★この2年間私自身はカワサキオートバイ販売常務として、国内を担当していたのだが、
たまたま400FXというヒット商品にも恵まれてその経営も順調そのものだったのだが、
海外販社はアメリカのKMCをはじめ軒並み赤字だったし大変な時期だったのである。
単車事業部そのものも50万台の生産を突破したというのに赤字だったのは、今思うと単車経営のムツカシさが解っていなかったのかも知れない。
川崎重工の場合は技術屋さんが多いので、当時のKMC社長も技術屋さんだったし、
資金繰りなどの営業外の分野の理解が無かったのが赤字の原因だったのだと思う。
二輪事業の場合は、全くの見込み販売による見込み生産なので、
計算上は多く生産すれば利益も大きくなるのだが、
見込み通りの販売が達成できないと、在庫過多・金利増大・値引き販売と
どんどん悪い回転に陥ってしまうのである。
★特にアメリカのKMCが大変で、HY戦争がアメリカまで飛び火して大変だったのだが、
悪いことは重なるものでこの年雪が少なくて、スノーモビルが売れ残って、
とうとうスノー事業から撤退と言う事態になるのである。
そんなKMCの経営を立て直すべく、川重本社も関係しての次期経営者の人選なども行われていて、
私の名前なども上がていたようだが、国内を担当したばかりだったし、
1981年2月に私より一期下の田崎雅元さんがKMC社長、高橋鐵郎さんが会長と言う新体制になったのだが、
そんな新体制でも赤字は止まらず100億の赤字となってしまうのである。
★ 私自身もまだ48歳の時期だったのだが、
この時期ゴルフに凝っていて、8月には初めて播磨カントリーのメンバーとなり、
その月例にも出て最初に貰ったオフィシャルハンデーが18だったのだが、この年のうちにハンデーが12までになって、
一生懸命練習場にも通った時期である。
息子は高校3年生で秋まではサッカーに一生懸命だったのだが、
それ以降は大学受験勉強で、頑張ってた時期だった。