プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

塩津義雄

2023-09-15 17:09:44 | 日記
1964年
塩津は33年大毎に入ってきたとき「これはスラッガ-になるぜ」と別当監督を喜ばせたものである。それから六年、キャンプのたびにことしのホープには必ず名前を連ねるのだが、いつも一シーズン70打数までいったことがない現実、そこに塩津のウィーク・ポイントが出ているような気がする。つまりキャンプの王様、バッティングはぞくにいう観兵式で実戦的でないのだ。気も弱い。


1986年


「久びさに鹿児島から大物打者登場?」と話題になった塩津義雄外野手だ。長距離打者育成では定評のある別当監督が惚れこんで、キャンプでのフリーバッティングを見ていると壮観だった。だが、いざ実戦になるとモロい。またキャンプの季節がくると強打をもって鳴る大毎オリオンズの主力打者、山内や榎本や葛城といった面々でさえ「あいつには負けるよ」という豪打をみせる。今度こそ…とみていると、実戦ではまたも練習のようにはいかない。256試合出場374打数84安打、7ホーマー、打率・225で終わった。

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佐藤竜一郎

2023-09-15 16:58:47 | 日記
1973年
電電東京の佐藤竜一郎外野手(22)=東京農大出、178㌢、73㌔、右投げ右打ち=の入団を発表した。佐藤は昨年のドラフト会議で大洋から6位指名されたが、勤務先の事情で入団せず、大洋はさきの産業対抗野球大会終了後、再度入団交渉を続けていた。技術的にはまだ未熟だが、パンチのある打撃で将来性を買われている。


ノンプロの電電東京からプロの大洋ホエールズに移った佐藤竜一郎外野手(23)=国見町出身=は福島三中、保原高時代にピッチャーとして活躍、俊足でも知られていた。県警本部警察学校に勤める父親の佐藤善一郎さん(51)と母親の照子さん(51)は「本人も相当の決意だろうと思う。活躍を見守ってやりたい」と話している。

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プロ野球OB選手引退後

2023-09-13 11:10:29 | 日記
安岡正博 ワタミ羅沙店 見習社員
森田斌  ミドリ安全工業
半沢士郎 高田馬場のスナック支配人
宮本和佳 北日本石油
田代照勝 新橋にラーメン屋
入谷正典 藤木企業の系列会社 港の仕事
山田裕  コック
斎藤勝博 ハンカチーフ、スカーフの卸売K
辻野欣也 保険飲料メーカーY社
神谷定男 ゴルフ練習場の手伝い
大隈伸行 東京エージェンシー
田中允  読売新聞普及部
藤本伸  神田のY繊維卸問屋
山崎正之 新宿でレストラン経営
山本英規 ボーリング場勤務
上条皇裕 印刷会社営業
八幡英男 K婦人用品の卸会社
渡辺不二男 大都魚類
塩原明 アサヒカントリー倶楽部支配人付フロント主任
倉高新始 生地卸問屋
篠田勇 Yゴム生産管理課員
渡辺博文 第一広告
枝村勉 お茶屋の主人
小坂佳隆 蒲焼屋開業
篠田壮平 京浜工業設計
鵜沢達雄 上田動力工業株式会社
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山田直政・三平孝広

2023-09-09 15:31:39 | 日記
1969年
山田直政(19・1年)、三平孝広(19・1年)両投手は一年の巨人生活で球界にオサラバ。二人はまだ必死にプロ球界につながろうとして、山田は産経、東京、三平は西鉄に、昨年の秋季練習でテスト生として加わったが、いずれも不採用の冷たい宣告を受けた。昨年まで寮長だった球団の鈴木光さんは「かわいそうで言葉もかけれなかった。何かあったら相談にこいよ、とはいってあるのだが…」といつまでも心配している。「巨人に入団しながら川上監督とまともに話をしたことがない」-これが二人のプロ生活一年間の感想。再起を祈ろう。

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堀田徹

2023-09-09 15:11:15 | 日記
1984年
巨人軍の背番号90が、ユニホームを脱いだ。去る2月22日、任意引退を公示された堀田徹選手(20)である。京都商業では一塁を守っていたが、巨人では外野手。そして今年から地肩の強さを買われて投手に転向したばかり。「クビになったんじゃなく、自分からやめたんです」と前置きして語る。「宮崎の(2軍)キャンプへ行った直後ですが、練習前のキャッチボールをしていたら、突然左ヒジに激痛が走ったんです」トレーナーや医師に診てもらったが、原因は不明。数日たっても痛みはひかず、ボールも5㍍投げるのがやっと。「国松2軍監督や武宮さんは「治ればまだやれる」と言ってくれましたが、僕はこれはもうアカンと思って、やめることにしたんです」プロ野球生活わずか2年。めいった感傷などみじんもなく、「背番号90といっても、マスコミが勝手に騒いだだけで、僕にとって長嶋さんは、あくまでも背番号3ですから」今後のことは「ヒジが完治してからボチボチ考える」そうだ。

