雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

アーカイブス  雑感

2018-12-20 08:19:52 | カワサキ単車の昔話

★『アーカイブス』とはどんなことなのか? ちょっと調べてみたらこのような記述があった。

アーカイブ (archive) とは、日本では一般的に書庫と訳されることが多いが、元来は公記録保管所、公文書、または公文書の保管所、履歴などを意味し、記録を保管しておく場所である。

保存記録としてのアーカイブ
アーカイブの複数形としてアーカイブズがあり、文書保管を目的とした施設や仕組みを指す。なお、過去に放送された番組や関係資料の所蔵・閲覧を目的とした映像拠点として2003年に埼玉県川口市にオープンしたNHKアーカイブスの「アーカイブス」は、「アーカイブズ」では末尾に濁音が続き発音しにくいために、NHKによってつくられた造語

 

★ 突然なぜ『アーカイブス』なのかというと、田﨑雅元さんから、こんなメールと、田崎さんの資料が送られてきたのである。

私の アーカイブス は ビデオ撮りも終わり、ヒストリーメモ も、ほぼ校正が終わりに近づきました。 貴方とのメール交換で80%は出来ていたので助かりました。貴方は、既に100%出来上がっているようなものですね!単車を退職した、ご存じの東大卒MBAの山田淳一さんが (株)メッセイジ オブ ライフ という会社を立ち上げ、今、カワサキ アーカイブス に全力投球中です。私と貴方が済んだら、細部の事例は別として、殆ど全体をカバーしてしまいそうですね!・・・・

 

山田淳一さんは、Z1会のメンバーで、その席でもこの『アーカイブス』のことは話しておられたので、何となくは解っていたのだが、田崎さんからこんな具体的な資料が送られてきたので、調べてみようという気になったのである。

 もうすでにこんなに纏まっているようである。

   

      

 

      

    

 こんな写真も添えられていたし、さらにこんな目次まであってそこには『カワサキ単車の歴史』が時系列に並んでいたのである。

ここにある川崎航空機時代からの約40年間は、田崎さんとは殆ど一緒に仕事をしたので、ここに書かれている項目については、大体のところは理解できて、私にとっても非常に懐かしいのである。

 

     

 

★この企画は、カワサキの二輪事業に関わった方たちから、山田さんが直接話を聞いて、カワサキの単車の歴史の記録を纏めようと取り組まれている『大仕事』で、今年から既に進んでいるようで、Z1会のメンバーに対しても、協力のお願いがあったりしたのである。

 私自身も、このような『記録』には、非常に関心があって、日記は60年も続いているし、カワサキの資料も自分なりにいっぱい整理して持っているのだが、それでも、昔のことを正確に思い出すのは大変なのである。

 田崎さんとは、今年になって過去の話の『やり取り』が続いていたので、『80%は纏まっていたので助かった』と言われているのだが、ホントにその通りで私が今取り組んでいる『カワサキジェットスキー物語』も、福井昇くんや、松口久美子さんに援けて貰って、やっと何とか時系列にほぼ正確になってきたのである。

 私自身の記録というか、カワサキの単車の歴史50年は、このブログにこんなカテゴリー別にアップしているのである。

   最近のネットはホントに良くできていて、以下をそれぞれクリックすると「読める」とはビックリなのである。

 

  こちらは日記から纏めたものだが『私の履歴書』として『20代から70代までの60年間』の粗っぽい、まとめで、一番詳しいのは日記だが、それまでに3段階ぐらいで、纏まっているので、田崎さんは『100%出来上がっているようなものですね』と言われているのである。

 ご覧になるとお分かりの通り、KHIと国内販社の比率がほぼ同じで、半分は出向期間なのである。 また右の方の ○印は会社としても、私としても、或は世の中でも『全く新しい仕組み』の取り組みで、殆ど生涯『新しいこと』ばかりに取り組んできたので、他の方から『引き継ぎ』を受けた経験が皆無という珍しい現役生活だったのである。

