雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

奇人、変人の集まり

2007-01-17 06:42:16 | 樋渡啓祐さんのこと

以前、このブログで少しだけ「奇人、変人」について触れた。

今、佐賀県武雄市長の樋渡啓祐さんが、高槻市長公室長時代のコメントの中の言葉である。
樋渡さんの意見や発想には、私は殆どというか120%共感を覚え、完全に彼のフアンになっている。

中でも、「求む、奇人変人」は特に気に入っている
その中で、この10年最も役割の変った地方自治の最前線、市役所こそ頑張らねばならぬと言っている。
ご紹介をするので、是非一度目を通してみて欲しい。


私自身も「普通の人ではない」どちらかと言えば変っていると思っている。
仕事の上で好んで付き合った人、目をかけた人たちは皆「奇人、変人に近い、あるいは奇人変人そのもの」であった。

上司にも、誠に恐縮だが「奇人、変人」に類する人たちが多かったような気がする。

川重の中でも、単車事業部はまさに「奇人、変人の集まり」であった。
苦しい時には馬鹿にされたが、一端苦境を乗り切ってからは、遺憾なく「奇人変人の実力」を発揮して全社をリードする方向となった。

基本的に「ネアカ」で、樋渡さんの言うように「仕事で仕事をしているのでなく、遊び感覚で仕事をしている」雰囲気が確かにあった。


私の最後の勤めであった「北海道川重建機」も違った意味で、強烈な「奇人、変人の集まり」であった。
だからこそ、メーカーの系列化の波にも飲み込まれず自立を通し得たのだと思う。
そんな「奇人、変人集団」のなかで楽しく仕事が出来たのは、私自身も相当の同類項なのかも知れない。

「奇人変人のいる職場」は楽しく活気がある。
望まれるのは「奇人、変人の育つ環境の維持」である。

これが本当は、トップに立つ人が「一番考えなくてはいけないこと」ではなかろうか。


それは簡単なようで、意外に難しいことだと思う。

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カワサキのデグナーの思い出

2007-01-15 06:22:28 | M/Cレース
「エルンスト、デグナー」ドイツが産んだ名ライダーである。
スズキの契約ライダーとして、またスズカの「デグナーカーブ」でも有名である。

1966年10月、富士スピードウエイで開催された日本GPにデグナーを登場させるべく契約をしたのだが、練習中に転倒怪我で、カワサキのデグナーは実現しなかった。

外人ライダーとの契約は、デグナーがはじめてであった。
山田さん(後、川重副社長)が直接交渉し私は契約書などお手伝いをしたのだが、さっぱり具体的なことが解らず、MFJの運営委員会で面識のあったホンダの前川さんに,鈴鹿までお伺いして教えて頂いた。

9月10日のことである。
当時、日本の契約書の末尾によく書かれていた「疑義のある場合は、甲乙円満に話し合い」は駄目ですよ。若し書くなら「疑義のある場合は、甲の判断による」など具体的に丁寧に教えて頂いた。

23日には英語の契約書(案)も出来て、26日に来日したデグナーを神戸のホテルまで迎えに行った。
Good Morningと一言いっただけ、明石まで一言も喋らずに(喋れずに)戻ってきた。
契約交渉は山田さんがされた。英語が喋れたのである。大したものだと思った。


29日には、FISCOでテスト走行に入ったのだが。練習中にチェン切れで転倒し、頭を打ったので御殿場中央病院で診てもらった。
大したことはないようなので,10月1日に明石市民病院まで移動し入院させた。

ところが、3日になって容態が急変した。当時はまだ脳外科の専門医は少なく、診断ももう一つはっきりせず不安であった。
専門医の神戸医大の光野教授に診て頂くために、ツテを総動員して4日に神戸医大に移したのである。

インターンを引き連れての、光野先生の診断は非常にはっきりしていて「大丈夫です」といって頂いて、本当にほっとしたのをよく覚えている。

具合が悪くなってからの、デグナーは、まず会話がドイツ語になった。カルテをドイツ語で書くお医者さんもドイツ語が理解できなかった。
9月13日にドイツ留学から戻られたばかりの、大槻さんがGPチームの監督だったので助かった。

