★ 私は小学校の頃は、朝鮮京城、今のソウルにいた。
当時は朝鮮は日本だったので日本人はいっぱいいたし、
朝鮮の人達も日本語が話せる人が多かったので所謂韓国語は覚える必要もなかった、そんな時代である。
当時は一言で言えば『ぼんぼんの時代』であったと言っていい。
沢山あった子供の頃の写真も引き揚げの時に全部残してきてしまったので、
ほんの少ししかないのだがこんな感じなのである。
父も特に勤めなどはしていなくて
旅行をしたり家で絵を描いたりしてた優雅な生活だった。
どうなっていたのだろう?
桜が丘小学校に入ったのだが、
大東亜戦争が始まってからは、小学校が国民学校と呼ばれるようになった。
戦争が始まってからも最初は勝ち戦だったので、
夏・冬の休みには朝鮮から明石まで毎年帰省していた。
汽車も関釜連絡船も1等車の旅だった。
終戦の年が中学1年生なので、朝鮮時代が私の子ども時代だと言えるのだろう。
朝鮮からの引き揚げは一等車から一変して貨物列車でひとり1000円だけを持っての引き揚げだったのである。
それからは戦後の一変した生活が始まっているのだが、
両親は大変だったのだろうが、子どもたちはまた新しい生活が始まったぐらいにしか思わなかったのだと思う。
食い物が少なかったのが困ったぐらいで、結構楽しく過ごしたと思っている。
子供の頃と、神戸一中に転校した中学1年生の頃の私である。
★ そんな私の子ども時代なので、
私の故郷は『朝鮮京城』のような感じがする。
ずっと後、ソウルオリンピックの時に、その開会式の当日漢江でジェットスキーを走らせてほしいと、
韓国のオリンピック委員会に正式に頼まれて一度だけ韓国ソウルに行っている。
これがその時の写真だが、開会式当日漢江を走ったジェットスキーである。
その時にかって住んでた家があるのかと訪ねてみたらちょっと門の辺りは変わっていたが、家はそのまま残っていたので、
写真だけは撮ってきた。
桜が丘小学校もそのまま残っていたので
その時、写真を撮ってきた。
当時、内地の小学校はみんな木造だったのだが、
私の通った国民学校はこんな立派な鉄筋コンクリートで、
冬の暖房はスチームと言う新しい方式の学校だった。
京城には三越もあったし、いろんな建物や市電や住居など当時の内地よりはみんな進んでいたと思う。
韓国は、そんな日本の残した立派な遺産の上でスタートしたのでよかったなと思う。
★ 子供時代のこといろいろあるのだが、
トモダチたちもみんな日本のあちこちに分散してたが、
一時小学校の同窓会などもあったりした。
そんな子供時代もホントに遠い昔の想い出として残っている。