プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

石原修治

2015-01-24 21:10:35 | 日記

1977年

近鉄に掛布二世?が現れた。ドラフト二位ルーキー石原修治内野手(18)=182㌢、72キロ、右投げ右打ち=がその期待の若手。掛布と同じ千葉県の出身(我孫子高)。中央球界では全くの無名だが、西本監督が一目見ただけで「アイツはスターになりよるで」と太鼓判を押したほど。西本監督といえば49年の対阪神オープン戦。当時無名の新人で打席に立った掛布の素質を見抜いていた人。「バッティングセンスは素晴らしいものがある。リストが柔かくてフォームもしっかりしている。将来は必ず出て来る選手や」こういって報道陣に予言したものだった。その掛布の姿を現在の石原にみるという。「パンチ力はいいし、顔、スタイルどれをとってみてもスターになる素材を持っている」鬼の監督がこれほどホメるには、やはりそれなりの魅力を感じているからだろう。甲子園経験は一度もなし。中央球界では全くの無名であった。それでいてドラフト2位に指名したのには、やはり将来性を高く買ってのことである。一番の魅力は160メートルもの超特大ホーマーを記録したパンチ力。昨年4月の招待試合、左翼場外はるかかなたに消えたボールに、両軍ベンチはただあっけにとられたとか。並の選手ではいくら力んでも生まれないホームランであった。秘めた素質に根っからの練習好き。こんなところからも掛布二世の声がかかるゆえんである。やはり昨年春のことだった。足をネンザして、全治1か月の診断。しかし「休みたくありません」といい張ってつづけた練習がまたすごかった。痛む足を庭の木にしばりつけ、素振りに暮れたのである。念願のプロに入ったいま、石原の目標は一も二もなく掛布である。「同じ千葉県の出身ですし、トシも近い。ボクも努力すれば…。精いっぱいがんばってみます」手薄な内野陣に泣く西本近鉄。石原にとっては大きなチャンスといえる。
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宮崎一夫