「日本の医学は何十年遅れている」と文句ばかり言っていたデグナーも、プロフェッサーの診断となると何一つ文句を言わなくなった。
欧米でのプロフェッサーの権威がよく解った。

10月21日にデグナーは無事退院するのだが、その間本番のレースも開催されて大変な1ヶ月半だった。
そんなことで、残念ながらカワサキでのデグナーの走りは見ることなく終わってしまった。

更に、契約金を円で支払ったのだが、当時は持ち出すことが出来ず、神戸の日銀支店に顛末書を書いて、やっと解決するというおまけまで付いた。


そんな、懐かしい思い出があるのだが、

デグナーを検索していて、スズキの中野さんの書かれた、「デグナー追憶」に出会った。
ホンモノの素晴らしいデグナーに会うことが出来ると思います。是非ご一読を。
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札幌

2007-01-14 06:58:42 | 北海道&建機
会社勤めの最後の2年間を札幌で過ごした。
40数年間の勤めのなかで、はじめての単身赴任でもあった。

仕事の内容も単車やジェットスキーといったものから建設機械と様変わりしたし、北海道という広大な自然の中でのいろいろな体験は、いい思い出ばかりが残っている。

何故、このようなことになったのか、自分自身の人事のことなので推定も多く入るのだが。


建機事業は一時非常に悪かった。この事業の再建は大きな課題であった。
単車事業も苦難の時期があったが、それを乗り越えて安定期に入っていた頃、高橋鉄郎さんが建機再建の担当をされることになった。

単車と建機では異なることも多かったが、まず工場サイドに単車から藤浦さんや原田君が入って、製造方法やコストダウンに注力し何とか目途も立ち始めていたと思う。

私は国内販社を担当していた頃で、建機の営業の方に二輪やジェットスキーの販売のことを参考までに研修会で話をさして頂いたこともあったりした。

1997年3月19日、東京で松井田のサーキットの件で、経営会議の最終承認をもらった翌朝、
高橋さんと田崎さんと雑談をしていたら、「北海道川重建機のことで」と案件が入り、私はそれから飛行機で明石に戻ったのだが、その晩、高橋さんから家に電話が入った。

北海道川重建機に2年ほど行ってくれないか」というものっだった。
突然だったし、答えは保留して電話を切った。
朝、建機の話のときは「人事」の話だということは解っていたのだが、その時は私の名前はまだ、無かったのだと思う。

「私の野球部の後輩でもある原田君が事業部長をするようなので、煙たがりませんか。」などと言っていたのだが、高橋さんからの直接の話だし、お断りすることは出来ないとは思っていた。
原田君からも直接「頼みます」という電話が入ったりして、3月21日には正式にお引き受けをした。


北海道川重建機は設立以来ずっと優良会社である。
今まで私が担当した販社の経営再建とは全然異なる課題が求められた。

全国に展開する建機の販売会社の中で、唯一「子会社でない」自前の販社である。
そこの経営はまた、違った面でいろんな難しさはあるのだが、若い頃東北での自前の地元販社とのお付き合いの経験がいろんな意味で役に立った。

そういう意味で、経営そのものも非常に面白かったし、特にメーカーのサラリーマンでない、独特の雰囲気をもつ地元出身の人たちと一緒に仕事が出来たのは、本当に良かったと思っている。


今年も、北海道川重建機の方から沢山の年賀状を頂いた。想い出を共有する仲間たちである。

「北海道&建機」というカテゴリーを新設してスタートしたい。
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ブログの広がり

2007-01-13 06:36:57 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
この2,3日、特にブログの広がりを実感している。

コメントの書き込みを頂くことは、殊のほか嬉しく励みにもなるのだが、自分のほうから知らぬ方のブログへコメントするのは意外に勇気の要るものである。

昨年末ごろから、勇気を出して書き込みをしてみたら、意外にスムースに相手の方も受け容れて頂いて、お互いに双方向の情報発信を楽しんでいる。


ブログの周辺システムのRSSなどは何のことか、どんな効果があるのか想像もつかなかったが、やってみると情報収集には非常に役に立つ。
ずっと以前からの行政や企業からのメルマガのほかに、Googleアラートなども欲しい情報を自らが選択出来て、情報収集にまことに効率的な仕組みがいっぱい転がっている感じである。

