみなさんの想像をはるかに越えたものでした。チームの人たちはとても親切にしてくれますし、僕もなお一層の努力を重ねてがんばっていきたいと思っています。
1960年
今シーズンすい星のようにデビューし、あれよあれよという間にホームランダービーのトップグループにおどり出た柳田選手(内高、常磐炭鉱)は常磐市生まれ。五日夜優勝決定の報に長兄進さん(35)=常磐炭鉱勤務=は喜びのあまり三番方の仕事を休んでしまったほど。一家をあげて大毎の優勝を祈っていた。さっそく同夜は東京の球団事務所へ西本監督とナイン一同、そして柳田利夫選手あての祝電を打ったが、それでも満足できず、六日には大毎チームが乗り込んでいる福岡平和台球場へ同じく二通の祝電を打った。とくに母親思いの利夫選手あてには母きんさん(57)の名で「ユウショウバンザイ、ヨクヤッテクレタ」という十七文字のキーがたたかれた。「五月末事故で一ヶ半ばかりブランクがあったのは痛かった」と兄進さんは残念がっていたが、五日現在打率二割五分三厘、ホームラン12本を放って堂々同チームのけん引車となった。利夫選手の活躍については地元ファンも心からの拍手を送っており、佐藤勇、斎藤晴夫両市議らが中心となってシーズンオフには全市をあげた後援会結成の機運が高まっている。プロ野球を見たことがない母きんさんも日本選手権には父利吉さん(59)と次兄栄さん(33)に連れられて「利夫を、そして大毎を応援してきます」と張り切っていた。
2007年
横浜市在住・柳田利夫
プロのレールを敷いてくれることになった。33年プロ入団決定。この時点で実力の世界での私は、なりふり構わず練習に力を注いだ。厳しい積み重ねが無いと一軍へのキップは無い。そう思いながら4ヶ月。ファームの監督であった西本さんが「柳、お前真面目に練習を積み重ねてきたから、上でやれる」と一軍へ昇格させてくれた。あとは結果を恐れず前向きに戦うだけ。33年から14年間、オリオンズ、巨人、南海と3球団に在籍。ここ迄やれたのは常磐湯本、そして先輩方の支援・後援が有ればこそと、感謝して居ります。ありがとう。常磐湯本に永遠に栄えある事を祈ります。
僕の出身校は常磐線、平の少し手前になる内郷高校です。といってもあまりよくご存知のない方が多いと思いますが…。それほど野球には縁の遠い高校で、いつも福島商業に痛めつけられたものです。僕が野球をはじめたのは高校に入ってからですが小さい頃から野球はとても好きでした。ちょうど僕が二年生のときのこと、常磐炭鉱主催の大会があり、近くにある六、七校が激しく優勝を争いをした。僕も内郷高の遊撃手として出場、会心の本塁打を放ったのです。それが認められて常磐炭鉱に誘われたときのうれしかったことは、今でもなおはっきりと覚えています。常磐炭鉱を経てプロ入り後、一年余り二年生活を送ったわけですが、その間の思い出はきびしかった猛練習の一言につきます。そして自分でも意外なほど早く一軍に加えてもらうことができたときうれしかったことはみなさんの想像をはるかに越えたものでした。チームの人たちはとても親切にしてくれますし、僕もなお一層の努力を重ねてがんばっていきたいと思っています。
1960年
今シーズンすい星のようにデビューし、あれよあれよという間にホームランダービーのトップグループにおどり出た柳田選手(内高、常磐炭鉱)は常磐市生まれ。五日夜優勝決定の報に長兄進さん(35)=常磐炭鉱勤務=は喜びのあまり三番方の仕事を休んでしまったほど。一家をあげて大毎の優勝を祈っていた。さっそく同夜は東京の球団事務所へ西本監督とナイン一同、そして柳田利夫選手あての祝電を打ったが、それでも満足できず、六日には大毎チームが乗り込んでいる福岡平和台球場へ同じく二通の祝電を打った。とくに母親思いの利夫選手あてには母きんさん(57)の名で「ユウショウバンザイ、ヨクヤッテクレタ」という十七文字のキーがたたかれた。「五月末事故で一ヶ半ばかりブランクがあったのは痛かった」と兄進さんは残念がっていたが、五日現在打率二割五分三厘、ホームラン12本を放って堂々同チームのけん引車となった。利夫選手の活躍については地元ファンも心からの拍手を送っており、佐藤勇、斎藤晴夫両市議らが中心となってシーズンオフには全市をあげた後援会結成の機運が高まっている。プロ野球を見たことがない母きんさんも日本選手権には父利吉さん(59)と次兄栄さん(33)に連れられて「利夫を、そして大毎を応援してきます」と張り切っていた。
2007年
横浜市在住・柳田利夫
プロのレールを敷いてくれることになった。33年プロ入団決定。この時点で実力の世界での私は、なりふり構わず練習に力を注いだ。厳しい積み重ねが無いと一軍へのキップは無い。そう思いながら4ヶ月。ファームの監督であった西本さんが「柳、お前真面目に練習を積み重ねてきたから、上でやれる」と一軍へ昇格させてくれた。あとは結果を恐れず前向きに戦うだけ。33年から14年間、オリオンズ、巨人、南海と3球団に在籍。ここ迄やれたのは常磐湯本、そして先輩方の支援・後援が有ればこそと、感謝して居ります。ありがとう。常磐湯本に永遠に栄えある事を祈ります。