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タティス

2023-09-08 15:30:54 | 日記
2000年


頼もしい助っ人がトレード期限ギリギリで加入した。新外国人、ラモン・タティス投手は身長191㌢、体重93㌔の大型左腕だ。今季はヤンキース傘下AAA級コロンバスに所属していたが、チーム事情と本人の希望が折り合わず、フリーの身になっていた。球団では昨年オフにも獲得に動いていたが実現せず、この上ないタイミングで入団が決まった。昨年は、AAA級ダラムで12勝を挙げる働きをした最速150㌔の速球派左腕。現在、同じ左腕のオーミーが左ヒジに違和感を訴えて戦線離脱しているため、ウィッテムを解雇してまでタティスを獲得した。先発ローテーション入りの期待が掛かる。会見の日は、練習を優先するため、わざわざインタビューを受ける時間を遅らせる熱意を見せた。「自分の持ち味はスピード。ファームで調整していけば150㌔は日本でも出せる。先発で投げたい」と自信を見せた。

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安藤元博

2023-09-07 19:53:02 | 日記
1962年
東映の新人安藤元は東京六大学リーグでもまれてきた投手だけあって、ふてぶてしいほどのピッチング。ときたま打者をなめきったようなスローボールをまじえシュートやカーブもコーナーぎりぎりに決まっていた。六回投げ、被安打2で無失点。

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橋野昭南

2023-09-07 19:49:42 | 日記
1962年
左腕巽、橋野が先発、ともにシュート、カーブに落ちるタマをまぜて投げたが、巽はスタミナ不足で四回西鉄に長短打を浴びた。二番手の荒川もドロップがやや良かったが、そのあとの配球が悪く3連続安打されて加点された。西鉄の橋野は球速もあり、四回まで国鉄打線を無安打に押さえたが、五回徳武に内野安打されたあと、一塁けんせい悪投で動揺、土屋に二塁打されたあたりまだ若い。走者を出したあとのピッチングが今後の課題だ。

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岩崎忠義

2023-09-07 19:42:30 | 日記
1981年
テスト生として自主トレに参加していた前ロッテの岩崎忠義外野手(32)の採用が沖縄キャンプを前に1月30日決定、契約が行われた。推定年棒540万円、背番号「49」。14年間在籍したロッテを、不振と私生活上の不祥事から昨年暮れ自由契約になった同選手の死にものぐるいの努力が認められたものだが、大沢監督は、こういうギリギリまできた男の心機一転の心意気を大いに買う監督。とりあえずは守備要員ということになるだろうが、岩崎の努力の具合によっては打の成長も期待される。「今までの自分は余った。生まれ変わって出直します」という岩崎の瞳にルーキーの輝きを見た。岩崎が新天地でどんな働きを見せるか、楽しみだ。

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葛川健司

2023-09-07 19:32:13 | 日記
1986年
葛川健司氏(元日本ハム・外野手)は人命を預かる病院へと、一大転身を遂げた。昨年10月28日に受けた自由契約通告。「まだ続けたい」と思う反面、「7年もやってモノにならなかったんだから、転機の時機かも」という気持ちが交錯した。迷った揚げ句、醍醐寮長に相談したところ、同寮長がかつて働いていた東京・板橋の「板橋中央総合病院」を紹介してもらった。仕事の内容は、健康診断や人間ドックのセールス。学校や会社などの団体が相手で、まずはお得意様回りから始め、慣れてきたら新規開拓をすることになる。板橋中央総合病院で2週間の研修を積むと、グループの横浜旭中央総合病院が勤務先となった。「まだ野球がやりたくなるかもしれない。でも草野球だっていいですよね。プロ野球界にいたことは、いい思い出にすればいい。それに、仕事にだって生かしていけばいいんですからね」人の健康を守るのが葛川氏の新しい使命となる。

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長谷川達栄

2023-09-07 19:23:30 | 日記
1986年
長谷川達栄氏(元日本ハム・投手)は福島(南会津郡只見町)に帰り、実家が営む「長谷川農場」に勤務。主に苗木やキノコの缶詰を栽培、製造しているが、雪の深いこの地方では春になり雪がとけなければ仕事が始まらない。昨年、解雇者が発表になったとき、長谷川氏の名前はなかった。「ようし、来年こそなんとか一軍へ!」と気合を入れた矢先、突然1人追加の形で解雇通告を受けたのだ。振り返れば入団の年(58年)、ファームでいきなり3勝をあげ、その右腕を嘱望されたものだが、その後は尻すぼみ。「ヘンないい方ですが、1年目は運がよかったんですよ。その運を持続できなかったんです。でも、これからは人の胃の中に入る物を作るだけに、神経を持続させなくては、親父の手ほどきを受け、一から勉強です」長谷川氏の第二の人生は、雪解けとともにプレーボールされる。

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上林成行

2023-09-06 22:39:19 | 日記
1983年
南海、広島と二度のドラフトを辞退し、法政大、倉レ岡山へ進み、倉レで近鉄がドラフト三位に指名し、入団。ウエスタンで最多勝利の成績をもち、期待されて一軍に登用されたが実績をあげることができなかった。現在球団職員として勤務。