世の中の新しい仕組みを利用することで、自分が知りたい情報をタイムリーにキャッチできるのは、好都合である。利用しない手はない。

もともと情報収集には非常に関心があり、昨年の5月まではパソコンは情報収集とパンダ碁で世界の人と碁を打つだけの使い方であったが、特にブログをやりだしてから、その使い方が一変して、世の中が一度に広がったり、旧交が温められたりしている。


この2,3日も山本隆君がコメントをくれたりして、これは嬉しかったが特に驚きはしなかった。
昨年、金谷秀夫君のことを書いたが、このときWikipediaの記事を参考にオーストリアGPのダブル優勝のことに触れたのだが、このWikipedia記事を書かれたご本人からコメントが届いたのには本当にびっくりした。

また、RSSで見つけた、三木市長を訪問された三重県の市会議員さんのブログにコメントしたら、お返しの書き込みや、直接丁寧なメールを頂いたりした。

そのほか、八丈島のバイク仲間の方や、仙台でBMに乗っておられる方マサさんからのコメントなど、どんどん広がっていく世界を不思議な思いで実感している。

またずっと以前から、服部カワサキでは「雑感日記」をHPにリンクして頂いていて、毎日必ず読んで頂いている方々がいるのは嬉しいことである。


9月からスタートして4ヶ月、私にとっては新しい世界が拓けた。春にはどんな感じになっているのだろうか。






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お世話になった人たち

2007-01-12 06:35:10 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
「単車の昔話」を一応概略だが1990年代まで書き終えてほっとした。

別に、自分史や単車の歴史を書いている訳ではないのだが、何となく中途半端で終わってしまうのではないかと勝手に思って、自分でいらいらしてしまうのである。

ともあれ、最後まで概略で記述できたので、あとはゆっくりと一つ一つを重ねて行きたいと思っている。


こうして自分の生きてきた過去を振り返ってみると、短いようでやはり長いものである。
沢山のことがあり過ぎて、なかなかそこに到達しない。

そんな事柄の中にジェットスキーとKAZEがある。
まだ1回ずつしか触れていないが、90年代に入る頃からこの二つのテーマは私にとって大きな比重を占めていた。
そんな訳で、今年はこの話題にも触れたいと思っている。


同じことが、お世話になった人たちについても言える。
学生時代からの野球部の連中は別にして、
会社では20回近い転勤を経験したので、期間的には短かったが本当に沢山の方にお世話になった。

このブログで昔話などはじめてから、触れたいけど触れられない人たちに対する苛立ちを感じている。
お世話になったお礼の気持ちを込めて、お名前を出させて頂いているのだが、これもなかなか前に進まない。


それほど沢山の方のお世話になって生きてきたのだと、しみじみ感じている今日この頃である。
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BMW

2007-01-11 06:34:15 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
もう何台もBMWを乗り継いでいる。強いて言えば私の唯一の贅沢かも知れない。

最初にBMWに乗ったのは、まだ浜脇洋二さんがBMジャパンの社長をして居られる頃で、種子島さんも営業を統括していたころだと思う。

浜さんも種さんも、カワサキの単車事業部にいて浜脇さんはアメリカでのカワサキの躍進の原動力であった。
お二人ともその後カワサキを離れて、BMWの日本市場での販売網整備に尽力された。

その頃BMには、私が東北時代一緒にいた中田譲君も営業にいて、直接車を買うきっかけは中田君のセールスによるものである。

少々贅沢だが元来車は好きだし、兎に角走らせた時の独特の感触が気に入っていて、もう一台多分最後の新車になると思うが、BMWにしようと思っている。

今のBMの3度目の車検で明石まで行った。
その前日受付のお嬢さんに「今やっている新車のモニターを代車にできませんか」と訊ねたら「あれは抽選ですから」とまともなお答え、「無理は言いませんが、大上さんに伝えておいて」と頼んで電話を切った。

大上さんは、今は偉いさんだがずっとお世話になってきた営業マンである。

走行3000キロの新車の1シリーズの代車が用意されていた。びっくりした。
代車に,こんないい車に乗せてもらったのは初めてである。
やはり新車の乗り心地は別格だし、新車独特の匂いや確りした走りの感じを楽しんでドライブしている。

