想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

執着から志へ

2011-11-30 13:44:55 | 


故井上ひさしのこまつ座の芝居をご覧になったことがある
だろうか。
近頃の人にはあまりおもしろいと思われないかもしれない
だろうけれど、静かに深くゆったりとした昔型の演劇で重い
テーマをことごとくユーモラスに喜劇にしてしまう作家だった。

震災を見ずに亡くなられたことは井上ひさしさんが歩まれた、
平坦ではなかった道のり(優れた仕事とは別に)での救いと
いうか神様のごほうびのように思えるというと、生き残って、
今まさに働き続けておられる勝れて正直者の先達方に失礼な
気もするが。しかし、やはり井上ひさしさんがふるさと東北の
惨状に遭遇しなくてよかった、あの方を苦しめなくてよかったとの
思いのほうがそれ以上にまさるのである。

「イーハトーボの劇列車」という芝居の中に「思い残しきっぷ」
というのがある。それは「人が死ぬときこの世にやり残したこと
への思いを切符に託し後の人に受け渡していくというもの」と
作者井上ひさしさんは説明している。
人が死ぬときに思い残したこととここで言われているのは志
のほうで、煩悩からくる執着とは異なる質のものだ。
だからそれを後の人が受け継いでいくことができるのである。

しかし人が生きているあいだ、執着をモチベーションとかいう
言葉に言い換えたりして、そこに思いのありったけを燃え立たせ
てしがみつき、それをさも良いことをしているように思い違いして
いたりする、そちらのほうが実際には多いのである。(もちろん
正しい意味で言葉を用いている人は目的も達成しているが)
死んでしまえば、果たしそこなった思いはやり残したことへの執着
として残り、それがゆえに魂はあるべき処へと旅立つことができない。
それを不成仏というのである。不成仏とは霊魂が意味もなく
他者にとり憑いているというわけではなく、執着が原因である。

思いを執着にするか、志にするか。
それはその人が何によざして生きようとしているかである。
井上ひさしさんはひたすら人を善へといざなおうと働かれたよう
に思う。志に善なる心が入っていることを繰り返し表現されていた。

当然のことなのだが、劇情にまかせ、憎悪や嫉妬をこれでもか
と描かれた悲劇のほうが実は客受けしたりする。
センセーショナルなものを世間は好きで、善人に興味を抱く人は
少数なのである。
悪はこれでもかというほど描かれるが善をひたすら提示し、
おだやかに円く善へいざなって幕引きするという結末には、志が
なければしないし、できないことではないだろうか。
現実に照らして善とははるか遠いことであるがゆえに。
理想を描くいことが今の時代にはこっけいですらあるがゆえに。

どうせ、魂なんてわかりゃしないもの、そんなこと考えても!
そういう言葉を身近で耳にしたときに、哀れな末期が目に浮かんだ。
人は言葉で生きることができるし、言葉に生かされるのが人だと思う。
そんなことを言うものではないよ、と言ったけれども聞いてはいなかった
だろう荒んだ心。


しかし、執着には希望がないが、志とは希望そのものである。
希望なくして、生きることに力や知恵が授かれるわけがない。
いや、自力で、自信で、やれると思う高慢な人はいずれその
ツケを背負う覚悟はあるか?
考えちゃいないから不遜なことをほざいていられるのである。
東電が事故時の安全装置を不備のまま長年運転し続けて
想定外とほざいている今起きている現実とよく似ている。

妄想と執着ほど人をだめにするものはないと、確信をもって
言える。わたしはカメの教えのとても大事なことの一つとして
そのことを学んだから。

うさこって、その昔、夢子なんて言われてたことがあるくらい
ぼんやり妄想で生きてたような頃があったわけで、それは
まあ、非生産的な日々であったわけで、そこから抜け出した
今、断固として言いたいのであるよ。執着から志へ。
(エゴから善へ、ともいえるなあ)







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