想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

あるべきようは

2014-08-08 23:05:59 | Weblog
あのマツコが「あるがままってどうかと思うよ」と
言ったそうである。
あるがまま、は前後が問題で、ママ(校正用語)では
通らないことがままあるのでww マツコの言い分は
もっともなことを言ってるなあ、いっつもなあ、と
思った。

それからもうだいぶ日を過ごしたのだが、ヨガマットの
上で脚を無理やりに曲げたり伸ばしたりしていた時、
ふと思い出したのであった。
マツコを思い出したというよりも、あるがままの逆、
あるべきようは、という明恵上人の言葉の方である。

そして、そういえば知ってか知らずかマツコは
「あるべきようは」の反対の方を否定したのだなあと
身体をギュンと折り曲げつつ、気づいたのである。

話はちとずれるが、人間は学び訓練しなければ
人間らしさ、人らしさを身につけることはできないと
いうことを知っている人は意外に少ない。
生まれて育てば誰でも人になった、人である、そう
思い込んでいる人が多い。身体が成長しただけなのに
じゅうぶん大人などと思ってしまっているのだ。
ところが心の方はさっぱりわかっていない。
そして迷いに迷って、あるがままなどと結論づければ
どうなるか?

明恵上人の「あるべきようは」という訓戒は尊い教えで
ある。やさしく、わかりやすく、そして実践するのに
難しい。難しいが実践すれば、生きやすくなる。
そういうものだ。
かたや、あるがまま、を貫いていけばどうなるか?
自分はいいと思っても周囲との軋轢は避けられない。
相手にしなきゃいいのよ、と考えるかもしれないが
それは口でいうほどたやすくはない。
相手にしなきゃいいと思った時点でじゅうぶんに敵対
してしまっている。無視は和解の反対である。
あるがままを浅知恵で行ってしまうとヤバいのである。
気づかぬうちにキョウフの自己中に陥っている。
お山の大将、裸の王様になってとても恥ずかしいことである。

己の分を知る、足るを知る、これは同時に相手や周囲を
理解することでもある。
夫々の立場のあるべきようは、をよくわきまえて行うこと
の大事さを明恵上人が説かれたが、同じようなことを
先代旧事本紀に見出すことができる。
また人含身の祝詞にはあるべきようはが連綿と説かれて
いる。

古代の人はよく知っていたということである。
その智慧にあやかっているのは、人より動物たちの方で
あるなあと今日も思ったのである。
いや、マツコが動物的だという意味では毛頭ない、
マツコはんは素直で賢いお方だという話である…
(回し者ではありません)


コメント
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