以前は通勤はもとより、鈴鹿サーキットなど遠距離の走行も多かったが、この頃は家の近くや午後の犬の散歩に、近くの公園まで犬を後部座席に乗せて走るぐらいである。

今回の代車は余りにもきれいなので、犬たちを乗せる訳にはいかず、昨日、今日午後も犬の散歩は歩いて家の近くで済ませている。

大上さん、きれいな代車を有難うございました。 だけど、次の新車はもう少し先になりそうです。



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1990年代 昔話ー21

2007-01-10 07:00:54 | カワサキ単車の昔話
1990年代はカワサキの単車事業は安定、発展期に入ったと言っていいだろう。

発動機エンジンのメアリービル工場移転や欧州販社の統合など構造的な対策が行われたが、20数年続いた苦難の時期を乗り越えた自信に満ちた落ち着いた展開であったと思う。

高橋本部長から、更に田崎本部長へと単車のスタート時点から苦労を共にした人たちが、貴重な体験に基づいたオーソドックスな施策を展開して事業を万全なものに仕上げていった時期だと言えよう。


私自身はこの時期、高橋鉄郎社長の下、カワサキモータースジャパン(KMJ)で古巣の国内の市場対策に専念した。

ゼファーの大ヒット、ジェットスキーの大飛躍などもあって、販売台数7万台の目標を達成し、特に90年代前半はKMCとともに事業部の経営に大いに貢献できた。

80年ごろの国内販社再建、84年ごろのKMC再建に色濃く関係したものとして、その感慨はひとしおであった。


90年代の国内対策は、単に販売の拡大、経営内容の改善強化だけでなく、
ソフト対策として、

Good Timeコンセプト」の確立。
「カワサキのイメージ向上」対策。
「ダイレクトコミユニケーション」を企図したユーザー対策。 が特徴的である。

遊び半分では真の遊びは出来ないと 「ソフトの事業化」 にチャレンジしてソフト会社 「Kスポーツシステム」 を設立し専門的に各種イベントなどの展開を幅広く行った。
最盛期にはユーザークラブKAZEの会員は5万人にも達した。

具体的な対策として

一般のライダーが気楽に走れるサーキットSPA直入の開設。

ユーザークラブ「KAZE」による末端ユーザー及び周辺対策。

チームグリーンを核とした、サテライトチームによる二輪レース活動の展開。
BEET, 月木レーシング、 阪神ライデングスクールなど。

JJSBAによるジェットスキーレース活動の展開。

また、新販売網「ARK]を対象に受注、仕切り販売など先駆けて実施し取引の正常化を図り業界をリードした。


90年後半は、企業の社会的責任としての環境整備を業界と協力して、
二輪のユーザー、販売店、メーカーを含めた組織、NMCA日本二輪車協会の設立への協力、
パーソナル、ウオータークラフト(PW)の安全運転活動として、PW安全協会の設立への協力
二輪車専門自動車学校立など
、二輪ならびにPW業界の周辺分野の整備に注力した。

