プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

近鉄テスト生

2015-01-16 17:42:10 | 日記
① 金城晃世投手・・・・左投スリークォーターの剛速球を投げる投手で高校では軟式テニス。全く野球は素人だったそうでコントロールに難? 

② 井上重信投手・・・・右オーバースロー球威コントロールともいまいち。自衛隊出身。

③ 東新昇内野手・・・・右投・右打ショート・サードを守っていた。1年下でテスト採用。打、走で難あり。

④ 釜野照義外野手・・・左投・左打シュアーなバッティング。守・走で難あり。
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鳥坂九十九

2015-01-09 21:46:37 | 日記
1976年

プロ選手のアルバイトは相変わらず盛ん。「給料が安いし、何もやらずにオフを過ごすのはもったいない」というのが大半の理由だが、ファームの選手にとっては貴重な?収入源でもある。郷里の小豆島に帰って左官屋さんを手伝っているのが、近鉄・鳥坂九十九投手。毎年、道路工事などのアルバイトをしているが、不況の煽りからもう一つ賃金がよくないとか、「左官屋の仕事はよくもうかりますよ。それに大阪にいても金をつかうだけ。クニに帰って親孝行を兼ねたアルバイトは一席三鳥です」と、秋季練習がすむと早速帰郷したものだった。
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ロン・大森

2015-01-09 21:22:52 | 日記
1964年

広島にロン・大森という内野手がいる。シアトル出身の三世で、日本で野球をすることがたった一つの望みだと、昨年も広島のテストを受けたことがある。ことしも再び来日して自費で日南キャンプに参加、白石監督に頼み込んでやっと入団が許された。二年越しの念願がかなって大森は大喜び。それこそ天にも昇る心地がしたという。あこがれのユニホームを着たときは、「どう?よく似合うでしょう。スタイル満点でしょう。故郷へこの写真を送ります」と誰かれなしにユニホーム姿を見せびらかしていたほどだ。ところが大森は日南キャンプで左足の膝を痛めたのがたたって、いまだに試合に出たことがない。大した故障でないと思ってビッコをひきながら練習していたところ、ヒビが入っているとわかってガッカリ。「もう少し早くわかっていたら・・・。損をしちゃった」としょげている。しかしこの大森は広島の人気者。なにかにつけて話題をまき散らす。日本語はペラペラ。食事も日本食OKで、好物はおさしみ、たくあんとか、ナインと一緒に合宿の食堂で、「うまい、うまい」と大盛りの御飯をパクついている。
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及川宣士

2015-01-09 20:11:14 | 日記
1965年

二十九日の阪急線に先発して5回投げて4安打の1点。四回、ウィンディに右翼へたたきこまれただけであとは速球を外角へ集めて文句なしのピッチングをした及川は「チームのみなさんのお蔭です。とにかくうれしいです。オープン戦にはいってから3連敗(四試合)してるので、また負けるかなと試合前はイヤな気持でした」おとなしい及川は、いつも無口なほうだが、この日ばかりはさすがにうれしそうにニキビ面をほころばせていた。「監督さんからお前はいつもオドオドして投げとる。もっと自信をもって胸をはって投げてみろ、打たれやせんといわれて、その通りにしたんです」と初勝利の喜びをこう洩らしていた。及川は、昨秋の特訓でフォーク・ボールとスライダーの新兵器を身につけてからはメキメキと頭角を現して、今では別所コーチの秘蔵っ子にまで成長した。及川は東北人特有の粘り強さもあるのだろうが、性格がのんびりしているのがいい、と変な買われ方もしている。それには、こんな話もある。二十七日の仙台のゲームも先発がわかっていながら、両親には知らせなかった。このため釜石に住んでいる父親の辰雄さん(56)と母親のヒロエさん(53)は、とうとう息子の晴れ姿を見ずじまい。及川は、「仙台まで汽車で五時間もかかるでしょう。高校時代は、それで合宿に入ったんですヨ。オヤジたちには、連絡しなかったから、来るはずはありませんヨ」と至ってのんびりしたもの。そんな及川に別所コーチは、「もう一回、開幕までに登板のチャンスをつくってやりたい。今度はひとつ完投させて自信を持たせるようにしよう」と期待をかけている。
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吉本安徳

