1965年
大分県北海部郡佐賀関町、大字関2021、ここが渡会の生まれ故郷だ。昭和十三年九月四日、父松太郎、母千代の両親は健在で、六人兄弟の長男として生まれた。もちろん渡会も野球好きの少年として育っていった。純男少年の変わったところといえば左利きだったということぐらいだ。左ぎっちょということで、純男少年は右に直させられた。右投げ左打ちは、この名残りである。佐賀関中学から大分高校へ、この頃から野球が面白くてたまらないようになっていた。中学三年のとき、はじめて捕手のレギュラーを獲得した。一、二年は球拾い、大分高のときも同じだった。三年になって、一緒に南海入りした祓川とバッテリーを組んだ。プロ入り二年目には感激の一軍入り、この年に杉浦が入団し、渡会と同期に三浦もいた。三十四年は杉浦の活躍もあってペナント・レース優勝。その時、野村はすでに南海においては不動の四番打者だった。渡会に出場のチャンスはあっても、ピンチ・ヒッターである。打席は数える程である。多くて30くらいのものだった。そのころから森下や杉山のヤジは定評があったが、渡会もその仲間入りをした。試合に出られない渡会はいつの間にかヤジで、試合に出られない寂しさをまぎらわすようになったのだ。「オイ、渡会を呼んでこい」ブルペンにいる渡会のところに、鶴岡監督の伝令が飛ぶようにさえなった。ベンチに活気がないとき、鶴岡監督はムードを盛りあげるために、渡会を必要としたのである。森下や、杉山が、「渡会のヤジはオレたちより一枚上手やで...」と一目をおいているほどだ。もう一つ、渡会には南海一という特技がある。名バンター?となのである。鶴岡監督も、この渡会のバントは高く評価している。渡会にしてみれば、ブルペンキャッチャーだけでは満足できないのだ。だからバッティング練習で、他の選手が一球ですますところを、渡会は念入りに5球6球とバントを転がす。「百パーセント走者を生かすバントを目標にしているんです。自分は足は遅いし、もちろん自分は死んでもいい。それがボクの役目ですからね」ブルペン・キャッチャー、ベンチのムード作り、走者を進塁させるバント、渡会はこれを三つの役目だといっている。「渡会はよう働きますよ。働き者です。」藤江マネジャーが渡会を評してこう語っていたが、ナインの誰よりも球場入りし、誰よりも遅くまで残っているという。試合前の準備、そして後片付けを、もう習慣になったようにつづけている。「渡会もボクも一緒で九年目。よくやっていますね。浮かばれない地味な存在ですが、それを承知で黙々とやっている。ほんとに頭が下がります」同期の三浦の言葉である。「渡会がいるとチームのムードが違うやろ。ホークスに必要な選手や。ブルペンでボール一つ受けるにしても、真剣にやっとるで。ワシも渡会には感謝してるんや。ああいう選手が一生懸命やっているのが南海のいいところなんや」鶴岡監督も、渡会の存在価値を十分認めている。渡会は、杉浦の家に、二年ほど下宿したことがある。志摩子夫人はいう。「まじめないい方です。何事も一生懸命にやる。ということは立派なことですが、渡会さんはそれを実行しています。若いのに落ち着いておられますね」野村夫人正子さんもいう。「私もよく球場に行きます。終わってからも一人で後片付けをしておられますが、ちょっとやそっとではできないことですね。主人も手伝ってもらったりしているらしく、いつも、いい男だとなんていってます」渡会の給料は十万そこそこ。球場の往復は電車。きょうもあすも、ブルペン・キャッチャー渡会は、ボーン、ボーンと景気のいい音を立てて勝利を念じているだろう。
大分県北海部郡佐賀関町、大字関2021、ここが渡会の生まれ故郷だ。昭和十三年九月四日、父松太郎、母千代の両親は健在で、六人兄弟の長男として生まれた。もちろん渡会も野球好きの少年として育っていった。純男少年の変わったところといえば左利きだったということぐらいだ。左ぎっちょということで、純男少年は右に直させられた。右投げ左打ちは、この名残りである。佐賀関中学から大分高校へ、この頃から野球が面白くてたまらないようになっていた。中学三年のとき、はじめて捕手のレギュラーを獲得した。一、二年は球拾い、大分高のときも同じだった。三年になって、一緒に南海入りした祓川とバッテリーを組んだ。プロ入り二年目には感激の一軍入り、この年に杉浦が入団し、渡会と同期に三浦もいた。三十四年は杉浦の活躍もあってペナント・レース優勝。その時、野村はすでに南海においては不動の四番打者だった。渡会に出場のチャンスはあっても、ピンチ・ヒッターである。打席は数える程である。多くて30くらいのものだった。そのころから森下や杉山のヤジは定評があったが、渡会もその仲間入りをした。試合に出られない渡会はいつの間にかヤジで、試合に出られない寂しさをまぎらわすようになったのだ。「オイ、渡会を呼んでこい」ブルペンにいる渡会のところに、鶴岡監督の伝令が飛ぶようにさえなった。ベンチに活気がないとき、鶴岡監督はムードを盛りあげるために、渡会を必要としたのである。森下や、杉山が、「渡会のヤジはオレたちより一枚上手やで...」と一目をおいているほどだ。もう一つ、渡会には南海一という特技がある。名バンター?となのである。鶴岡監督も、この渡会のバントは高く評価している。渡会にしてみれば、ブルペンキャッチャーだけでは満足できないのだ。だからバッティング練習で、他の選手が一球ですますところを、渡会は念入りに5球6球とバントを転がす。「百パーセント走者を生かすバントを目標にしているんです。自分は足は遅いし、もちろん自分は死んでもいい。それがボクの役目ですからね」ブルペン・キャッチャー、ベンチのムード作り、走者を進塁させるバント、渡会はこれを三つの役目だといっている。「渡会はよう働きますよ。働き者です。」藤江マネジャーが渡会を評してこう語っていたが、ナインの誰よりも球場入りし、誰よりも遅くまで残っているという。試合前の準備、そして後片付けを、もう習慣になったようにつづけている。「渡会もボクも一緒で九年目。よくやっていますね。浮かばれない地味な存在ですが、それを承知で黙々とやっている。ほんとに頭が下がります」同期の三浦の言葉である。「渡会がいるとチームのムードが違うやろ。ホークスに必要な選手や。ブルペンでボール一つ受けるにしても、真剣にやっとるで。ワシも渡会には感謝してるんや。ああいう選手が一生懸命やっているのが南海のいいところなんや」鶴岡監督も、渡会の存在価値を十分認めている。渡会は、杉浦の家に、二年ほど下宿したことがある。志摩子夫人はいう。「まじめないい方です。何事も一生懸命にやる。ということは立派なことですが、渡会さんはそれを実行しています。若いのに落ち着いておられますね」野村夫人正子さんもいう。「私もよく球場に行きます。終わってからも一人で後片付けをしておられますが、ちょっとやそっとではできないことですね。主人も手伝ってもらったりしているらしく、いつも、いい男だとなんていってます」渡会の給料は十万そこそこ。球場の往復は電車。きょうもあすも、ブルペン・キャッチャー渡会は、ボーン、ボーンと景気のいい音を立てて勝利を念じているだろう。