プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

八重沢憲一

2023-09-21 21:22:47 | 日記
1969年
県立三沢高校野球部の八重沢憲一遊撃手(18)=身長175㌢、体重70㌔、右投げ右打ち=が、プロ野球東映フライヤーズに入団することが決まった。正式発表は、二十五日午後に字から三沢市幸町一丁目の「向陽園」で球団スカウト立ち会いのうえ行われるが、同選手は昨年夏、ことし春、夏の三回甲子園大会に出場、再三のチャンスに好打する勝負強い打撃を見せた。このため、ネット裏から切り込み隊長のニックネームで呼ばれ、東映のほか二、三の球団が入団交渉していた。

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下須崎詔一

2023-09-21 21:14:55 | 日記
1962年
鹿商高野球部の四番打者として活躍した下須崎詔一君(18)は五日西鉄入りがきまった。外野手として登録される。下須崎選手は一年生からレギュラーで外野がポジション。からだがやわらかく、内外角を打ち分ける器用な打者。身長174㌢、体重72㌔で右投げ右打ち。鹿県下では大物打者として知られ、県大会、九州大会などで好打をとばし、ことしの甲子園大会地区大会では四割五分を打って鹿商の優勝に大きな役割を果たした。甲子園大会では大会直前にスライディングで右足首を骨折、出場できなかったが、国体ではセンターを守り、五番を打った。熱心なクリスチャンで人望もあり、主将をつとめていた。足の負傷も回復しているし、高校生選手の育て方のうまい西鉄だけに今後の活躍が期待される。


下須崎選手の話 西鉄にはいりました。足の負傷で甲子園ではくやしかったですが、プロにはいった以上、努力して早く一軍選手になりたいと思っています。

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渡会純男

2023-09-18 13:39:53 | 日記
1965年
大分県北海部郡佐賀関町、大字関2021、ここが渡会の生まれ故郷だ。昭和十三年九月四日、父松太郎、母千代の両親は健在で、六人兄弟の長男として生まれた。もちろん渡会も野球好きの少年として育っていった。純男少年の変わったところといえば左利きだったということぐらいだ。左ぎっちょということで、純男少年は右に直させられた。右投げ左打ちは、この名残りである。佐賀関中学から大分高校へ、この頃から野球が面白くてたまらないようになっていた。中学三年のとき、はじめて捕手のレギュラーを獲得した。一、二年は球拾い、大分高のときも同じだった。三年になって、一緒に南海入りした祓川とバッテリーを組んだ。プロ入り二年目には感激の一軍入り、この年に杉浦が入団し、渡会と同期に三浦もいた。三十四年は杉浦の活躍もあってペナント・レース優勝。その時、野村はすでに南海においては不動の四番打者だった。渡会に出場のチャンスはあっても、ピンチ・ヒッターである。打席は数える程である。多くて30くらいのものだった。そのころから森下や杉山のヤジは定評があったが、渡会もその仲間入りをした。試合に出られない渡会はいつの間にかヤジで、試合に出られない寂しさをまぎらわすようになったのだ。「オイ、渡会を呼んでこい」ブルペンにいる渡会のところに、鶴岡監督の伝令が飛ぶようにさえなった。ベンチに活気がないとき、鶴岡監督はムードを盛りあげるために、渡会を必要としたのである。森下や、杉山が、「渡会のヤジはオレたちより一枚上手やで...」と一目をおいているほどだ。もう一つ、渡会には南海一という特技がある。名バンター?となのである。鶴岡監督も、この渡会のバントは高く評価している。渡会にしてみれば、ブルペンキャッチャーだけでは満足できないのだ。だからバッティング練習で、他の選手が一球ですますところを、渡会は念入りに5球6球とバントを転がす。「百パーセント走者を生かすバントを目標にしているんです。自分は足は遅いし、もちろん自分は死んでもいい。それがボクの役目ですからね」ブルペン・キャッチャー、ベンチのムード作り、走者を進塁させるバント、渡会はこれを三つの役目だといっている。「渡会はよう働きますよ。働き者です。」藤江マネジャーが渡会を評してこう語っていたが、ナインの誰よりも球場入りし、誰よりも遅くまで残っているという。試合前の準備、そして後片付けを、もう習慣になったようにつづけている。「渡会もボクも一緒で九年目。よくやっていますね。浮かばれない地味な存在ですが、それを承知で黙々とやっている。ほんとに頭が下がります」同期の三浦の言葉である。「渡会がいるとチームのムードが違うやろ。ホークスに必要な選手や。ブルペンでボール一つ受けるにしても、真剣にやっとるで。ワシも渡会には感謝してるんや。ああいう選手が一生懸命やっているのが南海のいいところなんや」鶴岡監督も、渡会の存在価値を十分認めている。渡会は、杉浦の家に、二年ほど下宿したことがある。志摩子夫人はいう。「まじめないい方です。何事も一生懸命にやる。ということは立派なことですが、渡会さんはそれを実行しています。若いのに落ち着いておられますね」野村夫人正子さんもいう。「私もよく球場に行きます。終わってからも一人で後片付けをしておられますが、ちょっとやそっとではできないことですね。主人も手伝ってもらったりしているらしく、いつも、いい男だとなんていってます」渡会の給料は十万そこそこ。球場の往復は電車。きょうもあすも、ブルペン・キャッチャー渡会は、ボーン、ボーンと景気のいい音を立てて勝利を念じているだろう。