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杉本郁久雄

2023-09-06 22:32:10 | 日記
1964年
投手の杉本は長身から投げこむ速球とドロップにすごい角度があり、魅力的なサウスポーである。制球に自信をつけることが必要だが、平松(岡山東商)森安(関西)とともに今大会屈指の投手。

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柳田利夫

2023-09-03 19:07:25 | 日記
1959年
僕の出身校は常磐線、平の少し手前になる内郷高校です。といってもあまりよくご存知のない方が多いと思いますが…。それほど野球には縁の遠い高校で、いつも福島商業に痛めつけられたものです。僕が野球をはじめたのは高校に入ってからですが小さい頃から野球はとても好きでした。ちょうど僕が二年生のときのこと、常磐炭鉱主催の大会があり、近くにある六、七校が激しく優勝を争いをした。僕も内郷高の遊撃手として出場、会心の本塁打を放ったのです。それが認められて常磐炭鉱に誘われたときのうれしかったことは、今でもなおはっきりと覚えています。常磐炭鉱を経てプロ入り後、一年余り二年生活を送ったわけですが、その間の思い出はきびしかった猛練習の一言につきます。そして自分でも意外なほど早く一軍に加えてもらうことができたときうれしかったことはみなさんの想像をはるかに越えたものでした。チームの人たちはとても親切にしてくれますし、僕もなお一層の努力を重ねてがんばっていきたいと思っています。


1960年


今シーズンすい星のようにデビューし、あれよあれよという間にホームランダービーのトップグループにおどり出た柳田選手(内高、常磐炭鉱)は常磐市生まれ。五日夜優勝決定の報に長兄進さん(35)=常磐炭鉱勤務=は喜びのあまり三番方の仕事を休んでしまったほど。一家をあげて大毎の優勝を祈っていた。さっそく同夜は東京の球団事務所へ西本監督とナイン一同、そして柳田利夫選手あての祝電を打ったが、それでも満足できず、六日には大毎チームが乗り込んでいる福岡平和台球場へ同じく二通の祝電を打った。とくに母親思いの利夫選手あてには母きんさん(57)の名で「ユウショウバンザイ、ヨクヤッテクレタ」という十七文字のキーがたたかれた。「五月末事故で一ヶ半ばかりブランクがあったのは痛かった」と兄進さんは残念がっていたが、五日現在打率二割五分三厘、ホームラン12本を放って堂々同チームのけん引車となった。利夫選手の活躍については地元ファンも心からの拍手を送っており、佐藤勇、斎藤晴夫両市議らが中心となってシーズンオフには全市をあげた後援会結成の機運が高まっている。プロ野球を見たことがない母きんさんも日本選手権には父利吉さん(59)と次兄栄さん(33)に連れられて「利夫を、そして大毎を応援してきます」と張り切っていた。


2007年


横浜市在住・柳田利夫


プロのレールを敷いてくれることになった。33年プロ入団決定。この時点で実力の世界での私は、なりふり構わず練習に力を注いだ。厳しい積み重ねが無いと一軍へのキップは無い。そう思いながら4ヶ月。ファームの監督であった西本さんが「柳、お前真面目に練習を積み重ねてきたから、上でやれる」と一軍へ昇格させてくれた。あとは結果を恐れず前向きに戦うだけ。33年から14年間、オリオンズ、巨人、南海と3球団に在籍。ここ迄やれたのは常磐湯本、そして先輩方の支援・後援が有ればこそと、感謝して居ります。ありがとう。常磐湯本に永遠に栄えある事を祈ります。

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中村邦弘

2023-09-02 20:45:17 | 日記
1960年
パ・リーグの大毎入りに内定していた倉敷工の中村邦弘右翼手(17)は、二十五日夜、倉敷市旭町のダイヤ旅館で大毎オリオンズと正式契約した。同夜、中村選手の父朋一さん(44)をはじめ球団側から三宅宅三専任スコアラー、藤原同校野球部長、小沢監督、同選手の育ての親、田中徳三郎、三並弘文両氏が立ち会った。中村選手は身長1㍍73、体重73㌔、右投げ左打ち、走、投、打ともバランスのとれた好選手。とくに昨年のハワイ遠征でホームランを打ち、つねに三番を打ち続けたという強打の持ち主。今シーズンは四割二分四厘という高打率を残している。


中村選手の話 大学への進学も考えたが、同じ野球をやるなら思い切ってプロでやりたかった。大毎入りは先輩の三宅さんもおられるし、山内などよい選手のいる恵まれた打撃チームで自分を磨いてもらいたいと思い入団を決めた。


小沢監督の話 東京六大学で活躍して、母校の名誉を上げてほしいと思っていたが、先輩の三宅さんの要望もあり、また本人も大毎入りを希望するので任せた。打撃の天性を存分に発揮してもらいたいと思っている。


三宅スコアラーの話 ハワイで猛打をふるった選手が郷土におり、将来有望だという話を聞いた。自分の目で一度本人の技術を見てからと、二回ほど試合や練習ぶりを見た。左バッターという利のあるうえに、球にさからわず、バッティングのくせがないので、よいバッターになると思っている。

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