雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話  10    創成期のカワサキを支えた人たち

2023-07-31 06:43:05 | カワサキ単車の昔話

★カワサキは昭和35年(1960)に明石工場を単車の一貫工場としてスタートさせるのだが、
私自身は1961年に初めて単車営業課が出来て、
そこに配属されたので、スタートしたばかりの単車事業を知る一人となるのだが、
上司も全然単車事業のことなど解っていない素人ばかりだったので、
具体的な指示などは全くなく、結構自由に自分の裁量で物事が進められたのである。

★最初に世に出した125B7が散々の出来だったし、
 当時の世の中は50ccモペット全盛期で、カワサキはそんな小型部門は不得意だったから、
 スタートから5年ぐらいは事業としては全然ダメな時代が続いたのだが、
 昭和39年(1964)に岩城良三事業本部長になられて、カワサキの単車事業として本格的に歩きだしたと言ってもいいのだろう。
岩城さんは、それまでの「カワサキ自動車販売」と言う社名を「カワサキオートバイ販売」と改称されて、
 販売促進部門のメンバーは当時の川崎航空機工業からこの通称「ワ販」に出向となり、
 私もその「カワ販」の一員として広告宣伝とレース部門を担当することになるのである。

★ 青野ヶ原モトクロスの1位から6位までの独占したことが再建へのきっかけと言うこともあって、
レース関係は何となく「特別なもの」と言う認識もあって、
レース運営委員会」という技術・生産・営業から構成されたメンバーで基本方針が創られ、
 広告宣伝費とともに1億2000万円と言う膨大な予算で運営されていてその担当が私だったのである。

そのレース運営委員会には、青野ヶ原のチームの中心だった中村治道・高橋鐵郎さんのお二人が製造部門から加わったし、

 


 技術部門からは当時の技術部長の山田熙明部長以下大槻幸雄・安藤佶郎さんがメンバーだったし、
 営業部門からは苧野豊秋部長がメンバーで、
 私がこの委員会の事務局を担当していたのである。

 レースチームそのものはエンジン開発が技術部門
 マシン製作は製造部のモトクロス職場が担当しその管轄を田崎雅元さんがやっていたし、
ライダー契約は私が担当するという開発・製造・販売の3部門の協力体制で運営されていて、
 そのウエイトは単車事業経営の中で大きな比率を占めていたのである。 
 
このレース運営委員会は昭和39年からカワサキが初めてGPレースに参戦した昭和41年(1966)まで続いたのだが、
その後も約30年間、カワサキの単車事業の経営はこのメンバーたち中心に経営がなされたと言っても過言ではないのである。


★私自身も東南アジアのCKD事業のスタートを高橋鐵郎さんとのコンビで担当したし、
 ずっと後だが国内7万台販売達成時代も
 高橋鐵郎さんとコンビでその目標達成に尽力したのである。


  



★1988年10月には、高橋鐵郎本部長時代なのだが、
 国内市場7万台目標と言う大目標を背負って、国内市3度目の出向となるのだが、これは大変な目標だったのである。

 さて何からやるべきか?と考えたのだが
 一番最初にやったことは10月15日に、
カワサキファクトリー結成25周年記念」と銘打って、
 かって創成期に一緒にレースをやった方たちを一堂に会して、
 私としては「7万台達成への決意表明」のような気分だったのである。

 この写真におられるメンバーたちが出席されたのだが、
 これは素晴らしいメンバーなのである。

 カワサキの単車事業をスタート以来、この当時で25年間支えてきたメンバーだし、
 さらにこの後も10年以上に亘ってづつ
 川崎重工業の経営の中枢を支えた方たちなのである。
 このメンバーの中から川重の副社長が2人社長と常務が一人づつおられるし、

 


 当時のライダーたちも、安良岡・和田・金谷・山本・歳森・岡部・梅津・星野・清原と
 カワサキは勿論、日本のレース界を背負ったと言ってもいいような方たちが揃っていて
 当時の現役ライダーも宗和・多田・杉本五十洋 の時代だったのである。
 

 そう言う意味では
 この「カワサキファクトリーチーム25周年記」の出席メンバーは、
 即「創成期のカワサキを支えた人たち」と言って過言でないと思っている。 

 この会からすでに35年が経過して、
 もう逝ってしまわれた方も多いのだが、
 私にとっては本当に懐かしい方たちなのである。


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