 

          

 

★ カワサキの単車事業の歴史もそのスタートの昭和35年(1960)からはもう60年近いし、逆に言うと解り過ぎていて、それを何十分かで『纏めて話す』のは、逆にムツカシイのかなと思ったりしているのである。

 先日のZ1会の総会には、私は所用で欠席したのだが、その席でも山田さんから、この『アーカイブス』のお話があったようである。この話とは別に、『カワサキの二輪の歴史』を纏めようと、KMJの方たちを中心に動いておられたのだが、これと連動しているのかな? と思ったりもしているのである。

いずれにしても、なかなかの大仕事なので、来年いっぱいに纏まればいいのだが、頑張って欲しいと思っているのである。

 

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『ツイッターのシステム』???

2018-12-19 05:04:14 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ツイッターを始めてもう10年になろうとしている。

 ツイログで纏めてくれているように、私のツイッターの概略は以下の通りである。

 2009年12月にスタートし、57万人のフォロワーがいる。

 

    

 

 そんな私のツイッターだが、12月の初旬に突然こんな連絡がきた。

『お使いのアカウントに不自然なアクティビテイを検出しました。安全のため、パスワードが変更されるまでアカウントはロックしました。』ということで、12月9日を最後に止まってしまっている。

   

 

  今は、『パスワードを変更してください』というこんな画面が現れるだけである。

 

      

  ここまでは、今までも何度か同じ連絡が来て、私のパスワードは10回ぐらい変更した実績がある。

 『始める』をクリックすると、こんな画面になる。

 

 

 

 

 

 ここで『続ける』をクリックすると、すぐ私のメールに次のようなメッセージが届くのである。

 ここまでは、全く問題ないし、従来も何度も実行したことがある。

 

     

 

 このページがメールに届いて、『パスワードをリセット』をクリックすると、

 『このページは存在しません』という表示になり、一番最初の『パスワードをリセットしてください』というページが現われて、何度やっても同じことの繰り返しになってしまうのである。

 

 

   

 

★そんなことの繰り返しなので、ツイッターのこんな『異議申し立てのページ』から何度も『異議申し立て』を送っても、既定の内容の文章しか返信されなくて、一番問題の『このページは存在しません』というものに対しては何の回答もないので、全然解決しないのである。

 

   

 

 

 こんな画面もあるので、ここでもやってみたが、同じ内容の答えしか返ってこないのである。

    

     

 

★最後には「問題の詳細」の内容を次のように書いたのだが、またすぐ『同じ答え』がメールに送られてきて「ホントに人を馬鹿にしているのか」と思ったりしているのである。    

もう何度同じことを書いてるか解らないくらい、レポートしている。サポートチームからちゃんとした連絡を欲しい。パスワードを変更しなさいというから変更しようとしても、そのページは存在しないと出るのでどうしようもない。ツイッターのサポートチームはユーザーの意見を聞いてそれに個別に応えようとするシステムはないのか?』

今の段階はこんなところなのである。

ツイッターが使えなくなってもう10日にもなろうとしているが、どうしようもないのだが、暮れには、ネットに強い孫がやってくるので、彼に頼んで対策をやって貰おうかとは思っている。

然し、ネット以外には電話もかけることができないし、サポートチームに個別案件の連絡もできないような『ツイッターのシステム』は欠陥システムだと言ってもいいのでは。

ひょっとしたら『私のツイッター』は『誰かに乗っ取られてしまっている』のかも知れないと思って『ツイッターが乗っ取られた時の対応』を見てみたが結局は同じ画面に戻ってきて、同じことなのである。

 こんな時に、個別案件を対応してくれる『窓口』でもあればいいのだが、ホントに『バカにしてる』と思ってしまうのである。

 別に、ツイッターなどやめてしまっても、私自身が困ることもないのだが、どうも気分が悪いのである。

 