2015-01-24 11:20:36 | 日記
1952年

五尺六寸そこそこの上背では小柄な部類に属する投手である。しかし、体重は十七貫近くある。そうなると小さいということがいえなくなる。骨格にもたくましさがあって、ちょうど小牛の感じである。肩幅の広い、肉のしまった体質は、どうみても野球選手向きである。年令、僅か二十歳、非常に若い、将来を大いにたのしませてくれる投手である。宮崎一夫とは、こんなプレイヤーである。四月十三日、川崎球場でのことだ。場内アナウンス嬢が、「ピッチャーの交代をお知らせ致します。毎日のピッチャーは宮崎であります」…。スタンドのあちこちでは、ファンが、何かこそこそと小話を始めた。そして、拍手がまき起こったのだ。川崎といえば工業都市として有名なところだが、バクチの盛んなことでも著名なところだ。野球場に近接する競輪場は、きょうも一攫千金をねらう人で一杯だし、競馬場も近いスポーツ・バクチの街といわれるところではあるが野球の好きなことでも秀出した空気を持っている街でもある。それは工業都市なるがために数多くの工場が立ちならんでいる。コロンビア、東京機器(トキコ)いすゞ自動車、東芝などその煙突は数えきれない。そして、各工場には、それぞれ強い野球チームが編成されている。ノンプロでは有名な日本コロムビア、川崎いすゞ、トキコなどは、みんなここで産まれたのだ。この宮崎だって、川崎市からプロ入りした一人ではないか。スタンドには、宮崎が出ることを予期して入場した者もあろうが、多くは場内アナウンスによって初めて宮崎の登板を知ったようなものだ。だから、思わず郷土の選手に拍手を送ったのである。ところでこの日の宮崎はプロ入りして間もない、地元川崎では初登場という精神的な弱みを少しもみせず、堂々投げたが、余り芳ばしくなく途中またバトンをゆずらねばならなかったが。試合が終わってファンがぞろぞろと引き上げていったが「コロンビア時代より、宮崎はスピードがついたね」「横手投はやめたようだ。オーバー・スローの投手になった」などという言葉が残されていた。逗子開成高の投手から、川崎コロンビアに入った宮崎の名は、早くから南関東になり渡った好投手だったが、コロンビアの一年間で大体の投手としての基礎が完全になったのである。内海監督(現毎日コーチ)の秘蔵子で手をとられて教えこまれたものだ。かくて内海監督が毎日に帰った今春、監督とともに宮崎も毎日入りしたのだった。約三カ月間、今度は若林監督の下で、ミッチリ練習を積むことになった。コロンビア時代は横手投一本槍だったが、プロに入ってから、その非を悟り、上手投をおぼえるようになった。最もその裏には、横手投げに専心している中に肘に痛みを感じ、致し方なくオーバー・スローに持っていったところ、その痛みがなくなったばかりか、以前にも増した球威がつくようになったのである。四月六日の沼津での対東急戦にデビュー以来、宮崎は次々と登板、七月以降は西鉄、西鉄、近鉄、大映に四勝して、新人としては抜群の五連勝を記録したのである。湯浅総監督が大分前のある日、こんなことをいったことがある。「二軍の若い選手の中で、近く使いものになるのは投手では和田勇と宮崎だ。それに打撃で山内、守備で島田といったところだろう」と。してみると宮崎は総監督の期待を鮮やかに実現させた新人である。宮崎のピッチングの特長といったら何だろうか。それはスピードボールとシュートの鋭いことが第一である。一見、何でもないように見受けられがちだが、打つ方にいわせると、クセのある球だそうだ。今年のオールスター戦でのフリーバッティングで、山本監督が、この宮崎を投手にして各選手に練習させたが、あとで何故宮崎などを相手に打つのだと聞いたら「別所の推薦としてやったのだ。あの球は、そう簡単に打てるものではない。重いよ」といっていたが、その通りで直球も、不調の場合はともかく、すべてが、スライドしていて、不気味な味を持っている。本人はフォームを完成させるために目下一生懸命といっているが、二軍の練習がきいたのであろうか、コロンビア時代にくらべるとメッキリスピードが増し、コントロールが完全となった。身体全体が非常に柔軟性を帯びているし、腰の安定したところが良い。しかし宮崎の主武器とするところは、本人がもらしていると同じく、シュートである。このシュートが調子よく打者の手許にくいこんでくると、ちょっとした打者では到底打ちこなすことが出来ないし、好打者連でも眼をまわしている。宮崎が崩れる場合というのは、このシュートがコントロールされないで、コースが狂い、打者の思う壺に投げられた時である。カーブにはまだまだ研究の余地があるが、マウンド度胸は末吉同様、新人ばなれしたものをみせている。和田勇とともに明日の毎日のスターである。
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小武方信一

2015-01-22 21:19:39 | 日記
1954年

岩手高より一昨年富士製鉄釜石に入社、同年夏東北代表として都市対抗に出場したが、一回戦に名鉄局に2-0で敗れ、昨年の産別大会には川崎トキコを接戦に破り、優勝候補大昭和製紙に善投しながら味方の貧打で惜しくも2-0と敗れている。しかしこのとき以来ノン・プロ界に小武方ありと一躍名をあげ、その後夏の都市対抗にも出場して、準決勝まで勝進んだ好投手。彼の力量は昨年末のアジア選手権大会の出場選抜メンバーに加えられていることだけでも判るが、アジア大会では三度登板して日本チームのために大いに気をはいた。南海ホークスのみではなく大半のプロ球団から勧誘を受けていた大物投手である。
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広島尚保