これらはカワサキの基本コンセプト「Good Timeコンセプト」に基づいた活動であり、更に充実した活動が今も続けられている。

私のサラリーマン生活で最も充実し、楽しく面白かった時期である。
この時期を一緒に築いてくれた、幾つもの想いでを共有する若い仲間たちに、心から感謝したい。

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1980年代後半 昔話ー20

2007-01-10 06:29:04 | カワサキ単車の昔話
「1980年代後半 苦難&激動期」-高橋本部長時代

1986年6月、高橋さんが新しく本部長に就任された。
永い苦難の年月を経て、はじめて生え抜きのメンバーたちで構成された事業部であった。

80年前半の苦難に満ちた激動の時代もようやく安定はの兆しが見え始めた。
翌年には単車、発動機が合併してCP事業本部がスタートし、川重は大庭社長の新体制を迎えた。

川崎重工業も単車事業部も新しい時代がスタートしたと言っていい。
事業部にとって80年代後半は、将来の安定的な対策を講じた時代と言えよう。

円高の影響もあり、特に業績が安定して良かったという訳ではないが、中長期の観点から将来の布石、事業展開の基盤を構築しようという気運になる余裕が生じたのだと思う。


国内市場をアメリカと共に最重点市場としての拡販対策。

安定的な基盤を確立するためアメリカKMCの内部体制の強化、累積損失の消去。

コストのドル化対策として、発動機のエンジン工場のアメリカ、メアリービルへの移転計画。

ジェットスキーの国内ならびにヨーロッパへの本格的な拡販など。

トッピックスとしては、SPA直入の建設計画、ソウルオリンピックのジェットスキーデモンストレーションなども計画実施に移された。


この時期、KMCは田崎さんから百合草さんへ社長交代があり、CP事業本部の企画室長には柏木さんが担当された。
私は、企画から営業に移り、KMC対策、ジェットスキー拡販、SPA直入などを担当した。


1990年代に入ると、この事業で育った若手諸君がいろんな分野で、積極的な活動を展開し、単に事業部の経営だけでなく川崎重工業を支える中枢の事業に発展して行くのである。。


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衛藤誠さんのこと

2007-01-09 06:35:16 | カワサキ単車の昔話
昨日、衛藤誠さんのことに少し触れたが、本当に永い間のお付き合いである。

オートバイ誌や二輪車新聞の大阪支社の記者をやって居られるのだが、関西のメーカーはカワサキ1社のためカワサキ専門のような立場でのお付き合いが続いた。

上司の小野助治さんに衛藤さんを紹介して貰ったのは1962年のはじめ頃だから、もう50年にもなる。

勿論、取材を通じてのお付き合いなのだが、商売柄とはいえ、兎に角上手に文章を纏められるのである。
「ややこしく纏めにくい話は衛藤さんにして、その新聞記事を読んだほうが、部下に頼むよりずっといい。」などと矢野昭典さんなんかよく言っていた。

広報を離れてからもいろいろお世話になったし、ここぞという時には援けて頂いた。
大阪での特約店実施構想については、72年9月1日の二輪車新聞トップ記事で大々的に採り上げて頂いた。
本社からは文句を言われたが、退路を断って取り組まねば出来ない、難しく大きな仕事だと思ったので、そんな覚悟で衛藤さんに敢えて話をしたことを覚えている。

あの記事を見て大阪の販売店も 「特約店制に懸けるカワサキの本気」 を信じてくれたと思う。

それからも何度か、難しく大きな仕事は衛藤さんの記事に援けて貰った事が多い。


話は変わるが、
今も事業部の取材を続けておられるようだが、衛藤さんにも弱点があって横文字、カタカナは日本語と違ってどうも苦手のようである。

今も新春恒例で何十年も続いているカワサキの本年度基本方針が連載されているが、この頃はトップ層もどんどん若くなって話の中の横文字も昔に比べると多くなっているのだろう。

解らない単語の翻訳を時々H君に頼んでいるとか。
その時直接聞けばと思うが、なかなか聞くのも難しいのかも知れない。

衛藤さんにとっては位に関係なく昔の人、例えば小野、苧野、高橋、大庭、田崎、矢野、北村、岩崎さんなどのほうが付き合った期間も永く話し易かったのかとも思う。

人間、誰でも若い頃を知らない人については、随分と偉く近づき難く見えてしまうものである。
私なども、そんな経験が多く成りかけている。 年をとったということか。

昨日の衛藤さんとの電話の雑談で、そんなことを感じた。
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SEMBAさん60周年

2007-01-08 06:34:22 | カワサキ単車の昔話
夕方、二輪車新聞の衛藤誠さんから電話があった。

「私のブログをどうすれば読めるのか」という質問の電話である。
衛藤さんは、本当にずっと昔、1960年頃からお世話になっている敏腕記者である。今もなお現役である。
だが、残念ながらパソコンが駄目なようで。

衛藤さんと話しても埒が明かないので、奥さんに代わって頂いて用件は完了した。

今でも家に二輪車新聞を送って頂いている。私の貴重な情報源である。
昨日届いた新聞の記事に、「SEMBA創業60周年の記念活動」の見出しの記事があった。
衛藤さんでなければ書けない、詳細な記事で、66年大阪カワサキ共栄会結成時の岡田博社長のことにも触れてあった。