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カワサキジェットスキー物語 8

2018-12-18 07:12:10 | ジェットスキー&KAZE

★『カワサキジェットスキー物語』も8回目になった。

 前回は、1988年9月の ソウル・オリンピックの開会式でのデモンストレーションのお話などを紹介したのだが、このころのジェットスキーの展開は、考えられないほど、ホントに急テンポで進んだし、元々当時は、私が担当していた企画室内で勝手に動き出したプロジェクトであったので、初期段階には全く正規の資料が残っていなくて、なかなか時系列に思い出さないのである。

 そんなところに松口久美子さんが、こんなに確りと写されている写真を送って来られて、次のような説明が添付されていたのである。

    

 

 この写真は平成元年(1989)だと思います。男性は年間ランキング4位までの優秀選手を招待して表彰と苧野さんがカワサキがバックアップしてくださっている日頃のお礼を言っていたような気がします。左からジェットスキー協会レース運営代表の上田さん・伊藤選手(2位)・小河選手(3位)・苧野さん松口(1位)・前田選手(3位)・斎藤選手(4位)レース運営レースディレクターの日高さん

 

ここからは、私の勝手な想像や類推も入っているのだが、これは平成元年(1989)ではなくて、多分その1年前の、1988年のソウル・オリンピック前の5月頃、前年度の87年度のJJSBA成績の表賞ではなかろうか?

 場所は間違いなく、明石工場である。 そして後列に 並んでいる人たちは、左から天野・武本・安藤・古谷・鶴谷・黒田の川重メンバーなのである。

特に、武本一郎・安藤佶郎・古谷・鶴谷将俊とこの4人が揃って並んでいるのが、ある意味不思議なのである

 この4人は、間違いなく創成期のカワサキのジェットスキーに色濃く関わったことは間違いないのだが、こんなJJSBAの選手たちの表彰式に顔を揃えているのは、松口さんの言われる平成元年(1989)ではなくて、4人が一緒に並んでいるその可能性から言って1987年の5月から1988年9月までの間だと思うのである。

 

★まず武本一郎さんは、私が単車事業本部の企画室を担当した時期に、企画部長としてずっと支えてくれた人で、このジェットスキープロジェクトを川崎重工の正規の事業にしようと言いだした『言いだしべえ』なのである。彼の熱っぽい進言に乗って、私は動き出し、85年8月にオーストラリアから帰任した鶴谷将俊さんを口説いて、『ジェットスキー・プロジェクト』が動きかけたと云うことは前回お話した通りなのである。

従ってこの3人が並んでいるのは、そんなに不思議ではないのだが、問題は安藤佶郎さんが一緒に並んでいるのが、不思議なのである。

安藤佶郎さんとは、私はずっと昔から密接に関係があったので、ちょっと安藤さんのご紹介をすると、

最初に出会ったのは、もうずっと以前、カワサキの単車事業スタートの頃の1965年頃のレース仲間からのスタートで、初代監督は大槻幸雄さんだったのだが大槻さんがドイツ留学に行かれた後を、安藤さんが引き継がれたのである。そのあと田崎雅元さんと交代でKMCに出向され、その後はカワサキの新生産管理システムや、アメリカのリンカーン工場などの生産部門も担当された技術屋さんなのである。

レース時代には、監督をされていたと同時に、あのモトクロッサーF21Mのエンジン提供をされたのが安藤さんなのである。 連戦連勝のF21Mだったので、その頃広告宣伝を担当していた私が、モータショーに出品すると言ったら『そんなことやめてくれ』と仰るのである。『なぜ?』というと『元々125ccの実用車のエンジンとして設計して、それを150ccにボアアップし、さらに175ccにした上に、今度は238㏄のモトクロスのエンジンにして、それでも持っているというのは、如何に過剰設計か』ということで「技術屋としてはカッコ悪い」と仰るそんな一面もお持ちであったのである。

レースでお付き合いした若いころの大槻さんも、安藤さんも怒ると無茶苦茶『怖かった』のだが、私とは何故か非常に親しくおつきあいをさせて頂いて、私はお二人からダダの1回も怒られたことはないのである。

