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先日、スズキの中野さんが纏められている『日本モーターサイクルレースの夜明け』のことに触れたが、この記事の中に片山義美君の記事を見つけた。
最近のレース界のことはあまり知らないが、丁度私などがレースに関係しだしたころは、まさに日本モーターサイクルレースも夜明けの時代で、レース界自体が今のように大きくなかったし、何か纏まっていたように思う。
MFJもまだ全日本グランプリが第1回のころで、MFJよりもむしろクラブチーム主体のMCFAJのレースのほうが実質賑やかな時代であったのかも知れぬ。
片山義美君は当時から既にスズキのGPライダーとして世界に通用するライダーであった。
神戸木の実と言うクラブチームを主宰し、当時のライダーとしては山本隆、歳森康師、金谷秀夫などを擁していた。
私は当時広告宣伝課を担当しレースもその範疇に入ってはいたのだが、直接の担当は川合寿一さん(故人)がやっていて、殆どレースのことは解っていなかったのである。
1964年のシ-ズンオフのことである。
山本隆君がブログに書いているその事件で、私はレースの世界に首を突っ込むことになったのである。
彼はそのブログの中でこう書いている。
『64年シーズンオフに、ブリジストンファクトリーに移籍の話が纏まり、仮契約まで漕ぎ着けていたのだが、ある人物の一声で元の鞘に納まってしまったのです。』
ある日川合さんが『山本と歳森がBSと仮契約をした』と言ってきた。
それがどのくらい大変なことかさえ、よく理解できなかったのだが、『兎に角片山義美さん会って、何とかして欲しい。』と言うのである。
そんなことで、私が日本のレースライダーと最初に話をした相手が片山義美君である。
話の中で、彼はいろいろとカワサキに注文や文句を言った。厳しい苦言が多かったが、『もっともだ』と納得出来ることも多かった。
『ちゃんとやる』と約束をさせられて、その約束を果たすべく私はレースの世界に足を突っ込むハメになったのである。
山本君が書いているある人物が、片山義美君である。
ホントに文字通り『一声』で解決をした。『うんもすんも』なかったのである。
そんな時代であった。
片山義美はこんなライダーである。二輪も四輪もこなし、まさに天才と言っていい。
これを見ると、凄かったんだなーと改めて思うにである。
有名ライダーたちが、一目も二目も置くはずである。
私は何となく気があって、親しくして頂いた。
片山君はお母さんの血を継いだに違いない。気丈で面白いお母さんだったが、特に親しくさせて頂いた。従野孝司君がカワサキの工場のラインからスタートしたのだが、これもお母さんに頼まれてのことである。
カワサキとは直接契約はなかったのだが、その後金谷秀夫も片山の弟の従野孝司も後清原明彦、星野一義まで神戸木の実の世話になった関係で、いろんな想い出を共有している仲間である。
片山の引退パーテイのときは、金谷が段取りをしたのだが、何の契約もなかったカワサキなのに、スズキ、マツダさんを差し置いて、主賓の幕開けのご挨拶をさして頂いたのは、今となっては私の自慢である。
また、今は引退してこの世界的なライダーは、三木に店を持ち、直ぐ近くに住んでいる。昨年、オートポリスで走った後、清原がお世話になったので御礼に行くからと誘われて一緒に昼飯を食ったりした。
まだまだ結構元気である。
中野さんの記事の中で片山さんを見つけ、私をレースの世界に引きずり込んだ張本人の山本隆(60おじさん)があんなBSの仮契約の話を書くものだから、遠い昔を思い出したのである。
然し、今思ってもレースの世界を知っていて良かったと、心から思っている。
この週末は、その60おじさんと三木のアネックスパークでON ANY SANDA ヴインテージモトクロスである。
先日、スズキの中野さんが纏められている『日本モーターサイクルレースの夜明け』のことに触れたが、この記事の中に片山義美君の記事を見つけた。
最近のレース界のことはあまり知らないが、丁度私などがレースに関係しだしたころは、まさに日本モーターサイクルレースも夜明けの時代で、レース界自体が今のように大きくなかったし、何か纏まっていたように思う。
MFJもまだ全日本グランプリが第1回のころで、MFJよりもむしろクラブチーム主体のMCFAJのレースのほうが実質賑やかな時代であったのかも知れぬ。
片山義美君は当時から既にスズキのGPライダーとして世界に通用するライダーであった。
神戸木の実と言うクラブチームを主宰し、当時のライダーとしては山本隆、歳森康師、金谷秀夫などを擁していた。
私は当時広告宣伝課を担当しレースもその範疇に入ってはいたのだが、直接の担当は川合寿一さん(故人)がやっていて、殆どレースのことは解っていなかったのである。
1964年のシ-ズンオフのことである。
山本隆君がブログに書いているその事件で、私はレースの世界に首を突っ込むことになったのである。
彼はそのブログの中でこう書いている。
『64年シーズンオフに、ブリジストンファクトリーに移籍の話が纏まり、仮契約まで漕ぎ着けていたのだが、ある人物の一声で元の鞘に納まってしまったのです。』
ある日川合さんが『山本と歳森がBSと仮契約をした』と言ってきた。
それがどのくらい大変なことかさえ、よく理解できなかったのだが、『兎に角片山義美さん会って、何とかして欲しい。』と言うのである。
そんなことで、私が日本のレースライダーと最初に話をした相手が片山義美君である。
話の中で、彼はいろいろとカワサキに注文や文句を言った。厳しい苦言が多かったが、『もっともだ』と納得出来ることも多かった。
『ちゃんとやる』と約束をさせられて、その約束を果たすべく私はレースの世界に足を突っ込むハメになったのである。
山本君が書いているある人物が、片山義美君である。
ホントに文字通り『一声』で解決をした。『うんもすんも』なかったのである。
そんな時代であった。
片山義美はこんなライダーである。二輪も四輪もこなし、まさに天才と言っていい。
これを見ると、凄かったんだなーと改めて思うにである。
有名ライダーたちが、一目も二目も置くはずである。
私は何となく気があって、親しくして頂いた。
片山君はお母さんの血を継いだに違いない。気丈で面白いお母さんだったが、特に親しくさせて頂いた。従野孝司君がカワサキの工場のラインからスタートしたのだが、これもお母さんに頼まれてのことである。
カワサキとは直接契約はなかったのだが、その後金谷秀夫も片山の弟の従野孝司も後清原明彦、星野一義まで神戸木の実の世話になった関係で、いろんな想い出を共有している仲間である。
片山の引退パーテイのときは、金谷が段取りをしたのだが、何の契約もなかったカワサキなのに、スズキ、マツダさんを差し置いて、主賓の幕開けのご挨拶をさして頂いたのは、今となっては私の自慢である。
また、今は引退してこの世界的なライダーは、三木に店を持ち、直ぐ近くに住んでいる。昨年、オートポリスで走った後、清原がお世話になったので御礼に行くからと誘われて一緒に昼飯を食ったりした。
まだまだ結構元気である。
中野さんの記事の中で片山さんを見つけ、私をレースの世界に引きずり込んだ張本人の山本隆(60おじさん)があんなBSの仮契約の話を書くものだから、遠い昔を思い出したのである。
然し、今思ってもレースの世界を知っていて良かったと、心から思っている。
この週末は、その60おじさんと三木のアネックスパークでON ANY SANDA ヴインテージモトクロスである。