2015-01-22 20:54:01 | 日記
1955年

広島尚保(右投右打、18才)浪華商高、五尺八寸五分、十九貫、ドラゴンズのエース杉下が甲子園に出場した投手のうちでも素質という点では一番だと折紙をつけている浪商のエース、春の選抜では谷本とのリレー策で、立教高、小倉高、平安高、県尼崎高、桐生高をつぎつぎに撃破、晴れの優勝をとげた、この間の成績は登板試合5、投球イニングス数は28回、被安打15、奪三振20、与四球10という優秀な成績を残し、桐生の今泉や若狭の松井、小倉の畑などとともに優秀選手に選ばれている。中日が好きで、伊豆からドラゴンズの門を叩いた。
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岡本教平

2015-01-18 19:40:35 | 日記
1954年

今夏の都市対抗野球で鐘化を相手にノーヒット・ノーランの快記録を樹立して一躍注目を浴びた川崎トキコの岡本教平投手(20)=掛川西高=は既報のようにパ・リーグ近鉄パールス入りが噂されていたが、このほど同球団と正式契約を行った。同投手は五尺六寸、十五貫五百右投右打でシュートが武器である。
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青雲光夫

2015-01-18 18:58:47 | 日記
1977年

阪神・青雲投手がテスト生のルーキーながら、安芸キャンプのメンバーに入った。掛布でさえ入団した年は甲子園残留だった。今年はメンバーも投手12人、野手16人と、昨年に比べて10人減。これだけでも異色の大抜擢といえるだろう。昨年秋の新人テスト。青雲はテッポウ肩にものをいわせて、遠投でなんと120メートルも投げた。首脳陣の度肝を抜いた自慢の肩は、ピッチングでも他のテスト生を圧倒。阪急・山口に似た力のピッチングに山口二世の呼び声が飛んだものだ。日に日に上がる青雲株。かつての大先輩、村山(開設者)でさえ、太鼓判を押した。「こいつはものになるで、球に力があるし、フォームもまとまっている。甲子園のキャンプのとき、一目見ておこう」といっている。青雲の名前から、すぐに頭に浮かぶのが青雲の志という言葉。いなその名の通り、安芸キャンプで汗と泥にまみれる青雲。「とにかく無我夢中でやるだけです。力いっぱいがんばります」言葉少ないが、意志の強い好青年、江本、古沢らにまじって思い切ったピッチングを続けている。皆川コーチだけでなく吉田監督の期待も大きい。「青雲を安芸キャンプのメンバーに入れたのは、それだけ素質があるとみたからです。それと若い人にチャンスを与えることによって、また全員の刺激になればと思っています。厳しい人選の中から選ばれた青雲は、死にもの狂いでやってくれるでしょう」吉田監督のねらいはでっかく、第二の掛布的存在になってもらうことである。掛布も入団したときは全くの無名。それでも努力次第ではスターになれるという見本だろう。それがひいては他の若手にも希望を持たせ、チーム全体に活気が生まれるというものである。176センチ、72キロ。プロ選手としては決して恵まれた体ではない。そのうえ2年間のブランクがある。平田高(島根)を卒業して神奈川大野球部へ、しかし2年の夏どうしてもプロでやってみたいと心を決め中退、田舎の印刷会社に勤め、営業マンをやっていた変わり種。だが野球をやりたい気持ちには変わりなかった。そして昨年9月、テストマッチを受けた先が巨人だった。ここでも力は認められ「合格したものと思ってくれ」と、あるスカウトから耳打ちされた。だが待てど暮らせど合格通知はこない。全くのナシのつぶてであった。たまりかねて阪神のテストを受けたわけである。「だからなんとかして巨人を見返してやろうという気持があります。そのためには早く認められるようになりたい。これはボクの意地です」本人のヤル気もさることながら、呑み込みの早さでも早くも非凡なところを見せている。つい先日のことだった。皆川コーチがフォークボールに似た握りの、沈む球を教えた。ところがその場で納得してしまったから皆川コーチもびっくり。「先天的にセンスを持っているのと違うか。徹底的に鍛えれば、ほんまに楽しみやで」と報道陣にもふれてまわるほどだった。一躍脚光を浴びるようになったルーキー青雲。長田球団社長にも「名前がいいですがな。順調に育ってほしいものです」と目が止まり、まずは幸運なスタートを切った。あとは青雲の努力でどこまで伸びるか。ファンは第二の掛布を待っている。
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西野忠臣

