1974年
「ことしもファームだ」という気持ちで、湯之元入りした益川。ひとよりも5㌢ほど長い腕をぶらぶらさせながら、仲のいい小林、永尾と組んでトスバッティングをやっていた。キャンプ初日からこんな気持ちでキャンプ入りしたのはわけがある。投手陣の軸となっている安田や渡辺などより上位にランクされながら入団したが器用貧乏。二年間はきょうな内野、あすは外野というのその日暮らしの連続で、田口二軍監督にクレームをつける毎日だった。本人ももうべんり屋がしみ込んでいた。ところが、益川の長い腕が注目された。目をつけたのは広岡コーチ。直感なのだろうか「いける」だった。からだのこなしもグラブさばきも日本人ばなれしている。一人、沼沢コーチも、ハッとしてそうだ。「広よ、あれおもしろいな」「うーん、赤坂コーチにきいたら100㍍を11秒台で走るという。二、三日様子をみようか」キャンプ前の予定では永尾を育てることにし、東条とポジションを争わせるつもりだった。ところがその永尾の相手をしていた益川が、突然に浮かび上がった。イタリア系アメリカ人の父親、ポール・ペチュタさんは朝鮮戦争で益川が一つの誕生日を迎える前に死んだ。それからはおばあちゃんのテツコさん(68)の手で育てられた。時代が時代だけにアイノコとからかわれ、けんかの連続だった。父親を恨み、母親の民子さんにも文句をいった。その民子さんは益川が五つの時に再婚した。小学校、中学校に入ってもけんかで明け暮れた益川の前に現れたのが、秋山武一さん(現初芝高校野球部長)だった。「マイク、ひとつ野球をやってみないか」親身になって話しかけてくれる人がいなかった益川は有頂天になって野球ととり組んだ。それが実って興国時代には四番バッターとして五十回大会に出場。四割四分と打ちまくって全国制覇の王役になった。野球をつづけるつもりで進んだのは近大。ところが、病院の給食係をやりながら学費をねん出するおばあちゃんの姿に耐えられず退学。日本熱学に工員として入社した。ヤクルトのスカウト陣に発掘されたのは、それから二年目。「ヨシ、一流になっておばあちゃんい家を買ってやろう」と意気込んだ夢も、徐々に崩れかかっていたやさきに広岡コーチの目にとまった。「こんな気持ちで野球に取り組めるのははじめて。楽しいもんですねえ」とマイクはいう。父親からゆずり受けた長い手と強肩にものをいわせ、目の前に飛んでくる猛ゴロを受け止める。一塁への送球も矢のように速い。腕が長く、ふところが深いから少々のイレギュラーもこたえない。「うちの堯にあのうまさと肩があったらなあ」と、いまでは荒川監督をうならせるほどだ。「みんな広岡さんのおかげ。この気持ちをわすれずにやります」益川はホリの深い顔に笑顔をうかべる。だが、問題はバッティング。リストの強さは山下に次ぐものを持っているが、いまはまだ、それを生かし切れない。二十日は左翼場外にとてつもないホームランをとばした。「うん、きっとモノになる。これはうちの…」広岡コーチのこの話、あとには「スター」とつく。
「ことしもファームだ」という気持ちで、湯之元入りした益川。ひとよりも5㌢ほど長い腕をぶらぶらさせながら、仲のいい小林、永尾と組んでトスバッティングをやっていた。キャンプ初日からこんな気持ちでキャンプ入りしたのはわけがある。投手陣の軸となっている安田や渡辺などより上位にランクされながら入団したが器用貧乏。二年間はきょうな内野、あすは外野というのその日暮らしの連続で、田口二軍監督にクレームをつける毎日だった。本人ももうべんり屋がしみ込んでいた。ところが、益川の長い腕が注目された。目をつけたのは広岡コーチ。直感なのだろうか「いける」だった。からだのこなしもグラブさばきも日本人ばなれしている。一人、沼沢コーチも、ハッとしてそうだ。「広よ、あれおもしろいな」「うーん、赤坂コーチにきいたら100㍍を11秒台で走るという。二、三日様子をみようか」キャンプ前の予定では永尾を育てることにし、東条とポジションを争わせるつもりだった。ところがその永尾の相手をしていた益川が、突然に浮かび上がった。イタリア系アメリカ人の父親、ポール・ペチュタさんは朝鮮戦争で益川が一つの誕生日を迎える前に死んだ。それからはおばあちゃんのテツコさん(68)の手で育てられた。時代が時代だけにアイノコとからかわれ、けんかの連続だった。父親を恨み、母親の民子さんにも文句をいった。その民子さんは益川が五つの時に再婚した。小学校、中学校に入ってもけんかで明け暮れた益川の前に現れたのが、秋山武一さん(現初芝高校野球部長)だった。「マイク、ひとつ野球をやってみないか」親身になって話しかけてくれる人がいなかった益川は有頂天になって野球ととり組んだ。それが実って興国時代には四番バッターとして五十回大会に出場。四割四分と打ちまくって全国制覇の王役になった。野球をつづけるつもりで進んだのは近大。ところが、病院の給食係をやりながら学費をねん出するおばあちゃんの姿に耐えられず退学。日本熱学に工員として入社した。ヤクルトのスカウト陣に発掘されたのは、それから二年目。「ヨシ、一流になっておばあちゃんい家を買ってやろう」と意気込んだ夢も、徐々に崩れかかっていたやさきに広岡コーチの目にとまった。「こんな気持ちで野球に取り組めるのははじめて。楽しいもんですねえ」とマイクはいう。父親からゆずり受けた長い手と強肩にものをいわせ、目の前に飛んでくる猛ゴロを受け止める。一塁への送球も矢のように速い。腕が長く、ふところが深いから少々のイレギュラーもこたえない。「うちの堯にあのうまさと肩があったらなあ」と、いまでは荒川監督をうならせるほどだ。「みんな広岡さんのおかげ。この気持ちをわすれずにやります」益川はホリの深い顔に笑顔をうかべる。だが、問題はバッティング。リストの強さは山下に次ぐものを持っているが、いまはまだ、それを生かし切れない。二十日は左翼場外にとてつもないホームランをとばした。「うん、きっとモノになる。これはうちの…」広岡コーチのこの話、あとには「スター」とつく。