★東北の営業と言う初めての経験で3年目を迎えた昭和44年、1969年は、4月に川崎重工、川崎車輛、川崎航空機の3社が合併して、川崎重工業として再スタートした年である。
社長は砂野仁さん。この人のコネで入れて貰った会社だが、入社1年目のように明石で気軽に話をしていた、砂野さんではなくてなんだか遠い人になってしまった。単車事業も3社合併の足を引っ張らないようにと、損益的な経営対策が最重点に講じられるように転換した年でもあった。
この年の秋には、A1に続いて、500ccのマッハⅢが発売された年で、ようやく日本の二輪市場にも実用車からスポーツ車への移行が始まった年であったとも言える。
東大闘争があって東大の入試が中止された年でもあった。
★前年度までの新米営業では、訳の分らぬうちに、特に前年度は売り上げ好調で、全国の金賞、銅賞二つ、台数では関東を抑えてトップを走っていたのだが、この年は春からもう一つで、来る月も、来る月も、前年度実績を超えることは出来なかったのである。
そして3月の新体制では、新しく田中誠社長になった。
直営部長には製造部門から高橋鉄郎さんが着任されたのである。
田中誠さんは財務、資金からの社長就任で台数至上主義みたいな営業から、一転損益重点の方針に転換されたのである。高橋さんはレースなどでは関係があってよく知っていたのだが、営業に来られる前は,大の営業不信論者で、『いつも営業はウソばっかり言ってけしからん』と言ってた方なのである。短い期間の国内営業経験であったが、その後はユーザーとのダイレクトコミユニケーションを第一に考えるマーケッテング信奉者に変身されたのである。
前年度が、表面上は最高の成績で、全国的に元気がないなかで、元気だけは抜群の東北だったからか、
田中社長は、就任直後の3月15日から、22日まで東北6県の視察に来られて、この期間車でずっとご一緒しているのである。車は私が運転で、異動している間もずっと話が出来たので、この期間ずっと二人で話が出来たような1週間であった。田中さんは入社2年目ぐらいの償却計算のIBM化をやってた頃の上司で大学の先輩でもあったので、お話はしたことはあるのだが、こんなにみっちりと話が出来たのは、はじめてであった。
そのあとすぐ続いて、直営部長になられた、高橋鉄郎さんが月末にかけて3日間の視察に来られたのである。高橋さんとは、その後ずっと関係があって、ずっと面倒を見て頂いた上司なのである。今、やっているNPO法人The Good Times でも相談役を、お願いしているし、3月4日の『カワサキの想い出、そして未来』でも出席頂いて、ご挨拶を頂こうと思っているのである。
海軍兵学校の卒業で、このときの出張でも純粋で一途な秋田カワサキの斎藤雄幸専務を評して、酒の席だが『いい軍人になる』と言われたのを何故かよく覚えているのである。
★こんな、本社からの期待に満ちた、シーズンインであったのだが、来月は、来月はと思う1ヶ月が年末まで続いたのである。
この年から、台数よりも損益中心、経営中心の方針に転換されて、東北6県の10社を超える代理店の経営管理が主たる仕事になったのである。
会社に入って、初めて事業損益と言うものを意識した年である。私は商大の卒業だが、簿記の単位もとっていない。バランスシートも貸し方や借り方など訳の分らぬ言葉を聞いただけで、イヤになってしまって、諦めてしまったのである。
この年初めて、各社の損益を立場上は指導する立場に立たされたのである。経理の専門の石塚君がいたお陰もあるのだが、この1年で簿記の本など1冊も読まずに、相当のレベルまで、事業経営も、損益計算書も、特にバランスシートの読み方も身についたと思っている。
東北各社の経営のやり方は、それぞれ特色があって10社10様であったこと、そのほとんどの経営は順調ではなかったのである。特にバランスシートは経営の悪い会社ほどややこしいことになっているのである。不表現損失、含み損がいっぱい隠れているし、それが即資金繰りに影響してしまうのである。
当時の、売り上げの方法が、委託販売だとか、手形回収してみてもそれが自宅払いの銀行に持ち込めない手形であったり、極端なところは架空売り上げもあったり、実際の教材がいっぱい転がっていたのである。
難しそうに経営を言う人がいるが、経営などそんなにややこしいものではなくて、単純な足し算、引き算だけなのである。貸借対照表などは、そんなに難しいものではなくて、右と左はバランスするように出来ていて、流動資産などと難しそうに言うが、1年以内に現金に替わるであろうものを、現金から順番に並べていて、それが1年以内に支払わねばならぬ流動負債より沢山なければ、払えないのは当たり前の話である。
然し、1年以内に現金にならないものがいっぱいあったりするのである。このあたりのいい代理店、ダメな代理店の現実を一杯見せて頂いたこの1年の経験は、普通のサラリーマンには出会えない貴重な経験であったのである。
この経験は、その後何回も現実に役に立ったのである。後になるほど、対策の金額が大きいだけで、その難しさは大きくても小さくても同じなのである。
36歳のこの年以降、退職するまで、何らかの形でずっと企業経営を現実に担当することになったのは、この年の経験が生きている。
要は『モノを如何に効率よく金に換えるシステムの創造』がモノづくりのメーカーの経営だと思っているが、後半は『モノ』の代わりに『ソフト』を考えたりして、今も続いているのである。
★大変な年ではあったが、秋にはマッハⅢが発売されたりして、若い人たちには人気があった。仙台事務所にもそんなユーザーたちが集まるようになって、年末ごろにはそんなユーザーたちを相手のスポーツショップを造りたいと明石に申請し何とか勧める方向になってきた。宮城カワサキの服部君たちと一緒に勧める計画であった。
また年末には、仙台のMFJの佐藤さんが村田町に仙台テクニカルハイランドというモトクロスコースを作ろうと言う計画があってその援助などをやっている。今のヤマハのSUGO菅生の前身なのである。
何となく、ユーザーに対するダイレクトな組織化みたいなものを、このころから夢見ていた。
★子供たちは息子が幼稚園で、休みには一緒に魚取りなど結構遊んでやっているのだが、私の母や、家内の両親が遊びに来ても、なかなか時間がとれずに、家内の両親などには子供たちを連れて温泉に行って貰って、その間に二人で羽を伸ばすなど、いい加減な対応だったのである。
このころには年末のボーナスも22万円も、あって、給料ももうちょっとで10万円に届くかどうかと言うところまで上がってきた。
この年に19インチのカラ―テレビを買っているが、定価が179000円を134000円で購入している。先日テレビを買ったが値段は今も同じ様なレベルなのである。
★いろいろあったが、この年は何と言っても事業損益が解ったことである。
そういう意味では、人生で一番進歩した1年であったと言えるのかも知れない。
それは、代理店の経営が苦しい時の損益対策や、損益分析であったためで、これが順風満帆の経営であったら、ホントのことは解らなかったに違いない。
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