1995年
日本ハムのドラフト3位、沼田浩投手(22=デュプロ)が大阪・堺の実家で渋谷、木村両スカウトから条件提示を受け、契約金8000万円、年棒1000万円で仮契約した。背番号は12と決まった。ドラフト会議直前まで他球団に社会人残留を示唆した最速152㌔の「隠し玉」右腕だ。「僕は地道なタイプ。ハングリー精神があります」と自己アピールも怠りなかったが、実は上手、横手、下手と腕が3種類の角度から出る幻惑投法が売り、社会人1年目には上手投げ。「制球を重視し、3年目にアンダースローにかえ、今年4年目は横手で投げてたんです」下手投げでも球速は140㌔を優に超えていたという。今夏の都市対抗予選、本戦では右かかとを骨折しながら、合計6試合を気力で投げぬいた。実家の堺は毒グモ騒動に揺れているが、他球団スカウト陣の目をかいくぐっての日本ハム入りし、スタミナ万全の変幻投法と、何やらクモ男のムードタップリ?「クモですか?うちの方は幸い、騒動も関係ないですよ」と言う沼田は、「プロ入りに不安はないです」ときっぱり言い切る。ドラフト隠し玉の存在以上にマウンドでも他球団を驚かせる上田日本ハムの秘密兵器になりそうだ。
1997年
日本ハム上田監督のかけは吉と出た。どん底のチーム状態、5位転落の危機を今季初先発の沼田が救った。「よう投げた」上田監督の汗ばんだ顔が久しぶりに緩んだ。「すごく緊張しちゃって」と初回か2死から、連打で瞬く間に先取点を奪われた。このままズルズル…が今季の日本ハムの悪いパターンだったが、打線が奮起して3回までに7点を挙げて試合をひっくり返した。「打線に勇気づけられました」しだいに緊張が解け、縦・横のスライダーとチェンジアップで西武打線を翻ろう。4回から7回まで無安打の3安打ピッチングで役目を果たした沼田は「自分をほめてあげたいです」と笑った。150㌔右腕も昨年のキャンプで右肩を痛め、半年間を棒に振った。少しでも肩の負担を減らそうと、今春のキャンプでは山根二軍投手コーチとマンツーマンでフォーム改造に取り組み、スリークォーターからサイドへ腕を下げた。この日は制球を第一に考え、スピードは控えめだったが「まだまだ伸びますよ。今後も先発でやってもらう」と、上田監督はローテ入り合格を明言した。チームも低迷して選手もおとなしくなってしまったが、ひと際静かな沼田が堂々言い切った。「残り試合、オリックスをおびやかす戦い方をしたい」今の日本ハムに必要なのは、これだ。
1998年
粘って粘ってゲームセットまで投げ続けた。日本ハム沼田が、3年目にしてプロ初完投のゴールにたどりついた。3球のチェンジアップを除けば直球とスライダーだけ。派手さはない投球に2年間の苦労が込められていた。入団当時の沼田は、150㌔を投げる剛速球投手だった。「でも速球に頼り過ぎてしまい」(沼田)右肩を壊し、サイドハンドへの転向を強いられた。「速球への未練はなくなりました」とようやく笑えるようになった。直球の最速は138㌔まで落ちたが、緩急と低めへの制球で勝負。この日も五回表の平井の左前安打まで外野への打球はなく、8回には130㌔の直球でフランコのバットを折った。今季2勝目でチームを再び単独首位に導いた沼田。上田監督は「(先発)4人目に計算してもいいだろう」と合格点を与えた。女房役の野口も「低めに投げれば抑えられる。そういう野球を初めて知りました」本塁打攻勢だけでなく、粘る地味な野球が日本ハムに備わってきた。
日本ハムのドラフト3位、沼田浩投手(22=デュプロ)が大阪・堺の実家で渋谷、木村両スカウトから条件提示を受け、契約金8000万円、年棒1000万円で仮契約した。背番号は12と決まった。ドラフト会議直前まで他球団に社会人残留を示唆した最速152㌔の「隠し玉」右腕だ。「僕は地道なタイプ。ハングリー精神があります」と自己アピールも怠りなかったが、実は上手、横手、下手と腕が3種類の角度から出る幻惑投法が売り、社会人1年目には上手投げ。「制球を重視し、3年目にアンダースローにかえ、今年4年目は横手で投げてたんです」下手投げでも球速は140㌔を優に超えていたという。今夏の都市対抗予選、本戦では右かかとを骨折しながら、合計6試合を気力で投げぬいた。実家の堺は毒グモ騒動に揺れているが、他球団スカウト陣の目をかいくぐっての日本ハム入りし、スタミナ万全の変幻投法と、何やらクモ男のムードタップリ?「クモですか?うちの方は幸い、騒動も関係ないですよ」と言う沼田は、「プロ入りに不安はないです」ときっぱり言い切る。ドラフト隠し玉の存在以上にマウンドでも他球団を驚かせる上田日本ハムの秘密兵器になりそうだ。
1997年
日本ハム上田監督のかけは吉と出た。どん底のチーム状態、5位転落の危機を今季初先発の沼田が救った。「よう投げた」上田監督の汗ばんだ顔が久しぶりに緩んだ。「すごく緊張しちゃって」と初回か2死から、連打で瞬く間に先取点を奪われた。このままズルズル…が今季の日本ハムの悪いパターンだったが、打線が奮起して3回までに7点を挙げて試合をひっくり返した。「打線に勇気づけられました」しだいに緊張が解け、縦・横のスライダーとチェンジアップで西武打線を翻ろう。4回から7回まで無安打の3安打ピッチングで役目を果たした沼田は「自分をほめてあげたいです」と笑った。150㌔右腕も昨年のキャンプで右肩を痛め、半年間を棒に振った。少しでも肩の負担を減らそうと、今春のキャンプでは山根二軍投手コーチとマンツーマンでフォーム改造に取り組み、スリークォーターからサイドへ腕を下げた。この日は制球を第一に考え、スピードは控えめだったが「まだまだ伸びますよ。今後も先発でやってもらう」と、上田監督はローテ入り合格を明言した。チームも低迷して選手もおとなしくなってしまったが、ひと際静かな沼田が堂々言い切った。「残り試合、オリックスをおびやかす戦い方をしたい」今の日本ハムに必要なのは、これだ。
1998年
粘って粘ってゲームセットまで投げ続けた。日本ハム沼田が、3年目にしてプロ初完投のゴールにたどりついた。3球のチェンジアップを除けば直球とスライダーだけ。派手さはない投球に2年間の苦労が込められていた。入団当時の沼田は、150㌔を投げる剛速球投手だった。「でも速球に頼り過ぎてしまい」(沼田)右肩を壊し、サイドハンドへの転向を強いられた。「速球への未練はなくなりました」とようやく笑えるようになった。直球の最速は138㌔まで落ちたが、緩急と低めへの制球で勝負。この日も五回表の平井の左前安打まで外野への打球はなく、8回には130㌔の直球でフランコのバットを折った。今季2勝目でチームを再び単独首位に導いた沼田。上田監督は「(先発)4人目に計算してもいいだろう」と合格点を与えた。女房役の野口も「低めに投げれば抑えられる。そういう野球を初めて知りました」本塁打攻勢だけでなく、粘る地味な野球が日本ハムに備わってきた。