★ KAZEの機関誌の今月号にF21Mのこんな写真が載っていた。
F21Mのデビュー戦は昭和41年(1966)7月の青森県岩木山山麓のスキー場で行われたMCFAJのモトクロスだが、
これからしばらくの間F21Mは連戦連勝で、界
日本のモトクロス界を席巻したと言ってもいい。
抜群の強さを発揮したマシンなのである。
★それまでのマシンは、実用車をモトクロス車に改造したもので、
このF21Mがカワサキのモトクロスマシンで初めて本格的なマシンとして作られたものである。
このF21Mが出現したのは、その前の年だったと思うが、
スズキがRH250という本格的なモトクロス車を2台創って、
当時の久保和夫・小島松久の二人のTOPライダーに乗せて、
ヨーロッパ遠征なども行い大いに当時のモトクロス界の話題となったのである。
当時のカワサキのモトクロスチームは技術部の安藤佶郎さんが監督で、
私がライダー関係を纏め、製造部がモトクロス職場を持っていて、
技術・製造・営業の3者の協力体制で行われていたのだが、
スズキのRHに対抗できる本格的なモトクロッサーを創ろうということになったのである。
エンジンは安藤佶郎が当時の175ccのエンジンを238ccまでボア・アップしたのを用意したのだが、
フレーム関係はモトクロス職場の松尾勇さんが個人的に設計図もないまま、
べニア板に形を釘で打って作り、ヘリコプターのクロモリのパイプを貰ってきて、
それに海岸から採って来た砂を摘めて創り上げたものなのである。
★ フロント・フォークもセリアーニタイプのものを新調したし
スズキと違って、当時の契約ライダー山本・歳森・三橋・安良岡・梅津・岡部・星野の全員の7台を造って、青森のモトクロスにデヴューさせたのである。
これは当時のモトクロス業界では画期的な出来事で、
注目を集めたし、現実にそれ以降のモトクロスは山本隆が3年連続チャンピオンを取るなど、
その名声を欲しいままにした名車であったと言っていい。
後には工場レーサーから技術部が正規に市販レーサーなども創り上げるのだが、
最初に造られた7台は間違いなく、設計図もなしに
松尾勇さんが個人的に創り上げたものである。
★この年の秋の東京モーターショーにこのF21Mを記念車として出品したのだが、
これを出品すると聞いて、エンジン開発の安藤佶郎さんが反対されたので、
「なぜ?」とその理由を聞いたら、
「このエンジンの基礎は125ccエンジンで、それを150㏄にし、さらに175㏄にし、235ccのモトクロッサーエンジンにしてなおかつ持っているということは、
最初の125㏄のエンジン設計が過剰品質であったということで、
設計者としてはカッコ悪い」と仰るのである。
「そんなこと、誰も思わない」と押し切って出品したのだが、
設計担当としてはそんなことも思うのか?と私はある意味、感心したことを想いだすのである。
いま思い返してみても、このF21Mは名車であったことは間違いない。
多分これが松尾勇さんの最後の作で、
それ以降は「KX」と名付けられてすべてが技術部によるものとなり、
「レース職場」も消滅してしまうのである。
逆に言うと、今となっては「レース職場」のあった昔のカワサキが懐かしいのである。