★昭和57年(1982)は私は49歳、40歳代の最後の年である。
会社では二輪の国内担当だったが、カワサキの二輪事業は危機的な時期だったと言っていい。
前回にも述べたが、特にアメリカのKMCが大変で、毎期100億円もの赤字が続いていて、
川崎重工業本社の財務事業本部もその対策に300億円単位の資金対策などやっていたのだが、
なかなかその効果が上がらないのである。
川崎重工業にとっての二輪事業は全く新しい分野でTOPの方たちを含め、その経営経験がないものだから、どうすればいいのか具体策が出てこない、そんな状況が続いていたのである。
私自身は、二輪事業スタートの時期に東北の販売会社を横からだが観てきたし、
その後近畿地区での第1線を経験して、当時の川重籍の中では唯一第一線の販社経験者でもあったのである。
そして、当時担当していた国内販社カワサキオートバイ販売は、唯一黒字経営で、過去にあった10億近い累積赤字も消去して、本社筋からの信頼も厚かったそんな時期だった。
★ この年の7月1日に、単車再建委員長になられた山田副社長から呼び出しがあって、
アメリカのKMCの赤字経営は止まると思うか?と仰るので、
『それは直ぐ止まると思います』とお答えしたのだが、
『それなら、お前が企画戻って旗を振れ』と仰って、
私はこの年の10月1日付で単車事業部企画部長として、復帰することになるのである。
その時私が山田副社長にお願いした条件はただ一つ、
『アメリカに行かれている高橋鐵郎さんを企画室長で戻して欲しい』とお願いをしたのである。
それは、アメリカをはじめ世界の販社の経営再建の具体策は創れるとは、思うのだが、それを全軍に指揮命令するのは、新米部長としては荷が重すぎて、
高橋鐵郎さんの力が必要だと思ったのである。
当時、高橋さんはアメリカKMCの会長として、田崎雅元社長の後ろ盾として出向されていたのだが、
山田さんは『KMCを田崎だけでできるか?』と仰るので、
「私は田崎さんよりは1年先輩だけですから、
若し田崎さんがKMCの経営をできないのなら、
単車事業全体旗振りなどとてもできません』と言って
強引に高橋鐵郎さんに戻って頂いたのである。
この人事は川崎重工業のその後の経営に大きく影響したと思うのである。
これたら約2年の間にアメリカのKMCも立ち直ったし、世界の販社はすべて黒字になって、
そんな功績から高橋鐵郎さんの取締役も実現して、副社長にもなられたし、
田崎さんもその後いろいろあったが、川重社長にもなられたのである。
そんなご縁から、高橋鐵郎さんとはそれ以降、
退職するまでずっとコンビのような形が続いて、
現役時代一番お世話になった上司なのである。
★この年は長男・古谷大治が関学に入学した年でもある。
1回生の時からサッカー部のレギュラーで出場したので、
息子のサッカーに入れ込んだ何年間かが始まった1年目になった。
会社も含めていい年の始まりだった1年だと言っていい。