 

★『ジェットスキ―物語』としては、ちょっと脱線気味だが、そんなことでもないのである。

そんな安藤佶郎さんなのだが、私が企画時代は、武本一郎さんが当時の技術部をそそのかして、新ジェットスキーのJS300の開発が始まった当時の技術本部長なのである。安藤さんがGoを掛けなければ、単車事業本部でのジェットスキー開発は始まっていないのである。

そして、その初めて単車が開発したJS300は、二輪で言えばモペットのような初心者用の導入製品を目指したのだが、水の上を走る乗り物は陸とは違って、小型では浮力が足りずにムツカシイのである。そんなこともあって、ヒット商品には残念ながら『なりえなかった』のだが、間違いなく単車事業部が独自に開発したジェットスキーの第1号はJS300なのである。

  

     

その開発時代に明石サイドで試乗したのが、当時企画室に異動して来ていた『福井昇くん』なのである。 当時の明石工場の単車事業本部内にはジェットスキーに乗れる人などいなくて、発動機から企画に貰い受けていた『福井昇くん』が加古川で試乗することになったのである。 

そして、福井くんの提出した『試乗レポート』は酷評に近い内容であったようで、その検討のあった技術部のジェットスキー委員会では担当者が安藤さんの逆鱗に触れたりするのだが、同じ時期アメリカに送った試乗艇の評価ももう一つで、田崎さんなどはとても『私には乗れない』とアメリカ市場への導入は行わないというような決定になるのである。

 その当時の写真を田崎さんから送って頂いたのである。

 

   

そして、それにはおまけがついて、『開発製品に文句をつけるのなら、企画ではなしに品証に行ってから言え』ということになって、福井昇くんは企画から品証に異動することになるのだが、その結果単車事業本部の中に、ジェットスキーの品証機能が生まれることにもなるのである。

 

★ そんな一連の事件のあったスタートだったのだが、1987年の5月に、単車と発動機の合併があって、大幅な職制変更があり、営業総括本部ができて、安藤さんが長、私が副で、武本・鶴谷さんも営業総括部に異動した時期が88年の9月まで続いたので、最初の写真は、その期間中のものだと思うのである。

安藤さんはその期間カワ販の専務もされるのだが、1988年10月には私がカワ販専務に異動するので、この写真に写っているのは、安藤さんの営業部門時代だったに違いないのである。

そんな安藤佶郎さんも、もうこの世にはおられないのだが、現役時代はホントに親しくお付き合いをさせて頂いたのに、一緒に写っている写真など皆無なので、これは貴重な写真なのである。 

 

★ カワサキのジェットスキーの歴史は、いま振り返ってみると、アメリカで田崎雅元さんが無茶苦茶なジェットスキーの大増産をしたことがその『きっかけ』ではあるのだが、明石サイドでもこの4人、武本一郎安藤佶郎・古谷錬太郎・鶴谷将俊 が動かなかったら、カワサキのジェットスキー事業は、果たしてどんなことになったのだろう。

この年、1988年10月には安藤さんの後を受けて、私はカワサキオートバイ販売の専務となり、89年1月からはジェットスキーの販売会社KJSの社長も兼務することになり、JJSBA会長に就任した鶴谷将俊さんとの文字通り二人三脚で、国内のジェットスキーの最盛期を迎えることになるのである。

何にもない白紙の上に絵を描くことは、いろいろとムツカシイ面もあるのだが、こんな新しいプロジェクトを担当できることは、滅多にないチャンスなのである。

 そんな、新しいジェットスキー・プロジェクトがどんな展開を見せるのか?

