★前年の12月1日付で、広告宣伝課長から、東北6県の代理店を担当する仙台事務所の所長という辞令を貰った。
仙台事務所長と恰好はいいのだが、事務所などどこにもないし仙台には担当者など一人もいないのである。
それまでは東北販売課ということで東京を本拠にベテランの課長さん二人が3県づつを担当していて、課員は一人サービスの技術関係が二人、経理事務が一人いずれも東京が定位置で、そこから出張ベースで東北6県を駆け巡っていたのである。このメンバーを引き受けたのだが、課長さん二人は2月末までに引き継いだら他を担当することになっていて、あと残るメンバーは営業などは全く経験のない素人集団なのである。
この時代はまだ全国各地に地元資本の代理店も残っていたし、一部はメーカー資本にはなってはいたが、その経営自体はそれぞれの代理店の経営形態が色濃く残っていて、資本はメーカーと言っても社長はかっての地元の社長さんがそのまま残っていた形態であった。
34歳の若輩所長にとっては10歳以上も年上の各県の社長さんがほとんどで、それも地方の名士、それが形態的には仙台事務所の管轄下にあると言う、この時期独特の形態であった。
★取引形態も、農村地帯独特の盆払いだとか、コメが取れたらとか、委託形式だとか、とても今の人たちには説明も難しいような取引形態だったのである。
『モノを金に換える=これを営業という』 と言ってくれた福島オートの蓬田さんの言葉が一番よく当時の営業を表している。
モノを売ることはそんなに難しくはないのだが、それがなかなか金に換わらないのである。
モノを売れば、売掛金になる。利益だけは上がったことで計算される。その売掛金がなかなか支払われない。何ヶ月も売掛金のままでいる。回収をしたら何ヶ月ものサイトの手形である。それも銀行には持ち込めない自宅払いの手形、まあいえば証文みたいなものもある。その手形が不渡りになる。分割手形が少しずつ落ちてやっと現金になる。
こんな形態では、沢山モノを売った代理店は、資金繰りが大変である。売れば売るほど資金は寝る。資金が寝たら借入金が増える。銀行金利は日分2銭5厘、年利にすると10%近くになる。
沢山売った、メーカーに表彰状を貰った代理店ほど、経営が悪くなる。営業内は黒字だが営業外で赤字になってしまうのである。
メーカーとは技術屋さんの集団みたいなものである。単純に沢山売ったら儲かるはずと思っている人が殆どの集団なのである。(当初は私もそう思っていたのだがーー)
悪意はないのだが、頑張って売れという人たちの集団であるから、メーカーに協力して沢山売った代理店から順番に、経営は破綻してメーカからの資金援助、そして結果的にはメーカー直結の直営代理店への道を歩んだのである。
★メーカーからこんな営業の第1線に出向した人は、カワサキの場合は極々わずかである。
こんな図式の問題点を理解はできたが、これを跳ね返すほどの権限もなくて、メーカーに協力すればするほど大変な代理店の社長さんに、出来る範囲での協力をする、そんな4年間が始まったのである。
(こんな現実の資金繰りの大変さは、それから15年も経ってメーカー自体が直営の海外販社の経営で経験するのである。
一番大量に台数を売ったアメリカ市場が一番大変なことになるのである。売る量が大きいから金利の額もべらぼうになる。信じられないかもしれぬが金利20%に時代がアメリカにあったのである。銀行借入金が300億円もあったりした。そんなカワサキの二輪事業の危機に企画を担当させられたが、『大丈夫すぐよくなる』と本社に対し自信を持って言いきれたのは、この4年間の東北の経験が、そう言わせたのである。こんなのは人災だから、単純に末端で売れる台数だけ売り、資金繰り中心の経営の仕組みにすれば、簡単に解決するのである。1年で世界の販社は全部黒字になったのである。)
