プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

渡会純男

2023-09-18 13:39:53 | 日記
1965年
大分県北海部郡佐賀関町、大字関2021、ここが渡会の生まれ故郷だ。昭和十三年九月四日、父松太郎、母千代の両親は健在で、六人兄弟の長男として生まれた。もちろん渡会も野球好きの少年として育っていった。純男少年の変わったところといえば左利きだったということぐらいだ。左ぎっちょということで、純男少年は右に直させられた。右投げ左打ちは、この名残りである。佐賀関中学から大分高校へ、この頃から野球が面白くてたまらないようになっていた。中学三年のとき、はじめて捕手のレギュラーを獲得した。一、二年は球拾い、大分高のときも同じだった。三年になって、一緒に南海入りした祓川とバッテリーを組んだ。プロ入り二年目には感激の一軍入り、この年に杉浦が入団し、渡会と同期に三浦もいた。三十四年は杉浦の活躍もあってペナント・レース優勝。その時、野村はすでに南海においては不動の四番打者だった。渡会に出場のチャンスはあっても、ピンチ・ヒッターである。打席は数える程である。多くて30くらいのものだった。そのころから森下や杉山のヤジは定評があったが、渡会もその仲間入りをした。試合に出られない渡会はいつの間にかヤジで、試合に出られない寂しさをまぎらわすようになったのだ。「オイ、渡会を呼んでこい」ブルペンにいる渡会のところに、鶴岡監督の伝令が飛ぶようにさえなった。ベンチに活気がないとき、鶴岡監督はムードを盛りあげるために、渡会を必要としたのである。森下や、杉山が、「渡会のヤジはオレたちより一枚上手やで...」と一目をおいているほどだ。もう一つ、渡会には南海一という特技がある。名バンター?となのである。鶴岡監督も、この渡会のバントは高く評価している。渡会にしてみれば、ブルペンキャッチャーだけでは満足できないのだ。だからバッティング練習で、他の選手が一球ですますところを、渡会は念入りに5球6球とバントを転がす。「百パーセント走者を生かすバントを目標にしているんです。自分は足は遅いし、もちろん自分は死んでもいい。それがボクの役目ですからね」ブルペン・キャッチャー、ベンチのムード作り、走者を進塁させるバント、渡会はこれを三つの役目だといっている。「渡会はよう働きますよ。働き者です。」藤江マネジャーが渡会を評してこう語っていたが、ナインの誰よりも球場入りし、誰よりも遅くまで残っているという。試合前の準備、そして後片付けを、もう習慣になったようにつづけている。「渡会もボクも一緒で九年目。よくやっていますね。浮かばれない地味な存在ですが、それを承知で黙々とやっている。ほんとに頭が下がります」同期の三浦の言葉である。「渡会がいるとチームのムードが違うやろ。ホークスに必要な選手や。ブルペンでボール一つ受けるにしても、真剣にやっとるで。ワシも渡会には感謝してるんや。ああいう選手が一生懸命やっているのが南海のいいところなんや」鶴岡監督も、渡会の存在価値を十分認めている。渡会は、杉浦の家に、二年ほど下宿したことがある。志摩子夫人はいう。「まじめないい方です。何事も一生懸命にやる。ということは立派なことですが、渡会さんはそれを実行しています。若いのに落ち着いておられますね」野村夫人正子さんもいう。「私もよく球場に行きます。終わってからも一人で後片付けをしておられますが、ちょっとやそっとではできないことですね。主人も手伝ってもらったりしているらしく、いつも、いい男だとなんていってます」渡会の給料は十万そこそこ。球場の往復は電車。きょうもあすも、ブルペン・キャッチャー渡会は、ボーン、ボーンと景気のいい音を立てて勝利を念じているだろう。

