★昭和20年(1945)8月15日、天皇陛下の玉音放送を私は京城城東中学校の校庭で直立不動の姿勢で聞いた。
よく聞こえなかったのだが『戦争に負けた』ということは解った。
朝鮮の人たちは既に解っていたのだろうか、
学校から帰る市電には『歓喜の朝鮮人達』が朝鮮の旗を掲げていっぱいで、
とても乗ることなど出来ずに家まで歩いて帰ったのである。
1945年8月9日、ソ連は満州国と朝鮮半島北部に侵攻を開始した。
ソ連軍が単独で朝鮮半島を占領する事態を防ぐため、
「北緯38度線で暫定分割する」という案が画定され、この案はソ連側に提示され、8月17日には決定されたのである。
同一民族であった朝鮮が世界の大国の判断で分割されてしまったことは、
本当に不幸なことだと思っている。
あの戦争で一番被害を受けたのは、敗戦国の日本ではなくて、
『朝鮮民族』だったような気がする。
『南北統一』も言われるが、政治体制の問題もあり、
現実に実現を図ることはムツカシイのかも知れない。
京城(ソウル)は南鮮であったためアメリカ軍による軍政が敷かれ、治安は非常に安定していたのだが、
日本ではなくなったので、日本に引き揚げざるを得なくなってしまったのである。
38度線以北の北鮮にいた人たちは大変だったようだが、
京城など南鮮では特に大きな問題もなく、順次引き上げていったのだが、
引き揚げ時には持てる荷物とお金は1人1000円だけだったので、
家をはじめ財産はそのままに、引き揚げてきたのである。
★我が家は母の出産が11月あたりに予定されていたのと、
私が遊んでいた時に左足が折れたのか、ひびが入ったのか、
医者がいないので診て貰っていないので詳しくは解らないのだが、
歩くのが難しかったこともあって、妹たちだけが楠見の伯父夫婦と一緒に先に引き揚げたのである。
戦時中には母の兄の楠見幸信伯父が楠見組の仕事で京城に来ていてずっと我が家にいたのだが、
ちょうど終戦の年に再婚して我が家の筋向いに家を借りて住んでいたのである。
その伯母の実家も京城にあって、ちょうどその横がアメリカ軍の基地になって、陽気なアメリカ兵たちが話しかけてきたりしてオモシロいというので、
私も行ってみたら、塀越しにチューインガムなどをくれたりして、
私も初めて『チューインガム』なるものに出会ったりしたのである。
そんなことで、日常の生活は戦前と何ら変わることなく無事に過ごしていた毎日だったのである。
★我が家は前回触れたように、水洗トイレやスチーム暖房など、
結構『近代的な造り』だったからかも知れぬが、
アメリカの空軍大佐の家として買い上げられたのである。
幾らで売れたのかは知らないが、
その時世話をしてくれた朝鮮人の通訳の人が
『お金を持っていても、一人1000円しか持って帰られないのだから、
それを金塊に変えて、高価なものを二つほどの荷物にしたら、
空軍大佐に頼んで、伊丹空港まで飛行機で送ってあげる。』
と言ったようで、父は金の延べ棒に変えて家に置いていた。
『15本ぐらいの金の延べ棒』で、
私はそんな大量の金の延べ棒など、その時に見たのが最初で最後である。
そんなことで、荷物と一緒に通訳の人に渡したようだが、
伊丹空港に荷物が届くことなどはなかったのである。
父も全く信じていた訳ではないのだろうが、
いずれにしても持ち帰ることは不可能なので、
『ダメもと』でそんなことをしたのだと思う。
それは『通訳の人』に渡ったのであろうが、
いずれにしても持ち帰ることは出来なかったので、
そんなに腹も立たなかったのである。
★妹たちは10月頃に、一足先に伯父と一緒に日本に引き揚げたのだが、
両親と私と生まれたばかりの妹は、終戦の年の12月8日に引き揚げたのだが、
京城から釜山までは貨物列車だったのである。
ほんとに荷物のように貨車の中に坐っての旅だったが、
特に不満にも思わなかったのは、私の太平楽な性格なのだろうか。
釜山からは、母が産後だということで病院船で博多まで、
そして明石までは普通列車で引き揚げてきたのだが、
途中の広島の街もまさに『焼野原』だったし、
明石の町も『焼け跡』ばかりで、故郷上の丸の実家も消失して何も残っていなかったのである。
屋敷跡には1トン爆弾が一つ、500キロの爆弾が2発も落ちていて、
その跡は逆三角形に大きな穴が開いていて、その一つには水が溜まって池になっていた。
焼夷弾はホントに無数といってもいいほど地面の突き刺さっていて、
これは後、掘り返したら幾らかで『売れたり』したのである。
明石公園の外堀のすぐ横で安全だからと、
神戸の方などから疎開荷物を預かったりしていたのに、
なぜ、こんなところに爆弾や焼夷弾が落ちたのだろう。
伯父の話では、明石の町から公園に逃げてきた人の死体で、
この池がいっぱいになったそうである。
ずっと西の方に川崎航空機があったから、明石も空襲を受けたのだと思うが、
ほんとになぜ明石公園などに爆弾や焼夷弾が落ちたのだろう?
★引き揚げた先は、今は立派な街になっているが、
当時は『伊川と田んぼ』だけの全くの田舎だった伊川谷だった。
その川沿いにあったお稲荷さんのある、その隣の平屋のおうちに、
伯父家族が疎開をしていて、そこに引き揚げてきたのである。
その『お稲荷さん』は今も残っていて、その向こうの立派な建物になっている場所にその『平屋のおうち』はあったのである。
引き揚げた日から、日常生活も全く変わったものになってしまったのだが、
両親は大変だったとは思うが、私自身は『新しい戦後の生活』が物珍しさからか結構楽しんでいたようなところもあったのである。
食糧事情も悪かったが、上の丸の土地に芋や野菜やトウモロコシなどを植えて自給自足の足しにしたし、
その肥料にするために、明石の町に馬糞を拾いに自転車で走り回ったりしたのである。
馬糞は直ぐ1斗缶にいっぱいになるほど取れたので、当時はまだ馬車がそんなに多かったのである。
こんなことも『辛い想い出』ではなくて『懐かしい想い出』として、私の脳裏に残っている。
★ それにしても日常生活は全く戦前・戦後では変わってしまったのである。
こんな凄まじい変化の中を生きた経験からか、
その後の人生で、私は『大変だ』と思ったことは皆無で、
人間少々の環境の変化などには、簡単に対応できると思ってしまうのである。
そういう意味では『いい経験』をさせて貰ったと思っているし、
『裕福も貧乏も』それなりにいいところがあるものなのである。
88年の自分史を現在に近いところから、逆に子ども時代に向かって書いてきたが、
その最後となる『戦前の子供時代』もこの稿を最後に幕を閉じることにする。
『反省しない』というか『済んでしまったことは仕方がない』と、
何事にも振り返ったりはせずに生きた私の88歳の人生は、
この子供時代に身に付いたものかも知れないのである。
本当に『激変』とも言える『環境の変化』の中で
戦後の『私の中学校生活』が引き揚げてから4ヶ月目には始まったのである。
その新しい学生生活は『一人も知った友達のいない』環境の中でスタートするのだが、それも不思議なほど自然に『溶け込めた』し、
その後の人生で『新しいことに』臆することなく挑戦出来たのも
こんな『子供時代の経験』がそうさせたのかも知れないのである。