プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

小木曽紀八郎

2023-09-16 22:59:19 | 日記
1966年
中日の小木曽紀八郎氏は中日シネラマ会館のボーリング場会計主任になった。「会計の仕事にもなれましたし、毎日毎日がすごく張りがありますよ。ボーリングのコーチもしていますが、将来はプロボーラーにも…と考えています」という。

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松本雄作

2023-09-16 22:55:32 | 日記
1966年
サンケイの松本雄作氏は、球団のあと押しで、広告業界にとびこんだ。東京・銀座にある第一広告の地方連絡局勤務である。仕事の内容は、民放各局を回ってCMフィルムの受け渡し、CM進行表の確認など。一月九日から勤めはじめたが、その勤務評定は、「いまはジミな仕事をしてもらっていますが、業界の様子をのみこむためには、それがいちばんいいからで、将来は広告取りにスポンサー回りをしてもらなければなりません。松本君はいかにもスポーツマンタイプで声が大きくハキハキしている。これは、どちらかというと文学青年型の多いこの社会では目だちます。テレビ局でも社内でも、松本君がいるとすぐわかりますからねぇ。おかげで第一広告に松本あり、と印象付けられるし、いいことですな」と、主任の中間芳郎氏。「入団してすぐ結婚したので、もう二つになる娘もいます。遊んでいるわけにはいかないので、話があると、すぐお願いしました。まだ、遊んでいる人も多いが、やはり独身で余裕のある連中ですねぇ。はたして新しい仕事が自分に向くかどうか迷い、また、野球についても完全にあきらめきれない。その気持ちはわたしにもよくわかるんですが、やってみないことには、自分に向く仕事かどうかもわからない。わたしとしては、思いきってとびこんでよかったですね。スタートが遅れれば、遅れるだけマイナスになりますからねぇ」はじめの間は電話に出るのもこわかったのが、いまでは相手方と少しくらいのトラブルが起きても、自分で出向いて解決できるくらい度胸もついてきたそうである。

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橋詰文男

2023-09-16 11:19:07 | 日記
1966年
東映で、左腕のワンポイント・リリーフでして名を売った橋詰文男氏も、いまは尼崎市にある日本高圧瓦斯工業の取締役営業部長である。「兄貴(芳男さん=34)が経営している会社で、三年ほどまえから、帰ってこいといわれていたんです。やめるとき、球団から就職をあっ旋してやるという話もあったけど、ポンとけって帰ってきた。これまでは、やるだけやれば遊べる世界で、その気持ちで六年間、大学時代をいれると十年間も遊ばせてもらった。まともにサラリーマンになったんじゃ、こうはいかないから、野球生活に悔いはないですよ。もう、この年になって遊びたいとも思わないし、まぁ、もっと本でも読んで勉強しておけばよかったと思うけど、いまは仕事の面では高卒の人にもかなわない。肩書こそ部長ですけどね。それに追いつくために、苦労しています。知識と経験がものをいうのに、その両方がないんだから、これまで頭を下げたことはなかったが、いまじゃ、下げっぱなしですよ。商売の辛さが身にしみてわかった。しかし、月給も五万円はくれるというから、めぐまれてますよ」と、肩書と現実のギャップを気にしながらも、ほっとした表情である。

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渡辺勉

2023-09-16 10:59:08 | 日記
1967年
阪急ブレーブスの丸尾千年次渉外部長は二十九日、新人選択会議で交渉権を獲得した仙台育英高の渡辺勉遊撃手(18)=宮城県七ヶ浜町七五=と仙台市元鍛冶町の「中竹」旅館で三回目の話し合いを行った。この結果、同選手から「お世話になります」の意思表示があり、阪急入りが決定した。さきの二回交渉で父親の留治郎さん(52)は「本人のやりたいことをさせたい」と語り、本人もぜひプロで力をためしたいといっていたことから、この日は条件面での細部折衝が行われ、同渉外部長の提示条件(契約金五百万、年棒百万円=推定)を了承したもの。同選手は一年生から同校の中心打者として大活躍、高校生活三年間に百七十試合に出場、3割9分台の高打率を残し、俊足、強肩、好打の三拍子そろった選手である。身長1㍍75、体重71㌔とバランスのとれたからだをし、野球センスは早くから注目されていた。なお、正式契約は十二月中旬の予定。


渡辺勉選手の話 入団が決まりホッとしました。一日も早く第一線出場をめざしがんばります。プロには技術プラス力が必要なので、来春のキャンプインまで、じっくり体力を養成したいと思っています。


1976年


「ホント、みな現金なんだから」と肩をすくめたのが内野手の渡辺勉。さる仙台でのロッテ戦。仙台といえば同内野手の出身地で、ここに遠征すると決まって渡辺家から果物などの差し入れがある。今回も父親・留治郎さん(57)がベンチを訪れミカンやバナナをどっさりプレゼント。ナインはさっそくご相伴にあずかった。そんなナイン、バナナを運ぶ前、決まって、「ツトムちゃん、いただきます」「ツトムちゃん、ありがとう」これには渡辺勉も「まいった」と一言いったあと、「ふだんはツトム、と呼び捨てなのに、仙台にきたらツトムちゃん…。何て現金な」

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渋谷誠司

2023-09-16 10:41:46 | 日記
1962年


「あたまへきちゃう。ここんとこKOばっかりだもんね」帽子をかなぐり捨てて渋谷は球場の医務室でだだっ子のようにすねた。右足のスネが血にそまっている。降板する前に松原のライナーを受けたときの傷だ。血があふれるほどの傷をがまんして投げ続けたのにマウンドを去ったのがくやしいらしい。「チクショウ、こんなケガなんかなんでもなかった。どうしてこう出るたびにホームランを打たれるんだろう。きょうので7本目。ぼく、両リーグを通じてホームラン配球王ですね。コントロールがないんだな。やはりノンプロで大したことなかっただけに、プロなんかとてもムリなんだ」たしかに渋谷はこのところ一試合おきにホームランされている、それも三度つづけて日本ずつの連続ホームランだ。「大洋も知っていたんですね。箱田さんに打たれたすぐあと、近藤(昭)という人すごい球をブルンと振ってきたもの。それにしても箱田さんて人は変な打ち方をしますね。手首だけで打ってくるみたいですね」足の治療が終わると背広に着替えて再びベンチの入り口へ。5勝目をあげられるかどうかのさかい目だけに、ベンチのまわりをウロウロしながら村田のピッチングに注目した。ゲームが終わると村田にまず最敬礼。そのあと5勝の感想をかんかんにいった。「村田さんに申しわけなくて。KOされて勝ち投手なんて情けなくなります。5勝ですか?ただ申しわけないだけです」わかったようなわからないような答えを残すと、ロッカーの跡片づけをつづけた。天知俊一氏は「最初セの新人王は城之内という評判だったが、いまや渋谷だ。ランナーの出たときのピッチングと、追い込んだときのピッチングと、追い込んだときにもっと遊びを覚えれば15勝は堅い」といっている。ところが渋谷は15勝についてこんな答え。「とんでもない。シーズンが終わるまでにあと2勝をあげればいい方です」新人王という言葉が出たときは大きな目をトンボのようにクルクルまわすだけ。オトボケも知っているずぶといルーキーである。

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