2015-01-18 15:12:42 | 日記
1960年

キャンプ・インいらい、シートノックでとくに目をひくのが三塁を守っている西野だ。右投げ右打ち、広島県の忠海高出身で二年生。投手で入団したことしも投手として発表されているが、工藤と松下の抜けた穴を埋めるべく内野に転向したもの。高校では二年生まで遊撃を守り、三年生になってから強肩を買われてマウンドをふんだが、三番を打ち、むしろ荒けずりな打力が高く買われていた。投手としての西野は1メートル78、70キロの体格を利してスリー・クォーターから投げ込むストレートと、ナチュラル・シュートがよかったが、昨年夏の二軍の北海道遠征のあとで転向した。「長嶋さんや広岡さんと一緒にやろうというんですから、レギュラーになるのはたいへんなことだと思ってますが…」と語りながらも不敵な笑顔をみせるあたり、たのもしさがあふれている。キャンプでは内外野あわせて十六名しかバッティングをやらせなかったが、西野もそのうちの一人として打っていた。色黒で、みるからにたくましく、中西(西鉄)をひとまわり小さくした感じで、一緒にノックを迫っている長嶋も、「肩がいいし、球をこわがらない。素質はあるネ」と評している。球をこわがらないところは水原監督の好みにピッタリだが、広岡、土屋、藤本伸にない野性味をもった西野のデビューは、打力しだいであんがいはやくなりそうだ。
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田中一朗

2015-01-18 14:29:19 | 日記
1961年

「田中一殊勲の代打同点ホーマー」三十三年のシーズンには、よくこんな見出しが新聞紙上を飾ったものだ。それが三十四年、三十五年と鳴かず飛ばずで、つい昨年末、自由契約選手となり、南海から去ることになった。契約更改の席上で、ユニフォームを脱ぎ、中モズの寮長役をしてくれないかと要請されたとき、田中は「故障つづきで満足な成績を収めることができなかったぼくなのに、こんな形でも南海に残してくださろうとしているのはありがたいと思う。あくまでも現役でやりたいが、転機にきていることは自分でもわかるし、よく考えてから結論を出す」と、このポストにつく気配が濃かった。ところが、「自由契約選手にしてくれ」と申し出て、本人の希望で自由契約選手になってしまった。「会社の厚意はよくわかる。しかし教育係になってくれというのはユニフォームを脱いでくれということ。ぼくにはまだ選手としてやるという道を選ぶ権利はある。それで自由契約選手にしてもらった。来てくれというところがなかったとき、同じ選手を辞めるのなら、ぼくはあっさり野球を捨て、ほかの仕事をするつもりだ。だから南海には残らない」選手でなかったら野球をよすという考えも彼らしい一途なところ。
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東谷篤

2015-01-18 12:27:24 | 日記
1962年

「あいつはまじめだし、よくなるぜ」と柚木監督が推奨している若いバッターに東谷外野手がいる。ことし、ウエスタン・リーグで優勝を飾った南海のファームで、中盤から終盤にかけてグンとのしてきた若手だ。クリーンアップを打てるまでに成長して首脳陣は早く一軍に送りこもうと必死だ。名門浪商から南海入りして、ことしが二年目の東谷は、1メートル78、72キロと何よりも体がいい。そのうえ脚力、肩も悪くないとあって、三拍子そろった好選手。阪神とのオープン戦には姫路、岡山両球場に晴れて参加、しかもスターティング・メンバーに顔を連ね、岡山での試合は、セの最高殊勲選手村山から左中間に二塁打を奪って気を吐いた。「うちは毎年誰かファームから一軍選手が誕生したもんだが、最近は森中ぐらいで、ちょっと使える選手が出ていない。それだけにこのあたりで投手でもいいし、バッターでもいいから、いきのいい選手を出さねば…」と語っていたのはファームのコーチから現役に帰り咲いた岡本だ。コーチ時代の岡本が懸命に若手を育てあげようとしていたのは知られているが、その中で嘱望されていたのが白野、中島、小泉、山本らで、東谷はとくに目をかけられていたわけではない。その東谷が一躍一軍への道のトップに躍り出た。「外野手でよく打てる選手を…」と期待している首脳陣に、東谷の台頭は明るい誤算だ。岡本、森下、野村、広瀬のあとを継ぐ無名選手のスター誕生にあと一歩。東谷のこんごの精進を期待したいものだ。
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玉井英紀