本当に懐かしく思い出され、60周年のお祝いのメールをお打ちしたら、早速次男の康さんから返信が来て、その中にこんな昔のコメントがあった。

[世界のホンダ、日本のヤマハ,明石のカワサキの話はよく聞きますが、もうとっくに世界のカワサキになったなあと話をしています。」
70年11月私が大阪に就任直後の話で、まだ全然駄目だったころ、船場さんに言われた懐かしい話である。

今は息子さん二人がご活躍のようだが、「帳簿はまだ父がやっていて困っています。」ともあった。
お元気で何よりである。

息子さんたちも多分ご存知ないと思うが、
どちらかの息子さんあてに岡崎のある販売店からオートバイのDMが届いた。
船場さんに頼まれて文句を言いに行った。 日記によると75年7月24日のことである。

DMを出したのは,ヤマハオートーセンター(現レッドバロン)の杉浦斎さんだった。 
今多分、日本で一番大きい販売店になっていると思うが、その頃は未だ、岡崎の1店舗だけだった。

「こんな田舎で客が少ない中、努力して売ろうとしている。DMを出して何が悪い。」と反撃された。
当時,認証工場の資格を取り、安全運転コースをもつ経営姿勢は立派だと思った。初めての出会いであった。

お陰で、杉浦さんとも仲良くなった。仕事上ではお互いに譲らず喧々諤々やりあったが、何となく性があった。
家には杉浦さんから贈って頂いた立派な額などがある。見るたびに懐かしい。

私と杉浦さんを取り持ってくれたのは、船場さんに届いた1通のDMであった。

衛藤さん、岡田さん、杉浦さん、みんな一流である。 益々のご活躍を祈りたい。
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「佐賀のがばいばあちゃん」大成功

2007-01-07 06:25:17 | 樋渡啓祐さんのこと
「佐賀のがばいばあちゃん」、視聴率19.1%他を圧倒して大成功である。

この1ヶ月余り、「佐賀のがばいばあちゃん」に懸ける佐賀県武雄市の動き、特に樋渡啓祐市長の発想と動きに注目してきた。

この成功が武雄市の広報活動の結果だけではないことは当然である。

然し、普通なら見逃してしまう 「成功の可能性のある小さな事柄」=「ロケ地の可能性 」を目ざとく見つけて立候補するという具体的な活動に結びつけ、展開していく発想と過程は素晴らしい。

世の中の物事の成否は全て、このような小さな事柄の可能性を見抜けるかどうかに掛かっているものである。

これが民間ではなく、お堅いと言われている行政で行われたのは驚きである。
それも、一般に無関心な市民を渦の中に巻き込んでの行動と話題づくりは、民間の企業も見習わねばならない。

今、武雄市はみんなで一緒にやり遂げた大きな仕事の成功に沸いている。
その様はマスコミにも大きく報道され、一躍武雄市を寵児に仕立て挙げようとしている。

大きな仕事のあとには感動がある。感動を共有する人たちは仲間である。
仲間を通り越した同志かも知れない。
そんな仕事を成し遂げた武雄市の今後の行政の動きにも注目したい。

どのような活動をされてきたのかは、武雄市のHPや市長のブログを見ればその素晴らしさは直ぐにお解かり頂けると思う。

私と樋渡さんとの出会いは、高槻市の市長公室長をしておられた頃の「こちら部長室」の樋渡さんのコメントである。
それ以来の「樋渡フアン」でずっと注目している。 勿論今後も。


関連のあるブログ他ご参考までに
武雄市ホームページ
副議長のブログ
市民のブログー1
市民のブログー2
市民のブログー3
市民のブログー4
高槻市「こちら部長室」
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1980年激動期 昔話ー19

2007-01-06 06:42:47 | カワサキ単車の昔話
「1980年代苦難&激動期」-大庭本部長時代

1980年代前半の二輪車業界の混乱は、ある意味では業界各社みんなが頑張り過ぎたのだと思う。
背伸びが過当競争になり、ダンピング訴訟などから大問題になったのである。

