「ジェットスキーの開発」
1983年ごろHY戦争ほかいろんな外部要因も重なって、カワサキの単車事業は存亡の危機に見舞われるのだが、幸運にも恵まれ何とか切り抜けることができた。。
ジェットスキー市場の予想を上回る急激な拡大もその一つである。
アメリカのジェットスキー市場は毎年5~7000台で安定して推移していた。
エンジンはもともと発動機事業部が開発したもので、従来単車の技術部はタッチしてなかった。
安定した商品ではあったが、それまでは大した期待も持っていなかったのである。
83年末ごろだろう、技術部の商品企画を担当していた百合草三佐雄さんが、ジェットスキーのJ/S400,500の改良計画を提案してきた。
予算の苦しい時期だったが、百合草さんと企画の武本一郎さんとで無理やり予算を捻出し実行に移したことを、何となく承知している。
そんな結果生まれた、JS440/550が突如として無茶苦茶売れ出したのである。
84年度計画の8100台に対し実に3倍の24400台の実績となったのである。
当時は独占商品で競争相手もなく、利益率も相当に良かったので、これで得た粗利の額は事業部、KMCとも業績改善の大きな要素になった。
10億や20億円のレベルではなかった、より大きい相当のレベルであったのである。
世の中には思いも寄らぬことも、ままあるものである。
こんなことが初めから解っていたら、誰でもそうするのだが。
カンというのも大事である。カンがいいのも実力の内である。
この時の「百合ちゃんのカン」も相当なモノだし、武本さんの予算捻出のワザも見事であったと思っている。
これを契機にジェットスキーは主力事業としての座を確保し、全世界への展開となっていった。
1983年ごろHY戦争ほかいろんな外部要因も重なって、カワサキの単車事業は存亡の危機に見舞われるのだが、幸運にも恵まれ何とか切り抜けることができた。。
ジェットスキー市場の予想を上回る急激な拡大もその一つである。
アメリカのジェットスキー市場は毎年5~7000台で安定して推移していた。
エンジンはもともと発動機事業部が開発したもので、従来単車の技術部はタッチしてなかった。
安定した商品ではあったが、それまでは大した期待も持っていなかったのである。
83年末ごろだろう、技術部の商品企画を担当していた百合草三佐雄さんが、ジェットスキーのJ/S400,500の改良計画を提案してきた。
予算の苦しい時期だったが、百合草さんと企画の武本一郎さんとで無理やり予算を捻出し実行に移したことを、何となく承知している。
そんな結果生まれた、JS440/550が突如として無茶苦茶売れ出したのである。
84年度計画の8100台に対し実に3倍の24400台の実績となったのである。
当時は独占商品で競争相手もなく、利益率も相当に良かったので、これで得た粗利の額は事業部、KMCとも業績改善の大きな要素になった。
10億や20億円のレベルではなかった、より大きい相当のレベルであったのである。
世の中には思いも寄らぬことも、ままあるものである。
こんなことが初めから解っていたら、誰でもそうするのだが。
カンというのも大事である。カンがいいのも実力の内である。
この時の「百合ちゃんのカン」も相当なモノだし、武本さんの予算捻出のワザも見事であったと思っている。
これを契機にジェットスキーは主力事業としての座を確保し、全世界への展開となっていった。