2015-01-18 12:00:49 | 日記
1961年

こころで、少しばかり、陽の当らない二軍選手の苦労話を紹介しよう。ことしでプロ入り三年目の玉井英紀選手だ。玉井選手は、今治西高(愛媛県)のピカ一として鳴らし、二年前西鉄入りしたが高校時代痛めた肩が治りきらず投手としては芽が出なかった。ところが、高校時代四番を打った打力を買われて、昨シーズン中途から打者に転向した。そして、ウエスタン・リーグでも二番を打ったり、六番を打ったりしたが、打力はともかく、はじめての二塁守備には、まごついたらしい。「それでもやり甲斐がありますよ」ときわめて意欲をのぞかせているが、打力の点ではとくに豊田選手が目をかけており、玉井もこれに力を得て張り切っている。「豊田さんには、いつもワキが甘いから、注意しろといわれるんです。プロの投手はシュートが多いから、どうしても打球が飛ばないんです。でも、今シーズンは三年目でしょう。ことしもしダメだったら、それこそとり残されてしまいますからね」そしてまた、「二軍といっても、ウエスタン・リーグで三割をマークしないことには、一軍昇格の夢は果たせません。だから、昨年の経験をいい土台にして、今シーズンはこの打率三割に挑戦するつもりでいます」華やかな一軍選手と違って二軍選手の願いは切実であり、きびしいものを感じさせる。
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平岩文夫

2015-01-18 11:27:24 | 日記
1961年

「うちの補強は12球団随一だよ、こんなに補強している球団が他にありますか、え?」と、このところご機嫌の石原代表ではあるが、このほどまた名古屋商大卒の平岩文夫選手と契約した。この平岩選手は、身長1・68メートル、体重90キロとお相撲さんにしたいような体格である。学生時代にはキャプテンとして外野と捕手をこなすほどの器用さがあり、その怪力はすばらしいという。四年間の在学中でホームラン12本をカッとばし、契約する前に駒沢球場で練習したときには、20本くらい打ったうち6~7本はスタンドに入れ、2本は完全な場外だった。「背は低いが、体が非常に柔軟で、足も早い方だ。いうならば西鉄の中西君を小型にしたような選手だ。東映の代打要員としてのびていってもらいたいものだ」と石原代表の言葉。水原監督のもとでどんな選手に鍛えられるか、平岩の努力いかんでは、東映から第二の中西が誕生するかもしれない。
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山本兵吾