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佐藤元彦

2023-09-18 10:31:24 | 日記
1968年
「10勝ラインに到達したら式をあげるんだ」と大ハリキリなのは東京のエース佐藤元彦だが、このところ連投はつづくが一向に勝運に恵まれない。フィアンセ谷井和子さん(22)とは、従姉の紹介で交際して1年ちょっと。すでにそのお熱い仲は定評つきだ。彼が登板する日には必ずネット裏に、彼女の真剣な姿がある。東宝・藤本真澄専務の秘書をしているだけあってスゴイ才媛。「モトにはもったいない」と、ナインの声しきりである。佐藤はニヤニヤにさがるばかりだが、かんじんの勝ち星がさっぱりで、サエないことおびただしい。そのうえ6月に入って2度も愛車の事故。下宿近くの青梅街道でタクシーと、また上野駅そばで自家用車とつづいて、大クサリだ。「あんまり彼女のことに夢中になってるからサ」と冷やかされるだけだが、当の本人にしてみればまったく深刻。「よし、こうなったら15勝するまで結婚はおあずけだ。何としてもやってやる!」と猛烈なファイトで苦境突破を誓っている。


1969年


モト?おもしろい男だよ。ひょうひょうとして一寸捉えどころがない。いやあ練習熱心なヤツでね練習させときゃニコニコしてるよ!その割に欲がない?そうかなぁーいや、坊ちゃん育ちでガツガツしてないからそうみえるんだよ。以上が佐藤の性格診断だ。チームメートの評判は至極よろしい。一見、軟らかいムードの持ち主だが、生まれは火の国熊本だ。プロ球界では珍しい医者の息子である。7人兄弟の男5人の末っ子…。厳父は熊本市内の保健会館の専属医師で、本職は歯科である。余談だが、お医者さんの子弟というのは少なく巨人の藤田コーチ、中日の竹中選手くらいなものである。堅い家庭で育ったから勉強は小さいときからよくやって、熊本高に難なくパス。そして大した苦労もなく初志を貫徹して慶大に進学した。36年春である。しかし佐藤にとっては運の悪い時代といおうか、黄金児と謳われた渡辺泰輔(現南海)と同期で、とうとう最終学年まで、ベンチウォーマーの悲哀をかこってしまった。37年秋の慶大17シーズンぶりの優勝も、翌38年春の完全優勝も佐藤にとっては遠くで起きた出来事のようであった。しかり律儀な正確な彼は、逆境に負けなかった。そして、渡辺が8月18日(38年)、秋田の遠征先で右足親指のつけ根にヒビの入る負傷をしたとき、代役として登場。大活躍して責任を果たした。3年間の下積みはほんとうに長い背番号5のユニホームを着て彼がマウンドにあがっても、あれ、5番の新人はだれなの?とスタンドでささやかれた。そのとき政経4年の21歳。1㍍78、73㌔の体格は決して大きい方ではなかった。ところがこの代役はすばらしかった。東大2回戦に4-0と完封したのをきっかけに着実に星を稼いで、慶大の優勝に貢献した。