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佐藤元彦

2023-09-18 10:31:24 | 日記
1968年
「10勝ラインに到達したら式をあげるんだ」と大ハリキリなのは東京のエース佐藤元彦だが、このところ連投はつづくが一向に勝運に恵まれない。フィアンセ谷井和子さん(22)とは、従姉の紹介で交際して1年ちょっと。すでにそのお熱い仲は定評つきだ。彼が登板する日には必ずネット裏に、彼女の真剣な姿がある。東宝・藤本真澄専務の秘書をしているだけあってスゴイ才媛。「モトにはもったいない」と、ナインの声しきりである。佐藤はニヤニヤにさがるばかりだが、かんじんの勝ち星がさっぱりで、サエないことおびただしい。そのうえ6月に入って2度も愛車の事故。下宿近くの青梅街道でタクシーと、また上野駅そばで自家用車とつづいて、大クサリだ。「あんまり彼女のことに夢中になってるからサ」と冷やかされるだけだが、当の本人にしてみればまったく深刻。「よし、こうなったら15勝するまで結婚はおあずけだ。何としてもやってやる!」と猛烈なファイトで苦境突破を誓っている。


1969年


モト?おもしろい男だよ。ひょうひょうとして一寸捉えどころがない。いやあ練習熱心なヤツでね練習させときゃニコニコしてるよ!その割に欲がない?そうかなぁーいや、坊ちゃん育ちでガツガツしてないからそうみえるんだよ。以上が佐藤の性格診断だ。チームメートの評判は至極よろしい。一見、軟らかいムードの持ち主だが、生まれは火の国熊本だ。プロ球界では珍しい医者の息子である。7人兄弟の男5人の末っ子…。厳父は熊本市内の保健会館の専属医師で、本職は歯科である。余談だが、お医者さんの子弟というのは少なく巨人の藤田コーチ、中日の竹中選手くらいなものである。堅い家庭で育ったから勉強は小さいときからよくやって、熊本高に難なくパス。そして大した苦労もなく初志を貫徹して慶大に進学した。36年春である。しかし佐藤にとっては運の悪い時代といおうか、黄金児と謳われた渡辺泰輔(現南海)と同期で、とうとう最終学年まで、ベンチウォーマーの悲哀をかこってしまった。37年秋の慶大17シーズンぶりの優勝も、翌38年春の完全優勝も佐藤にとっては遠くで起きた出来事のようであった。しかり律儀な正確な彼は、逆境に負けなかった。そして、渡辺が8月18日(38年)、秋田の遠征先で右足親指のつけ根にヒビの入る負傷をしたとき、代役として登場。大活躍して責任を果たした。3年間の下積みはほんとうに長い背番号5のユニホームを着て彼がマウンドにあがっても、あれ、5番の新人はだれなの?とスタンドでささやかれた。そのとき政経4年の21歳。1㍍78、73㌔の体格は決して大きい方ではなかった。ところがこの代役はすばらしかった。東大2回戦に4-0と完封したのをきっかけに着実に星を稼いで、慶大の優勝に貢献した。その秋の早慶戦は優勝を賭けて行われたが、1回戦を復活渡辺が1-0ととり、2回戦も佐藤がぴたりと慶大打線を封じて1-0と制勝。シーズン終了後には早大江尻(現大洋)法大木原(近鉄ー大洋)の両エースを押えてベストナインに選ばれた。試合数7、投球回数46回、4勝1敗、防御率1.17が№1投手に推された内容である。卒業と同時にサッポロビールに入社、ノンプロ界で野球を楽しむことになった。41年、改めて東京からの誘いを受けてプロ入りを決意し、木樽、大塚、嵯峨野らとオリオンズのユニホームを着た。それから3年、1年目は2勝1敗、2年目が8勝8敗、そして昨年が12勝13敗…その歩みはのろいが決して退歩していない。また昨年暮に結婚して気力も充実。オープン戦(対大洋)でもチームの完投勝ち1番乗りして張り切っている。目標は全盛期の杉浦、皆川(ともに南海)の老たけたピッチングで、夢は少年時代からの世界一周旅行…もちろん恋女和子さん同道であることはいうまでもない。好き嫌いなないが豚肉が苦手。一時アパートの仮住まいがつづいたが、現在は杉並区久我山1-281に一戸を構えた。昭和18年1月1日生まれ。

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