2015-01-17 16:05:11 | 日記
1960年

このほど専修大のピカ一山本兵吾投手(24)の入団が決定したが、これは倉敷工の杉本に次ぐ投手陣強化の第一歩。ところがこの山本投手は、広島県は福山市の出身、誠之館高を出たとき、広島のテストを受けてはねられ、専修入りしたという逸話の持主。久森事務局長にいわせると、「四年間というと三十二年の春だが、どうも覚えがないんでねあまり小さかったので目立たなかったのかも知れんな」とのこと。この山本投手は、今シーズン専修大でバリバリ売り出したもので、春が8勝2敗で最優秀投手、秋が8勝2敗で最高殊勲選手という、素晴らしい活躍ぶり。広島のテストを受けたぐらいだから、地元で好きな野球がやれるならというので、文句なく広島入りを表明した。1メートル72、64キロという体格は、プロの投手としては、ちょっと小柄、むしろノンプロ向きというので、先輩や野球部はプロ入りを反対したものだが、山本自身は、どれだけやれるかやってみたいというので、プロにふみ切ったもの。投手としての身上は、「やはり技巧的なピッチングで、ことしそれが急速に進歩した。東都六大学通にいわせると、「山本は、投げる人がいなくなったので、責任を感じたんだ。だから今シーズンよかったのは精神的な面だ」という人もいるが、山本は「長谷川さん、備前さんと、技巧派の名人、ベテランがいるので、そこから学んでいきたい。しかしプロへ入った以上は、スピードをつけること、下半身を鍛えること」といっている。
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上杉芳則

2015-01-17 11:35:47 | 日記
1962年

上杉選手は、数度にわたる新人テストのうちから、ただひとり合格した右投げの投手。身長1メートル75、体重86キロで同じ軟式野球出身の、東映の土橋投手に似た、がっしりした体格をしている。「高校時代は硬式だったが、卒業後は軟式をしばらくやっていた。どんな苦しいことがあってもへこたれることなく、精進します」というしっかりものである。
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下須崎詔一

2015-01-17 08:59:52 | 日記
1962年

下須崎選手は、今夏の甲子園大会に、南九州代表として出場した、鹿児島商の主将。しかし晴れのヒノキ舞台は、右足骨折のため不幸にして踏めなかった「大会前の練習中に、右足骨折をしてしまった。松葉杖をついて、入場式を見ましたが、残念でつい涙を流してしまった」という純情青年である。しかし激しい闘志の持ち主だけに、西鉄入りに踏み切った。右投げ右打ち、身長1メートル74、体重72キロで、素質のあるのが打力だ。
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畑口健二

2015-01-16 22:51:54 | 日記
1965年

畑口健二(18) 身長1・78メートル 体重八〇キロ 左投左打 背番号62 外野手。
彼は大洋ホエールズの研修生である。彼の一日は実にめまぐるしい。朝は九時起床。身のまわりをかたずけ掃除をすませると十一時からは厳しいトレーニングがまちかまえている。諸先輩にまじり約二時間彼は真剣になって体力造りに精を出す。ナマけたり、たるんだりしていると、すぐ先輩やコーチたちから畑口たるんどるぞ!と雷が落ちる。研修生の身分であるだけに少しの気のゆるみも許されない。苦しい辛い練習が終わっても、彼は休む暇もない。練習の次に必要な学問の勉強が待っている。彼は今法政大学付属第二工業高校夜間部に通っている。横浜高校を中退して飯より好きな野球をやりながら勉強しているのだ。学校への通学は自転車だ。足腰を鍛えるためにも、これが一番いいそうだ。夕食をかき込む暇もなく五時に大洋の合宿を出る。帰宅する頃はもう日はどっぷりと暮れ、時計は十一時を指す。帰るやすぐ、もうすっかり冷えきった夕食をとる。しかしこれで彼の日課が終ったのではない。シーンと静まりかえった室内練習場で、あるいは外でバットの素振りを何十回ともなく繰り返す。床に就くのはきまって十二時を過ぎるという。練習を終えた午後のひとときは、学校の予習に、復習に余念のない彼である。隣室の先輩新治選手はこんな彼の良きアドバイザーであり、家庭教師でもある。苦手な英語はきまって新治選手に見てもらう彼である。こんなスケジュールいっぱいの生活を送っている彼を支えているのは早く一人前の選手になりたい!これだけだ。だから彼はいう。「辛くっても、ちっとも苦じゃないです。僕には大きな夢がありますから」と…。彼の目標はなんでも近藤和彦選手らしい。左打ちの共通点もさることながら、あのすばらしいバッティングとグラウンド上でのマナーの良さにあるのだろう。今日も彼は元気いっぱい多摩川グラウンドを走りつづけている。
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