その秋の早慶戦は優勝を賭けて行われたが、1回戦を復活渡辺が1-0ととり、2回戦も佐藤がぴたりと慶大打線を封じて1-0と制勝。シーズン終了後には早大江尻(現大洋)法大木原(近鉄ー大洋)の両エースを押えてベストナインに選ばれた。試合数7、投球回数46回、4勝1敗、防御率1.17が№1投手に推された内容である。卒業と同時にサッポロビールに入社、ノンプロ界で野球を楽しむことになった。41年、改めて東京からの誘いを受けてプロ入りを決意し、木樽、大塚、嵯峨野らとオリオンズのユニホームを着た。それから3年、1年目は2勝1敗、2年目が8勝8敗、そして昨年が12勝13敗…その歩みはのろいが決して退歩していない。また昨年暮に結婚して気力も充実。オープン戦(対大洋)でもチームの完投勝ち1番乗りして張り切っている。目標は全盛期の杉浦、皆川(ともに南海)の老たけたピッチングで、夢は少年時代からの世界一周旅行…もちろん恋女和子さん同道であることはいうまでもない。好き嫌いなないが豚肉が苦手。一時アパートの仮住まいがつづいたが、現在は杉並区久我山1-281に一戸を構えた。昭和18年1月1日生まれ。

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1966年プロ野球退団後 パリーグ

2023-09-17 19:55:51 | 日記
南海
村松修 鉄工屋
伊藤則男 洋服屋
大島敏夫 未定
高尾正広 未定
岡村和男 未定
太田稔 家業手伝
清末頴彦 未定
臼井三喜男 家業手伝
島田軍治 未定
東映
柴田晃 未定
伊東邦男 洋服屋
芦刈達雄 未定
橋詰文男 日本高圧瓦斯
阿左美勝義 未定
池沢義行 未定
西鉄
中山実 本田モータース内定
杉町攻 ボーリング場内定
黒川豊久 未定
下川満康 家具屋
松並和視 未定
安藤敏雄 未定
大庭清 釣堀店
若林淳至 未定
阪急
弘瀬昌彦 未定
奥川勝彦 未定
大宮健資 新阪急ホテル
遠藤浩司 阪急交通社内定
大島明佳 日大進学予定
山下莞爾 阪急交通社内定
村上俊義 未定
小川博 阪急交通社内定
井置博文 未定
藤野智成 新阪急ホテル
小林義治 宝塚ホテル内定
東京
菅原紀元 未定
江口晴造 未定
愛甲徹 未定
中谷剛 未定
安次嶺栄七 印刷会社予定
斎藤博 未定
吉田孝之 印刷会社予定
岩本進 未定
鴇田忠夫 未定
林孝彦 未定
ソロムコ 未定
近鉄
黒田勉 未定
大崎隆男 未定
福原勝 建設会社
大沢勇 芸能社
ディサ 帰国
江渡辰郎 近鉄球団スコアラー
土師一男 大相撲 井筒部屋
堺崇展 未定
木村勝男 未定
岩上江笠 日野自動車
神林清二 八尾自動車教習所
西条勝男 未定
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1966年プロ野球退団後 セリーグ