カワサキもその渦の中に巻き込まれ存亡の危機に見舞われたが、本社も一体となった構造的な対策によって何とか危機を脱することが出来た。

82年後半、海外販社の管理を一元的に見る専門部門を新設し、KMC対策、ヨーロッパ販社の対策など主として海外販社対策を重点的に行って、事業部運営を含めたトータルの仕組み造りに取り組んだのである。


83年7月からの3年間、大庭単車事業本部長の時代はいろいろ大変なことも多かったが、力もついた時代であったと思う。

84年度はGPZ900,750のNinjyaシリーズ、ジェットスキー550・440の好調もあって,全販売会社が揃って黒字転換し、KMCも累損消去の目途が立ち新社屋建設の計画も具体化するまでに順調な回復を見せた。

単車に係る世界中の全事業が黒字になったのは、単車事業始まって以来の快挙であった。

順調に推移した事業展開であったが、85年半ばからの円高傾向で、またまた大変な時代に突入した。
85年7月239円だったものが、11月に200円、86年2月には190円、7月には155円と1年間で80円もの円高で、単純計算するとカワサキのレベルでも500億円以上の損失額になる規模のものであった。

事業部側の単年度の損益は悪化したが、販社が値上げにも耐えることが出来たのと、全社的な対策で切り抜けることが出来たのだが、この時期は円高だけでなく、アメリカのPL対策やポリスバイク対策など、激動期と言える時代であった。

86年には国内KMJ及びKMCの新社屋も落成し気分一新し、、6月には大庭さんは副社長に、高橋さんが本部長に就任されることになった。


大庭さんにはいろんな思い出も多いのだが、
就任2ヶ月目の83年9月に本社部長を集めた会議で

「単車は思ったより確りしている。川重の中で将来性のある事業である。」
といって頂いたのが一番心に残っている。

それまで本当に長い間、川重という受注生産体質の企業の中で、特異な単車事業を理解してもらうのは本当に難しいことだったのである。
大庭さんは副社長で本社に戻られる頃には、単車事業に対して熱烈な愛情を抱かれるまでになっていた。

この大庭さんの3年間、高橋(企画)、酒井(生産)、安藤(技術)、田崎(KMC)さんらと共に私は企画を担当して大庭さんに仕えたが、会社生活で一番思い出多い充実した時代であったと思う。

大庭さんは無茶苦茶怖いところもあったが、
私にとっては、ずっと本音で話が出来た。本音で話せば通ずる気持ちのいい上司であった。
こう言っても信じて貰えないかも知れないが、事実である。

その大庭さんも故人になられた。
一緒に頑張った安藤さんも、武本、岩崎さんも、寂しい限りである。


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Kawasaki let the good times roll

2007-01-05 06:38:22 | カワサキ単車の昔話
1973年アメリカ市場。Z1やジェットスキーが登場し、華々しく市場が拡大していた頃、

「kawasaki let the good times roll」

カワサキの基本コンセプト 「Good Timeコンセプト」 は造られ発表された。

軽快なテーマソングと共に、全米で拍手をもって受け容れられ話題となった。
今なお受け継がれ、全世界で展開されている。

アメリカで発想され、英語で造られているので、正式な日本語の訳はないのだが、

「カワサキはグッドタイムをどんどん転がしてゆく」

カワサキに出会う人はみんなハッピーになるような、そんな企業活動を展開していこう、というコンセプトである。

カワサキに出会う人、それは
カワサキに乗るユーザーは勿論、カワサキを取り扱う販売店、カワサキの従業員、業界の人たちや
モーターサイクルやジェットスキーで一緒に集い遊ぶ仲間たちも、みんなGood Timeに過ごせるようにと願い,

道行く人たちにも、せめて迷惑を掛けないという心遣いをしよう、
企業の社会的責任を全うしようという、そんな想いを托しているのである。


非常にいいコンセプトで、「Kawasaki」に限らず、そこに「何が入っても」世のためになると思っている。
「私自身」もそう在りたいと願っているし、「雑感日記」もそうあって欲しいと願いつつ毎日発信している。

世の中、殺伐として余りほのぼのとした話題の少ない昨今だが、
今年こそ、「Good Times」 が沢山転がっていくような展開になって欲しいと願いたい。


また、世に堂々と 「Good Timesコンセプト」 を発表しているカワサキの皆さんは、
新年に、心新たにコンセプトに違わぬ企業活動の展開を期して欲しいと思うものである。

