「1980年代苦難&激動期」-大庭本部長時代
1980年代前半の二輪車業界の混乱は、ある意味では業界各社みんなが頑張り過ぎたのだと思う。
背伸びが過当競争になり、ダンピング訴訟などから大問題になったのである。
カワサキもその渦の中に巻き込まれ存亡の危機に見舞われたが、本社も一体となった構造的な対策によって何とか危機を脱することが出来た。
82年後半、海外販社の管理を一元的に見る専門部門を新設し、KMC対策、ヨーロッパ販社の対策など主として海外販社対策を重点的に行って、事業部運営を含めたトータルの仕組み造りに取り組んだのである。
83年7月からの3年間、大庭単車事業本部長の時代はいろいろ大変なことも多かったが、力もついた時代であったと思う。
84年度はGPZ900,750のNinjyaシリーズ、ジェットスキー550・440の好調もあって,全販売会社が揃って黒字転換し、KMCも累損消去の目途が立ち新社屋建設の計画も具体化するまでに順調な回復を見せた。
単車に係る世界中の全事業が黒字になったのは、単車事業始まって以来の快挙であった。
順調に推移した事業展開であったが、85年半ばからの円高傾向で、またまた大変な時代に突入した。
85年7月239円だったものが、11月に200円、86年2月には190円、7月には155円と1年間で80円もの円高で、単純計算するとカワサキのレベルでも500億円以上の損失額になる規模のものであった。
事業部側の単年度の損益は悪化したが、販社が値上げにも耐えることが出来たのと、全社的な対策で切り抜けることが出来たのだが、この時期は円高だけでなく、アメリカのPL対策やポリスバイク対策など、激動期と言える時代であった。
86年には国内KMJ及びKMCの新社屋も落成し気分一新し、、6月には大庭さんは副社長に、高橋さんが本部長に就任されることになった。
大庭さんにはいろんな思い出も多いのだが、
就任2ヶ月目の83年9月に本社部長を集めた会議で
「単車は思ったより確りしている。川重の中で将来性のある事業である。」
といって頂いたのが一番心に残っている。
それまで本当に長い間、川重という受注生産体質の企業の中で、特異な単車事業を理解してもらうのは本当に難しいことだったのである。
大庭さんは副社長で本社に戻られる頃には、単車事業に対して熱烈な愛情を抱かれるまでになっていた。
この大庭さんの3年間、高橋(企画)、酒井(生産)、安藤(技術)、田崎(KMC)さんらと共に私は企画を担当して大庭さんに仕えたが、会社生活で一番思い出多い充実した時代であったと思う。
大庭さんは無茶苦茶怖いところもあったが、
私にとっては、ずっと本音で話が出来た。本音で話せば通ずる気持ちのいい上司であった。
こう言っても信じて貰えないかも知れないが、事実である。
その大庭さんも故人になられた。
一緒に頑張った安藤さんも、武本、岩崎さんも、寂しい限りである。
1980年代前半の二輪車業界の混乱は、ある意味では業界各社みんなが頑張り過ぎたのだと思う。
背伸びが過当競争になり、ダンピング訴訟などから大問題になったのである。
カワサキもその渦の中に巻き込まれ存亡の危機に見舞われたが、本社も一体となった構造的な対策によって何とか危機を脱することが出来た。
82年後半、海外販社の管理を一元的に見る専門部門を新設し、KMC対策、ヨーロッパ販社の対策など主として海外販社対策を重点的に行って、事業部運営を含めたトータルの仕組み造りに取り組んだのである。
83年7月からの3年間、大庭単車事業本部長の時代はいろいろ大変なことも多かったが、力もついた時代であったと思う。
84年度はGPZ900,750のNinjyaシリーズ、ジェットスキー550・440の好調もあって,全販売会社が揃って黒字転換し、KMCも累損消去の目途が立ち新社屋建設の計画も具体化するまでに順調な回復を見せた。
単車に係る世界中の全事業が黒字になったのは、単車事業始まって以来の快挙であった。
順調に推移した事業展開であったが、85年半ばからの円高傾向で、またまた大変な時代に突入した。
85年7月239円だったものが、11月に200円、86年2月には190円、7月には155円と1年間で80円もの円高で、単純計算するとカワサキのレベルでも500億円以上の損失額になる規模のものであった。
事業部側の単年度の損益は悪化したが、販社が値上げにも耐えることが出来たのと、全社的な対策で切り抜けることが出来たのだが、この時期は円高だけでなく、アメリカのPL対策やポリスバイク対策など、激動期と言える時代であった。
86年には国内KMJ及びKMCの新社屋も落成し気分一新し、、6月には大庭さんは副社長に、高橋さんが本部長に就任されることになった。
大庭さんにはいろんな思い出も多いのだが、
就任2ヶ月目の83年9月に本社部長を集めた会議で
「単車は思ったより確りしている。川重の中で将来性のある事業である。」
といって頂いたのが一番心に残っている。
それまで本当に長い間、川重という受注生産体質の企業の中で、特異な単車事業を理解してもらうのは本当に難しいことだったのである。
大庭さんは副社長で本社に戻られる頃には、単車事業に対して熱烈な愛情を抱かれるまでになっていた。
この大庭さんの3年間、高橋(企画)、酒井(生産)、安藤(技術)、田崎(KMC)さんらと共に私は企画を担当して大庭さんに仕えたが、会社生活で一番思い出多い充実した時代であったと思う。
大庭さんは無茶苦茶怖いところもあったが、
私にとっては、ずっと本音で話が出来た。本音で話せば通ずる気持ちのいい上司であった。
こう言っても信じて貰えないかも知れないが、事実である。
その大庭さんも故人になられた。
一緒に頑張った安藤さんも、武本、岩崎さんも、寂しい限りである。