2023-09-17 14:44:02 | 日記
巨人
堀内庄 天竜運輸
安藤元博 未定
石原碩夫 未定
辻佳久 未定
村瀬広基 川西倉庫
松下健次 伸銅業
吉成昭三 未定
津野剛志 未定
田中耕一郎 交通会社
横尾智正 東自動車
藤尾茂 ジャパン・クレジット
八幡英男 ハンカチ問屋
山本英規 未定
関根潤三 ニッポン放送解説者
近藤金吾 未定
町田行彦 建設機械工業
篠崎四郎 未定
丸山隆男 未定
中日
畑隆幸 飲食店経営予定
ホイタック 未定
中村武敏 未定
西尾慈高 未定
柳川誉造 中日スタジアム
山本久夫 未定
小木曽紀八郎 中日シネラマ会館
竹屋三郎 中日球団用具係
田中裕康 中日球団スコアラー
塩津義雄 未定
中原勲  未定
阪神
中井悦雄 大洋テスト生
バンサイド 帰国して大学留学
樋口和生 未定
大倉正貢 大学入学
フェルナンデス 帰国
土屋正孝 未定
三宅博  商事会社
浅越桂一 阪神球団用具係
有光磐明 未定
大洋
笠崎壮夫 大洋漁業(下関)
高木孝三 未定
篠田荘平 喫茶店
芳村大基 大阪商大復学手続中
武本次郎 土建業
田辺修  未定
広島
安東功 未定
西村宏 未定
原田喜臣 未定
坪井猛 マツダ宮崎
関根勇 未定
小坂佳隆 東洋工業
門谷昭 マツダ高知
横田斉夫 未定
佐々木有三 未定
鈴木宇成 未定
サンケイ
七森由康 未定
竹田晃 復学手続中
荒川巌 未定
平岩嗣朗 未定
高橋勝 塗装業
星山晋徳 喫茶店
坂巻豊 未定
望月喜雄 未定
亀田信夫 未定
小林誠 未定
高林恒夫 古本屋
松本雄作 第一広告
小橋優 岡山県の先輩の会社
佐藤一誠 塗装業
松井尚男 未定
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1966年 プロ野球退団後

2023-09-17 14:42:42 | 日記
1966年
自家営業では、サンケイをやめた高林恒夫氏が、巨人コーチ補佐の誘いを断って、東京・神田にある東陽堂という古本屋の若旦那におさまった。「野球に全然、未練がないわけではないが、いつまでもやれるわけではありませんから。家では男がわたし一人なので、どうしても店をつがなくてはいけないんです。古文書の鑑定なんか全然ダメですが、これからが大変ですよ」とバットをハタキに持ちかえて、古本屋修行を始めている。同じくサンケイの星山晋徳氏は名古屋で、大洋の篠田荘平氏は横浜で、それぞれ喫茶店を経営している。このほか、洋服屋さんになるのが東映の伊東邦男、南海の伊藤則男両氏、家具屋さんに西鉄の下川満康氏、ペンキ屋さんにサンケイの高橋勝氏など、稼業がある人は恵まれている。阪急では、新阪急ホテルに大宮健資、藤野智成両氏が就職した。大宮氏は第二営業部宴会課勤務。白い制服に黒のちょうネクタイのボーイさんである。「去年のシーズンはじめに右ヒジを痛めてしまって、さっぱりでした。医者が長い目でみないといけないというので、球団から整理の話をきいてもそうショックとは思わなかった。いま、ウェイターをしていますが、これまでは人にサービスすることなんかなかったんで、いい勉強になります。まだはじめて二週間だから、神経が疲れてしょうがないです。給料は基本給が1万7千円ぐらい。いまままでの半分以下だけど、それ相当の働きしかしていないのだから、仕方ないですよ」と新生活を割り切っている。

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小木曽紀八郎

2023-09-16 22:59:19 | 日記
1966年
中日の小木曽紀八郎氏は中日シネラマ会館のボーリング場会計主任になった。「会計の仕事にもなれましたし、毎日毎日がすごく張りがありますよ。ボーリングのコーチもしていますが、将来はプロボーラーにも…と考えています」という。

