★昭和16年(1941)12月8日、大東亜戦争が始まった時は小学校2年生だった。
『天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐たる大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。
朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。』
こんなムツカシイ『開戦の詔書』が出されて
毎月8日は『大詔奉戴日』として校長先生がこの詔書を読まれて、
運動場で直立不動の姿勢でそれを聞いていた。
そんなこともあったのか、小学校時代にも『こども・こども』したようなところがなくて、
自分で言うのもおかしいが、結構確りとした小学生だったような気がする。
小学校に入学した時の記念写真である。
その大東亜戦争はマレーシヤあたりから始まって、
翌年の2月には『シンガポールが陥落』したし、その後も連戦連勝で、
フィリッピンも今のインドネシアも日本軍の手中になった。
小学生3年生の時だと思うが、白地図に日本が占領したところを赤く塗っていく教科があり、どんどん赤いところが増えるので、
当時の朝鮮・満州はもとより東南アジアがどんどん赤く塗られて、
これは『世界中が日本になる』などと思ったのを覚えている。
こんな感じで、どんどん赤く塗っていったのである。
こんなことが続いたので、地図や地理に興味を持つようになったのかも知れない。
★戦争当初はこんな感じだったので、確か小学校3年生までは戦時中ではあったが、夏・冬の休みの明石帰省は続いていたのである。
京城から釜山までも、下の関から神戸までも1等車の展望車に乗っていたし、
関釜連絡船も金剛丸とか興安丸など豪華客船の1等船室での旅だった。
こんな贅沢な経験があるのは、こどもの時だけなのだが、
父には旅の途中での行動を結構厳しく躾けられたのを覚えている。
こんな夏・冬の明石帰省は3年生までは続いたのだが、
確か4年生の春に関釜連絡船がアメリカの潜水艦の魚雷で撃沈されてからは
流石に終わってしまったし、
その後は戦局も一転負け戦に転じて、本土空襲などもあって、
昭和20年8月15日の終戦に繋がっていくのである。
その年が中学1年生だった。
★『子供時代』には、父母は私には細かいことは言わずに自由放任だったが、
今思うと父母に遊んでもらったことは殆どないし、
母方の祖父も、父方の祖母も孫に対しても毅然とした態度を崩さなかったように思うのである。
子どもを甘やかして育てない、そんな時代だったのかも知れない。
戦時中ではあったが、朝鮮には空襲もなかったし疎開などもなく、
食糧事情なども何の問題もなくて戦争をしている実感は殆どなかったが、
小学生5年生頃からは、兵隊さんが来て『教練』があったりした。
アメリカの飛行機は飛んでは来たが、爆弾などは落とさなかったのである。
そういう意味では、内地のような戦時中とは全く違ったものだった。
★ 父は特に職など持ってはいなかったのだが、
何故か経済的には何の問題もない生活を送っていたのである。
父は家で絵を画いたりすることも多く、
大きな絵は展覧会にも出したりしていた。
明石の出で遠い姻戚に当たるという橋本海関に書を習い、
その息子の橋本関雪に絵を習ったのが自慢だった。
当時、橋本関雪は日本画の大家として第1人者だったのである。
これは関雪の絵なのだが、そんな関係で『関雪の絵』は家にいっぱいあったようである。
そんな関雪の絵を見て、いろいろと同じような絵を画いていた。
この絵は父の絵なのだが、なぜか戦後2番目の妹の家にあって、
甥っ子がネットにこんなことをアップしていた。
この絵は戦後、引き揚げてきてから画いた小さな絵だが、
これは今も我が家にある。
★ 戦時中だったから小学校時代は、野球は全く無縁でボールを握ったこともない。
スポーツと言えば冬はスケート、夏は水泳だったと言っていい。
スケートは前回書いた『将忠壇公園の池』で冬中毎日やっていたし、
水泳は学校にプールがあって、結構厳しく指導された。
25メートルプールだが石ころを20個置いて戻ってきたら一個落として無くなるまで、毎日1000メートルは泳いでいたのである。
先生がたの子供に接する態度も、今の時代と違って厳しかったように思う。
クラスは男の子ばかりだったが、
全体によく出来た生徒が揃っていたように思う。
『級長』などもやらされたし、京城府伊賞なども頂いたので『よく出来た』ほうにいたことは間違いないが、
『がり勉』などした覚えは全くない小学校時代だった。
これがソウルオリンピックの時に見つけて私が写真を撮ってきた
桜ケ丘国民学校である。
左手前の建物のところは体育館だったのだが、
この建物は新しく建てられたものでその向こうにあるのは昔そのままの学校で懐かしい。
当時の内地の木造の小学校などとは違って、冬はスチーム完備の綺麗で立派な施設だった。
当時の外地での日本人の生活は、平均して内地よりは水準が高かったのだと思う。
★ 当時の私の家族は、私の下に3人の妹がいて、
終戦時には4人目の子供が母のお腹にいた、そんな6人家族だったのである。
妹が言うには、家族で外で食事をする機会も多かったのに、
私だけは、夕方おそくまで友達と遊んでばかりで『連れて行って貰えてない』ようなのである。
不思議なぐらい妹と話をした記憶などもない。
小学校時代の記憶と言えば、『友達と外で遊んだ』ことが殆どで
家に『シロ』という秋田犬がいて『シロ』と遊んだことなど、
冬になると『キムチ』を幾つも甕に漬けるのに専門の女の人が来て、
白菜の間にいろんなものを挟んで漬けていたのをなぜかよく覚えている。
父とはそんなに話もしたこともないのだが、
何となく父の背中を見ながら育ってきたようにも思う。
一言で言うと『ハイカラな父』だった。
背広は神戸元町の老舗『柴田』のものというのが自慢だったし、
絵も字も書き、ヴァヨリンを弾いたりもした。
家の造りなどもサンルームもあったし、結構大きな温室もあった。
風呂は6畳ぐらいもあって広かったし、何よりもトイレが水洗だった。
暖房も全室スチームがあって、冬中切らさず石炭を焚き続けていて、
これは『石炭を夜中にくべる・焚き屋さん』がいてボイラ室だけは外から合鍵で入れるようになっていたりした。
戦前だったが電蓄も電気冷蔵庫もあったし、
当時の内地の家などと比べると、所謂・近代的なものは殆ど揃っていたのである。
そんな贅沢とも言える暮らしではあったが、
伯父と違って父は外では遊ばなかったそんな父を見て、
私は子供ながらに秘かに父を尊敬して、その背中を見て育ったのかなと思ったりするのである。
こどもの頃の、ほんの一瞬のちょっと贅沢な生活だったのだが、
それを『経験できたこと』は、
それがどんなものかと解っただけで『よかったかな』と思っている。
戦後の一転した生活や、自分で独立した『三木での生活』が
戦前の生活に比べて『劣っている』とは決して思わないのである。
88年、いろんなことを経験できたことが『私の財産』であることは間違いないのである。