★昨日に続いて、『初めての営業経験ー2』
仙台への転勤は、サラリーマンになって初めての経験であった。
12月1日の辞令で、現地には事務所もなにもないものだから、なにを用意するのかその辺からの検討なのである。
12月いっぱいは明石で、周囲の人といろんな検討をしたのだが、誰もどうすればいいなどの具体的な案は示してはくれなかったのである。
会社としても初めての経験で、前例がないのである。
この話が出たのは、トップの岩城社長が東北の社長さんたちとの会合の中で、現地の社長たちが仙台に出先事務所を造ってくれと要望し、岩城さんが『造る』と即答されたことからスタートしている。
よく大会社である下からの申請を上が決裁した案件とは全く違って、現地の社長さんたちもちゃんとしたイメージがあって言ったのかどうか、その辺は定かではないのである。
従って誰に相談しても、案など持っているわけもなく『向こうに行って現地の社長と相談して、うまくやれ』とか、『現地の中に入って東北の民謡がちゃんと歌えるようになってこい』とか、そんなレベルの答えしか返ってこなかったのである。
私が要求したのは、足になる車が欲しいとただ一つそれだけであった。
4月の新しい期になるまで待てと言うので、それはダメだと頑張ったら、当時の近畿の部長の清水屋さんが近畿に1台しかなかった、コロナのシングルピックを餞別にやると言っていただいて、年明けの初出の1日前に明石を出発して一人車の陸送を仙台まで1000キロ走ったのが初仕事であった。
★東北の仙台に、独りで転勤させるのは、どうも会社も気が引けた節があって、いろいろ気は遣っていただいた。
家族は春になってからと勧めて貰ったが、仙台に着いて一番先に自分の家を見つけることからスタートした。関西などと違って家賃は比較にならぬほど安かった。
今の仙台球場のすぐ近くに、新築の1戸建ての庭付きの家が見つかって1月20日に家族4人仙台の住人となったのである。
流石に寒かった。仙台あたりは札幌などと違って寒さ対策など何となく中途半端なのである。家には雨戸がなかった。関西人なので、直ぐ『不用心』だと言ったら、『この辺には泥棒はいない』と答えられたのが、今でも印象に残っている。確かに東北の人の温かさ、人間の良さを味わった4年間だったのである。
結婚以来初めての1戸建ての家で、関西から遠く離れて、まさに独立した家庭を持った気にはなったし、家内も結構張り切っていた。
月のうち半分以上は出張で、家にいることは少なかったが、その反面土日に家にいるときは、100%家庭サービスに勤めていた。子供たちもまだ幼稚園に入るかどうかの年齢で手も掛ったがどこに連れて行っても素直に喜んでくれる年ごろであったのもよかった。
犬も飼えたし、直ぐヨコの田んぼではドジョウが幾らでも採れたりしたリした環境だった。そんな自然もある仙台の街は綺麗だし、ここならずっと住んでもいいなと思うような町だったのである。
酒と言ったら『2級酒』が普通だったし、『肉』と言ったら牛ではなくて豚肉のことで、肉屋に牛など売っていなかった。
そんな仙台の名物に牛タンが出来たりしたのは、やはり時代なのだろうが、不思議に思っている。
★仕事は、東北6県の代理店の管理、営業なのだが、主力の代理店は既にメーカー資本が入っていたので、その経営管理もやらねばならなかった。
その前の4年間が、年間1億円もの広告予算を使うばっかりが仕事で、会社の経営がどっちを向いているなど少しも解っていなかったので、世界が180度変わってしまったのである。
東北6県の広さにもビックリした。特に北3県は仙台から盛岡が200キロ、さらに青森までがまた200キロである。200キロとは明石ー名古屋の距離だから車の移動も大変であったが、道は空いていたし、適当に峠もあって車の運転は面白かった。
4月に新しく増車したライトバンには回転計をつけ、当時、日本の唯一のミシュランの代理店であった福島オートにラジアルタイヤをつけてもらって、結構ドライブを楽しんでいたのである。そんなに早く走ったわけではないが、スローインファーストアウト、アウトインアウト、やダブルクラッチ、ヒールアンドトウなどのレーシングテクニックには格好の道ばかりだし、舗装のない道ではダート走行のテクニックも駆使出来たし、一番楽しかったのが雪道走行だったリした。
これは、レーシングチームにいて、当時は鈴鹿サーキットがS600で金さえ払えばだれでは走れた時代だったから、そんなテクニックもライダーたちにいっぱい教えて貰っていたのである。そこそこちゃんと走れたので、モトクロスにやってきた山本隆君や星野一義君などにも認めて貰っていたのである。
★東北での4年間、私が一番よかったと思っているのは、『大学卒でない、学歴などない人たち』と付き合えたことである。
仙台事務所のメンバーも主力はみんな高卒だったし、代理店のメンバーも、高校どころか、中学卒の人たちもいっぱいいた。大学出の高学歴者は代理店の社長を含めても、3人もいただろうか。
それでいて、東北の実績は、日本のどの地区にも負けないトップレベルを維持していたのである。
営業などの仕事に学歴など全然関係ないと心底信じるようになったし、その後も学歴などには一切関係なく仕事でいろんな人と付き合えたのである。
このスタンスは、その後川重に戻ってからも、今現在もずっと貫いている。
カワサキのなかで、一緒に仕事をやった仲間は、勿論大学出の人もいるがむしろそうでない実力派と好んでつきあった。重用したといってもいい。そんな人の方がホントの実力があったような気がしてならないのである。
★幾らか仕事にも慣れたこの年の暮れ近く、当時の七十七銀行の紹介もあってホンダオート山形が、カワサキをやってもいいと言う話が出て、いろいろ交渉の結果12月末にカワサキ山形が誕生したのだが、いろんな意味でこの話は吉田敬さんにご迷惑をかけたと今でも思っている。
当時の私の立場での責任でもないのだが、カワサキを扱うために株の譲渡など行われたのだがその処理についても、当時この話が起こったのは、カワサキでも50ccのモペットを開発していて、50ccが売れる販売網を作ろうとしていたのだが、その後の川崎重工との統合話の時にその50cc話は流れてしまったのである。
そんなことで、その後山形カワサキはボートのFRPなども手掛けられたが、結果的には上手くいかなかったのである。世のなかには流れみたいなものがあって、うまく流れに乗るといいのだが一端逆流になると、人の努力だけでは解決しないものである。
それは仕方のないことだったかも知れぬが、最初のきっかけを造ったのが私だけに、結果は残念で仕方ないのである。
★当時日本で一番台数を売っていた岩手カワサキの翌年度の事業計画数値は、
売上台数 2000台、 売上高 2億円 、 経常利益 200万円 なのだが、
営業外の金利の内訳には 車輛金利 800万円 銀行金利 700万円 とある。
その当時の商売の難しさをよく表していると思う。 これは日記の中にあった数字である。右も左も解らなかったが、1年経つと日記にこんな数字が書けるぐらいまでには成長しているのである。
そんな昭和42年、初めての営業を経験した年であった。