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松本雄作

2023-09-16 22:55:32 | 日記
1966年
サンケイの松本雄作氏は、球団のあと押しで、広告業界にとびこんだ。東京・銀座にある第一広告の地方連絡局勤務である。仕事の内容は、民放各局を回ってCMフィルムの受け渡し、CM進行表の確認など。一月九日から勤めはじめたが、その勤務評定は、「いまはジミな仕事をしてもらっていますが、業界の様子をのみこむためには、それがいちばんいいからで、将来は広告取りにスポンサー回りをしてもらなければなりません。松本君はいかにもスポーツマンタイプで声が大きくハキハキしている。これは、どちらかというと文学青年型の多いこの社会では目だちます。テレビ局でも社内でも、松本君がいるとすぐわかりますからねぇ。おかげで第一広告に松本あり、と印象付けられるし、いいことですな」と、主任の中間芳郎氏。「入団してすぐ結婚したので、もう二つになる娘もいます。遊んでいるわけにはいかないので、話があると、すぐお願いしました。まだ、遊んでいる人も多いが、やはり独身で余裕のある連中ですねぇ。はたして新しい仕事が自分に向くかどうか迷い、また、野球についても完全にあきらめきれない。その気持ちはわたしにもよくわかるんですが、やってみないことには、自分に向く仕事かどうかもわからない。わたしとしては、思いきってとびこんでよかったですね。スタートが遅れれば、遅れるだけマイナスになりますからねぇ」はじめの間は電話に出るのもこわかったのが、いまでは相手方と少しくらいのトラブルが起きても、自分で出向いて解決できるくらい度胸もついてきたそうである。

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橋詰文男

2023-09-16 11:19:07 | 日記
1966年
東映で、左腕のワンポイント・リリーフでして名を売った橋詰文男氏も、いまは尼崎市にある日本高圧瓦斯工業の取締役営業部長である。「兄貴(芳男さん=34)が経営している会社で、三年ほどまえから、帰ってこいといわれていたんです。やめるとき、球団から就職をあっ旋してやるという話もあったけど、ポンとけって帰ってきた。これまでは、やるだけやれば遊べる世界で、その気持ちで六年間、大学時代をいれると十年間も遊ばせてもらった。まともにサラリーマンになったんじゃ、こうはいかないから、野球生活に悔いはないですよ。もう、この年になって遊びたいとも思わないし、まぁ、もっと本でも読んで勉強しておけばよかったと思うけど、いまは仕事の面では高卒の人にもかなわない。肩書こそ部長ですけどね。それに追いつくために、苦労しています。知識と経験がものをいうのに、その両方がないんだから、これまで頭を下げたことはなかったが、いまじゃ、下げっぱなしですよ。商売の辛さが身にしみてわかった。しかし、月給も五万円はくれるというから、めぐまれてますよ」と、肩書と現実のギャップを気にしながらも、ほっとした表情である。

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渡辺勉

2023-09-16 10:59:08 | 日記
1967年
阪急ブレーブスの丸尾千年次渉外部長は二十九日、新人選択会議で交渉権を獲得した仙台育英高の渡辺勉遊撃手(18)=宮城県七ヶ浜町七五=と仙台市元鍛冶町の「中竹」旅館で三回目の話し合いを行った。この結果、同選手から「お世話になります」の意思表示があり、阪急入りが決定した。さきの二回交渉で父親の留治郎さん(52)は「本人のやりたいことをさせたい」と語り、本人もぜひプロで力をためしたいといっていたことから、この日は条件面での細部折衝が行われ、同渉外部長の提示条件(契約金五百万、年棒百万円=推定)を了承したもの。同選手は一年生から同校の中心打者として大活躍、高校生活三年間に百七十試合に出場、3割9分台の高打率を残し、俊足、強肩、好打の三拍子そろった選手である。身長1㍍75、体重71㌔とバランスのとれたからだをし、野球センスは早くから注目されていた。なお、正式契約は十二月中旬の予定。


渡辺勉選手の話 入団が決まりホッとしました。一日も早く第一線出場をめざしがんばります。プロには技術プラス力が必要なので、来春のキャンプインまで、じっくり体力を養成したいと思っています。


