★昭和56年(1981) 大変な年であった。
カワサキの単車事業の主力市場のアメリカKMCが大赤字で、プラント事業部の赤字受注の問題も発生して、川重全体の経営にも大きな影響が出てきていた年だった。
年初から、KMCをどうするか本社財務も入って検討されており、高橋鉄郎さんがアメリカにいくらしいとか、田崎さんのアメリカ行きなども、ずっと話題に上っていた。
兎に角、今まで経験したことのない海外の、それも販売会社経営の話だから、本社財務もいろいろ案はあっても財務対策からのものであり、経営そのものについてはよく解らなかったのだろうと思う。
二輪事業はカワサキにとって、全く初めての事業だったし、KMCはその設立以来10年、浜脇洋二さんがずっと先頭で走って築いてきたものだから、浜脇さんが戻られアメリカ人のマセックも辞めて、現地に経験者がいなかったと言うのは間違いない事実であった。
この当時の2年間、これも大赤字であった国内市場だが、FX400の大ヒットもあって、2年の間に黒字どころか累損、含み損も消去し、売上高100億円は200億円以上に倍増したりして、
国内の連中が海外もやればなどと、ホントにそんなことも、特に本社の人たちは思っていたようでもある。1月の国内の新年会には長谷川副社長も大西常務も出席されたりしたのだが、パ―ティーの立ち話だが、大西さんはしきりにそんなことを言われていた。
こんな状況の中で、塚本本部長は6月で退任され、新たに青野本部長体制になったり、人事職制もいろいろあって、本社も財務的にKMCへの資金的なテコ入れもやったりしたのである。
この年の8月には、高橋さん田崎さんがKMCを担当されることになり、アメリカに渡られることになったのである。
★ 2年間好調であった国内もその伸び方が急激過ぎて、物流問題など構造的に見直さねばならぬ問題など、過去の2年と比べてそんなに楽ではなかったが、期間損益だけは何とかなった状態であった。
一番末端の市場に詳しい藤田孝明君を大市場の東京に抜擢したりして、翌年への対策などを講じていた。
販社の経営などは、末端の状況がちゃん解ることが第一で、、その成否は『マーケッテングマインド』があるかないかに掛っていると思っている。 何よりもそれが必要なのである。
それは現場の経験から得られるのだろうが、カワサキの場合はそんな経験を積んだ人が、極端に少なかったことが、苦しい時代が長く続いた大きな原因の一つなのだろう。
6月に、青野さんが本部長で戻られて、カワ販の社長にも就任された。 (青野さんは技研所長からだったが、2年前まで二輪の副本部長をされていた)
その時の社長報告の中から、抜粋してみる。 当時のカワサキ国内の状況なのである。
★国内のこの時点の状況報告だが、
カワ販本社自体は10人ほどの小さな会社だったが、組織機能はちゃんとあって、当時の管理面は前田祐作君、マーケッテングは富永君という素晴らしいスタッフが、トータルシステムを創ってくれたのだが、
『基本コンセプト』や『自分で報告すること』は、『自筆で自分で書く』 これは退社するまで一貫して続けている。
そんなことで現役のころは一切パソコンなどは使っていない。パソコンに出会ったのは70歳を超えてからである。
そのコンセプトが企画部門のスタッフと遊離していたことなどはない。 そうすることが、『リーダーの責務』 だと思っていた。
国内は何とかこれくらいで済んだのだが、
主力のアメリカ市場のKMC の経営は、さらに悪化して年末ごろには、赤字100億円と言うような噂まで流れた。
ただ、横で眺めているだけの立場だったが、当時のアメリカの金利は20%に近く、その借入金は300億円に達していたので、金利の支払いだけで60億円もあったりした。 別に営業利益が無茶苦茶悪い状況でもなかったので、営業外の構造対策さえすれば、直ぐよくなるとは思っていた。 そのトータルシステムの絵が描けないのである。
当時の田崎さんとは、そんな話ばかりしていた。 そして翌年10月には、本当に事業本部企画を担当することになるのである。
★この年ごろは、ゴルフにも一生懸命だった。
播磨カントリーの会員権を買って、初めてメンバーにもなったし、ゴルフを始めて5年、ようやく80台も出て一番熱の入った時期でもある。
このカップの取り切り戦があったのは、この年の7月30日、城山CC。 ちなみに優勝スコアは43:42の85だった。
播磨CCで、初めてもらたオフィシャルスコアが18だった。
それ以降翌年にかけて月例にもずっと出ていたが、播磨CCはコースレートが高いのでアンダー分はそのまま、オフィシャルハンデイは減っていくのである。
グロス90が18だから、 月例で、翌年グロス87. 85. 82. と連続して出て、半年ほどで オフィシャル10 までにはなった。
普通は、そこからシングルを狙うのだろうが、どうもシングルは何となくイヤでそれ以降はあまり月例にも出ていない。
幾ら頑張ってみても、70台を維持するのは大変だし、
ゴルフに限らず、『専門家の域』には、あまりなりたくない、極めるためには楽しさよりも苦労の方が大き過ぎると思ってしまうのである。。
★家庭は息子は高校3年、娘が高校1年になった年である。
あれだけサッカーに熱中していた息子は、大学に入るためにと突如受験勉強をし出して、秋の国体選抜の招待が来たのに断ってしまっている。これにはビックリした。
これは、間違いなく家内の性格を受け継いでいると思っている。
そういう意味では、娘の方が私に近い、何事も大雑把である。
そんな子供たちも、もう45を過ぎた。
と言うことは金婚式ももう近いのである。
昭和56年の話は、ついこの前のことのようにも思うが、もうずっと以前の昔話なのである。
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