2015-01-09 19:41:06 | 日記
1965年

高知キャンプで阪急の青田ヘッド・コーチは、ふたりの選手に目をつけた。ひとりは快足のトップ・バッター候補として一躍クローズ・アップされた阪神山本コーチの実弟山本外野手。もうひとりが、吉本内野手である。吉本は昨年もウエスタン・リーグで活躍、シュアーな打力とキビキビしたプレーが光っていた。青田ヘッド・コーチは就任早々、さっそくこの吉本に目をつけた。「カンのいい選手だ、足も速い。それにリストが強い。鍛えようによってはいい選手になるゾ」西本監督は吉本に青田ヘッド・コーチが目をつけたと聞いたときに、ニヤリと笑ってこういった。「うん、あいつ(吉本)はいかにもアオさんの好みの選手だ。おもしろい」吉本はオープン戦のメンバーに加えられた。二塁には御大スペンサー、遊撃にはベテラン河野、三塁には大熊をはじめ岡島山口らがしのぎをけずっているので、アリのはいり込むスキもない。だが、吉本はスペンサーの控えとして守りを固める時に起用された。スペンサーもこの吉本にはなにかと気づいた点をアドバイス。「経験不足だからいろいろまずいプレーがある。そのままにしておいては進歩がないから、助言を与えてやるのが、オレの務めでもある」青田ヘッド・コーチとスペンサー日米球界の怪物に目をつけられ、励まされる吉本はラッキー・ボーイといってよいだろう。
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円子宏

2015-01-08 22:32:53 | 日記
1958年

三十年、農大のエースとしてプロ入りした円子投手も、その後大成せず、今シーズン限りで退団、ノンプロ三重交通入りすることが決定した。三十年入団したシーズンはかなり健闘して、その将来性を楽しませたが、三十一年は伸び悩み、今シーズンもカムバックを期待されながらとうとう不振のうちに終わってしまった。円子投手も、「もし今シーズンだめならあっさりとプロから足を洗いたい」といっていたので、今度のノンプロ入りは、本人も納得の行くところ、「これからもう一度やり直しだ」という円子投手の今後に期待したい。
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福本万一郎

2015-01-08 22:26:03 | 日記
1973年

日拓ホームがフライヤーズを買収したあおりを食って解散したノンプロ日拓観光の五選手が六日、プロ入りした。日拓が多摩川でテストをしていた七選手のうち五選手を採用したもので、ノンプロ時代、予想もしていなかったプロ昇格は、いわば二階級特進といったところ。福本万一郎投手の二十六歳を筆頭に二十二歳が最年少で年齢的にも中途半端な感じ。おまけに「みんな中々いい素質なんだが、これ…といった所のないプレーヤーばかり」(田宮監督)というわけで、晴れて日拓の支配下選手になったものの、前途は多難。「プロへ踏み切った以上は、どこまでやれるか、とにかく自分の力を全部出して体当たりしてみたい」と全員口を揃えているが、若手もパワーの違うプロ選手に混じってどこまでやるか。さしあたっての活躍の場は、イースタンだが、文字通りの「出向社員」からどんなホープさんが飛び出すか。話題の選手とは別の興味のあるところ。
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宣山明

2015-01-07 23:14:59 | 日記
1960年

宣山明投手…(19歳、宇部商)、右投げ右打ち、身長1㍍71、体重62㌔

・夏の全国大会の山口県予選では準々決勝で敗退したが、第一戦の対下関西高戦では2安打、16三振の快投をやっている。外角低目へのコントロールのある速球を生命としているが、カーブはまだ甘い。打力もあって夏の3試合では11打数6安打3打点、打率五割四分五厘をマークしている。十月二十六日広島市民球場で行われたカープの新人募集テストに応募した五十一人の中から投手四、内野手一人が残され、さらにフルイにかけられた末、宣山投手一人が採用となったもの。やっぱりテストはやってみるものと関係者は大喜びだったが、このテストの遠投でホーム・プレートから中堅バック・スクリーンに軽々と投げ込んで門前コーチを驚かせた強肩の持ち主がいたそうだがこの方は採用にならなかったらしいが惜しい気がする。
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雑賀幸男