1976年


「ホント、みな現金なんだから」と肩をすくめたのが内野手の渡辺勉。さる仙台でのロッテ戦。仙台といえば同内野手の出身地で、ここに遠征すると決まって渡辺家から果物などの差し入れがある。今回も父親・留治郎さん(57)がベンチを訪れミカンやバナナをどっさりプレゼント。ナインはさっそくご相伴にあずかった。そんなナイン、バナナを運ぶ前、決まって、「ツトムちゃん、いただきます」「ツトムちゃん、ありがとう」これには渡辺勉も「まいった」と一言いったあと、「ふだんはツトム、と呼び捨てなのに、仙台にきたらツトムちゃん…。何て現金な」

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渋谷誠司

2023-09-16 10:41:46 | 日記
1962年


「あたまへきちゃう。ここんとこKOばっかりだもんね」帽子をかなぐり捨てて渋谷は球場の医務室でだだっ子のようにすねた。右足のスネが血にそまっている。降板する前に松原のライナーを受けたときの傷だ。血があふれるほどの傷をがまんして投げ続けたのにマウンドを去ったのがくやしいらしい。「チクショウ、こんなケガなんかなんでもなかった。どうしてこう出るたびにホームランを打たれるんだろう。きょうので7本目。ぼく、両リーグを通じてホームラン配球王ですね。コントロールがないんだな。やはりノンプロで大したことなかっただけに、プロなんかとてもムリなんだ」たしかに渋谷はこのところ一試合おきにホームランされている、それも三度つづけて日本ずつの連続ホームランだ。「大洋も知っていたんですね。箱田さんに打たれたすぐあと、近藤(昭)という人すごい球をブルンと振ってきたもの。それにしても箱田さんて人は変な打ち方をしますね。手首だけで打ってくるみたいですね」足の治療が終わると背広に着替えて再びベンチの入り口へ。5勝目をあげられるかどうかのさかい目だけに、ベンチのまわりをウロウロしながら村田のピッチングに注目した。ゲームが終わると村田にまず最敬礼。そのあと5勝の感想をかんかんにいった。「村田さんに申しわけなくて。KOされて勝ち投手なんて情けなくなります。5勝ですか?ただ申しわけないだけです」わかったようなわからないような答えを残すと、ロッカーの跡片づけをつづけた。天知俊一氏は「最初セの新人王は城之内という評判だったが、いまや渋谷だ。ランナーの出たときのピッチングと、追い込んだときのピッチングと、追い込んだときにもっと遊びを覚えれば15勝は堅い」といっている。ところが渋谷は15勝についてこんな答え。「とんでもない。シーズンが終わるまでにあと2勝をあげればいい方です」新人王という言葉が出たときは大きな目をトンボのようにクルクルまわすだけ。オトボケも知っているずぶといルーキーである。

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金子哲夫

2023-09-15 20:47:30 | 日記
1960年
1メートル69、65キロの体はプロとしては小さい方ですが、夏の甲子園大会で、四日間に43イニングを投げ通した体力の持主。「体は小さくても、プロに入った以上、そんなこといっていられません。いま、シュート、カーブ、スライダーが投げられますが、今年のキャンプでは、その球の配合を研究したいと思います」と、いうこともハッキリしています。そのため、いま毎日、四千メートル走ることと、ナワトビを続けています。

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長野哲

2023-09-15 20:42:38 | 日記
1968年
三十日午前、東京・丸ノ内の球団事務所でドラフト会議で5位に指名した長野哲投手(19)=宮城・佐沼高、熊谷組、178㌢、74㌔、左投げ、左打ち=との正式契約を発表した。長野投手はことしノンプロで14試合に登板し3勝2敗、防御率2.16の成績を残した。

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大坂雅彦

2023-09-15 17:48:08 | 日記
1958年
甲子園球場でホームランを打った徳島商の大坂雅彦遊撃手の母親京子さんから、このほど、高萩署(茨城県)へ五年前行方不明になった雅彦君の父肇さんが、高萩市にいるかも知れませんので探して下さい、という手紙が届いた。手紙によると雅彦君が準決勝戦でホームランを打ったとき、高萩市本町一ダイボシ履物店大阪昇さん(50)から、祝電とお菓子をもらったので、もしやというもの。同市でただちに調べたところ、ダイボシの主人は大の野球ファン同姓のよしみで応援したもので涙の再会もあっけなくチョン。

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