そんな環境下の仙台ではあったが、現実の営業活動は初めての経験の連続で、めっぽう面白かったのである。
一緒にやった仲間たちも、東京をを離れて仙台に移り住んでの経験もみんな初めてだったし、営業そのものが初めての人ばかりの素人集団は、それなりに努力して代理店の社長さんたちにも結構信頼された仙台事務所になったのである。
これも、不思議な話なのだが、当時のカワサキ自販は元明発、元メグロの人たちの集団で、メーカーの川崎航空機の人たちにはどうしても遠慮がある。だから、言いたいことも言えない。
それは、メーカー出向である私には『言えた』のである。仙台事務所は、常に代理店を向いていて、メーカーへの防波堤の役割を果たしたと思っている。
★こんなその当時の環境問題は兎も角、当時の実用車のカワサキでは、東北地区は最大の市場だったのである。
岩手カワサキが毎年日本全国のトップで金賞を取り続けたのである。ここの社長をされていた故久保克夫さんが私のマーケッテングや仕組みあるいは経営に関する恩師だと思っている。久保さんからいっぱい教わったことは、いまでも役に立っている。
新たに仙台に事務所を作ってさらに拡販しようと言うのが、メーカーの魂胆なのだが、営業がどんなものか解っている人は皆無とも言っていい状況で、『上手くやれよ』と一人で仙台に放り出されたのである。
事務所は、宮城カワサキの事務所に一つ机を置かせて貰ってスタートした。2カ月間は一人だった。女子を雇いたいと言ったら、新聞広告をして集まった中から面接して選べと言う。広告で面接に来た最初の菊池文子さんをその場で入社決定としたりした。それくらい一人は大変だったのである。
営業はメグロ出身の海老沢くんが一人いたが、それまではサービスをしていた宇田川君を急遽営業にした。東京にいて経理をしていた石塚君を呼びよせて経理と営業も担当させた。
石塚君はショッチュウ仙台に来るなと思っていたら、秋には宮城カワサキの女子社員を奥さんにしてしまった。
部長は、当時『宮川天皇』と言われていた明発の財務部長をされていた宮川さんであった。私はサラリーマン生活の中で、そんなに上の人が『こわい』などと思ったことはないのだが、宮川さんには一番気を遣った。そんな雰囲気を持った方だった。
あとはサービスはベテランの田中さん、そんな陣容だったのだが、この年は宮城カワサキの中に事務所を借りて過ごし、秋には独立の事務所をもつべく土地を物色し候補地を決めた。今の仙台の事務所の土地である。
★解らぬことが多くて、教えてもらうことばかりであったが、一つだけ私の顔と実力が効いたことがある。
それはレース関係であった。当時は東北は、モトクロスが日本でも一番盛んな地方であった。各地でモトクロスが開かれたし、この年のMFJの日本グランプリは郡山で開催された。
その場所は自衛隊の演習場で、MFJの山田事務局長に頼まれて、元陸士出身の福島オ―トの中西社長と自衛隊にお願いに行ったりもした。
山本、歳森、岡部、梅津、星野とカワサキのモトクロス全盛期で、ライダー連中も気心の知れた私のいる東北のモトクロスにはみんな喜んで参加してくれた。
参加したら勝つのが当たり前のそんな時代だったのである。
まだ各県の県警の白バイはメグロが主流のころで、宮城県警を皮切りに各県警の白バイ隊のライデイング指導を山本隆君がずっとやってくれたりした。
宮城カワサキのサービス工場長を服部謙治君だった。初代服部カワサキの社長さんで今でもサクランボや宮城のお米を毎年送ってくれるので恐縮している。宮城カワサキは服部君を始めモトクロスをやる連中がいっぱいいて、事レースに関することはファクトリーに顔が効いたので、これだけは私の天下だったのである。
ファクトリーの連中も毎月のように、東北を訪れていた。
そんな東北、1年目であったが、具体的な面白いこともいっぱいなので、もう1回、この営業1年目のことを書いてみたい。