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ブログはじめ

2007-01-04 06:41:02 | みっきぃふるさとふれあい公園
1月4日、仕事始めである。

ブログ始めは、私の住むまち三木についての、新春の感想からスタートしたい。

昨年の4月17日、1回目の市長メールを発信して三木市との関係がスタートした。
そのメールで大要次のようなことを書いている。


「三木市は住みやすいいいまちだが、残念ながら、その知名度は市長の言われるように、まちの持っている歴史、産業、環境などの実力以下である。もう少し有名になり実力並みのイメージを持てば、いろんな面で変わると思う。三木市のイメージ向上のために、幾つかの提言をしたい。」という書き出しで、

「HPは三木市の顔です。今のHPではイメージ向上に役立っているとは思えません。このままでは三木市のイメージは上がりませんし、有名になったりはしません。」とホームページに言及し

「具体的な提案として、三木市には、世界で、日本で、西日本で、県下で一番のものがいっぱいあるので、それをもっと利用すべきだ。そして採り上げ方は、末端からの視線で。」と結んでいる。


今、「三木市のホームページの美しさは日本一」だと思う

初めて市長メールを打った頃と比べると差は歴然で、間違いなく日本のトップレベルである。
お住まいの市のHPを一度ご覧になって比べてみて下さい。

胸を張ってご紹介することが出来る。
今も進化し続けているところがいい。今年はもっと中味も進歩するだろう。

昨年7月末、市政の基本コンセプトとして、「日本一美しいまち三木をめざす」と宣言して以来、

単に外面の景観などの美しさだけでなく、内面的な人の心や態度、生き方などの「美しさの追求」は、まさに「ビジョンと呼べる」高次元のものである。

HPも広報誌でも、市政のあらゆる分野でこの「基本コンセプトの実現」に向けての努力が続けられている。
若い薮本吉秀市長がリードする三木市の市政は、間違いなくいい方向に動き出しているのだが、

私のように、民間のそれも二輪というような若い世界を経験してきた目で見ると、広報の材料は揃っているのに、取り上げ方が少し真面目、まともすぎるようにも思える。
もう少し戦略的な、面白い、世の最先端を行くような、そんな広報が出来たらな、などと思ったりしている。

今年も三木市は進化し続けるであろう。
今朝7時、庁内会議でスタートが切られたであろう

このブログでも三木市のカテゴリーを設けている。
今年は外に向かっての広報に少しでもお手伝いし、お役に立ちたいと思っている。

三木市に合わせて、ほぼ7時にスタート発信することにする。
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速遅速遅密疎密疎

2007-01-03 07:20:27 | カワサキ単車の昔話
1月2日、年末にちょっと触れた二輪車産業に関する私的考察ー速遅速遅密疎密疎をもう一度読み直した。

この論文の作者のFUKAI,REIさんに感想を送ったら、ご丁寧に返事を頂いた。
業界に関係のない一般の方で、学生時代に纏めたものに手を加えたものとか、
てっきり業界に関係のあった方だと思い込んでいたので、二度吃驚であった。

GPZ750Rに乗っておられたこともあると聞いて、また親しみを覚えた。

二輪に関係のあった方、興味のある方にはお奨めの論文である。

旧い時代の話も面白い。
メグロや浅間火山レース、小型自動車工業会、所謂「小自工」などの記述も懐かしい。

最後のまとめで、「温室のなかの競争」と言われた四輪車産業と違って、
「陽だまりの産業」であった二輪車産業は、自ら「陽だまりの外、海外」へ飛び出して行って、僅か15年ほどで世界一の地位を築いたというくだりも共感できた。

「流通やマーケッテング面からの考察」が抜けていると書いておられる。
流通やマーケッテング面を主として、同じ時期経験したのだが、とてもこのレベルでの記述は不可能である。
そんな高いレベルで纏められている。

是非、ご一読をお奨めしたい。


アメリカの孫たちから、昨日のTom&Loveの写真の出来映えについて、「Good job」とお褒めのコメントが入る。

世界も狭くなったものである。






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