2015-01-07 22:57:59 | 日記
1964年

同じ関大出身でも広島の雑賀は西川ほど話題になっていない。大学時代はシャープな打撃を売り物にして高く評価されていたが、あきっぽいファンは関大のスラッガー雑賀が、広島にいることさえいつの間にか忘れていた。その雑賀が一軍のベンチ入りした。「ボクなんか、まだまだと思っていますよ。ポッと出がすぐ働けるなんとそんな甘い考えは持っていませんが、何事も勉強だと思います」雑賀は腰を痛めてファームでも余りパッとした存在でなかった。その雑賀に復調のヒントを与えてくれたのが米山コーチだった。「大学時代のフォームを思い出せ。それがオマエにもっとも適しているのだ」
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唐崎信男

2015-01-07 22:52:59 | 日記
1964年

首位をかけた激戦の続く南海にまた新しい話題の主が生まれた。西鉄戦で走りに走った唐崎である。唐崎は国貞の活躍に刺激されてベンチ入りした小泉や東谷、中条らと同期の四年生。ベンチ入りホヤホヤの唐崎が南海カラーまる出しのがめついベース・ランニングを見せて鶴岡監督を喜ばした。南海にはテスト生からスターにまで成長した選手が多い。その唐崎も今でこそ将来有望といわれているが、入団当時は無名のテスト生だった。出身は福岡県の豊津高。いわゆるカベ(バッティング練習専用捕手)として入団したのだから常に忘れられたような存在だった。この唐崎が首脳陣の目にとまったのは快足のたまものだといえる。柚木コーチは、その快足を買って捕手から内野、さらに外野手へと転向させ、腕っ節の強さを利用して打撃に生きるようアドバイスした。真面目な唐崎は一生懸命練習に打ち込んだ。それがやっと認められて先日のベンチ入りとなったものである。話題の快走をやってのけた唐崎は、「無我夢中だった。なにがなんでも本塁をとってやろうという気持だったが、もう少し余裕を持ってプレー出来るようにならなければ・・・」と真剣な表情で反省、「やっぱりファームと一軍とではすべてにスピードが違いますね」とも話していた
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岡田忠弘

2015-01-07 22:29:44 | 日記
1960年

古くはエース米川、それに土橋と、いずれも軟式野球出身の投手だが、このところオープン戦で、すっかり自信をつけた岡田忠弘投手も、明大の軟式野球出身である。だから、岡田は三代目ということになる。ところでこの岡田というのが変わっている。三十三年春のテストに参加したのだが、足のはやいこと、腰のバネのよいことに眼がつけられ、採用された。もちろん投手として二軍に編入され、精進がはじまったのだが、バッティング・ボールを投げるのがせい一ぱいで、中にはレギュラーの連中がいやがるのもいた。投手としての基礎がみっちりできていないのだから、死球を食わせられることもあったからだ。二年目の三十四年は、どうにか格好がつき、公式戦には五イニング投げているが、印象はコントロールがわるいということだった。ただ、心臓の点ではなみなみならぬ持主で、これがこんどのオープン戦に大いに役立っている。だから投手としてのテクニック、インサイド・ワークは、今後に残された課題で、これをペナント・レースという大事な試練場で、岡田がどのように身につけていくかどうかに、今後の成長いかんがかかっているようだ。ところが、面白いことに軟式出身四代目の投手がいることだ。それは、この春入団した、大阪の浪速工業出身の岩名投手である。これは保井コーチの友人の紹介によって、テストして入団させたものだが、現在ファームで猛練習中である。それにしても東映はどこまでも、軟式投手に因縁の深いチームである。
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