 次回以降を、お楽しみにお待ちください・

 

 

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宗和孝宏くん  MFJ ロードレース特別賞

2018-12-17 17:33:41 | 発想$感想

★ 宗和から、Facebookでメッセ―ジが届いた。

 こんな写真と共に簡単なメッセージが添えてある

  

MFJで特別賞を頂きました。ご報告まで。もう、かなり寒くなってきてますが、お体ご自愛ください。』

 

  写真の中に『緊張しました』の文字が入っている。

    

 
 
  レースでの表彰台とはまた違った、特別の感動みたいなのがあったのだろう。
 
  ほかの写真など探してたら、こんなのも見つかった。
 
  MFJのロードレース特別賞なのである。
 
 
 
    
 
 
 
宗和孝宏くんは、現役時代カワサキの契約ライダーだったし、その頃からも知ってはいるのだが、直接お話などしたのはこの5年間ぐらいのことで、最近は毎年、春秋にその年の活動報告などを電話で知らせてくれるのである。
 
今年は、チームの若手選手を育てていて、その若手ライダーがチャンピオンを取れたと言って『我がことのように』喜んでいた宗和くんである。 
MFJからの特別賞も、多分そんな若手育成の努力に対する『特別表彰』なのだと思う。
 
 宗和くんの Facebook を見ていたら、こんな写真も見つかった。
 
 
     
 
 
 
 現役時代から、『ちょっと、ヤンチャ』なイメージだった宗和孝弘くんだが、昨今の宗和孝弘はホントにいい。
 
 その表情の温和さを見ても、『今の生き方』が如実に表れている。
 
 
 今回の受賞をまた、一つの契機にして更なるご精進を願っている。
 
 『宗和くん、ホントに、おめでとうございました
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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10年ぶりの 旧友たちの再会

2018-12-17 07:18:27 | 発想$感想

 ★東京の村島邦彦さんから「12月15日芦屋駅の改札口でお待ちします。竹内も参ります」というメールを頂いていて、昨日はその5時少し前に、JR芦屋駅まで出向いたのである。

 村島邦彦さんとは、現役時代からもう30年以上のお付き合いなのである。

ジェットスキーからの出会いだったと思うが、確か二輪車新聞の衛藤誠さんの大学の後輩だとかで、ご紹介を頂いたのがそのスタートなのである。

 今は『インターナショナルトレーデイングムラシマ』の経営をなさっているが、かってのカワサキの『機能別ARK政策』の唯一の生き残りだと言えるかもしれない『私の理解者』なのである。

そんなことで関東地区のNPO The Good Times の統括責任者をお願いしているし、『二輪文化を伝える会 https://2rin-tsutaeru.net/  の総括者としてもいろいろお世話になったりしているのである。

 この二輪文化を伝える会も、ほぼ6年になろうとしているが、ご覧になればお解り頂けると思うが、今では日本の二輪文化では、一番豊富な写真やデーターが蓄積されていて、どなたでも簡単にご覧になれるという点では、メーカーさんでもなかなかこのレベルには追随できていないと思われるのである。

ホントか?と思われる方はリンクをクリックされると一目瞭然なのである。

 

そんな仲なので、それ以上詳しいことはお聞きせずに、ただ5時に芦屋駅の改札まで行くと、ばったりと神戸市の藤田修司さんにお会いして、『なぜここに?』とお聞きしたら『村島さんに誘われて・・』ということでこんな4人の会合となったのである。

 

        

 

★一瞬、『なぜ?村島さんと藤田さんが繋がってるのか?』と思ったりしたのだが、

 2008年5月31日と6月1日の2日間、当時藤田さんが担当されていた神戸フルーツフラワーパークで、ミニSLのイベントがあったのだが、その時園内のプールで村島・竹内組が 船の模型の走行会を同時開催などしたご縁なのである。

        

 

その後も、藤田修司さんとは村島さんは東京で、竹内さんはタイで、私は藤田さんがハーレーに乗っておられるバイクユーザーなので、三木にも遊びに来られたり、樋渡啓祐さんが神戸に来られた時などご一緒したりはしたのだが、4人が揃ってお会いしたのは2008年以来、まさに10年ぶりだったのである

 

★ところで、村島さんは今回、神戸にどんな用件でお越しになったのか?

とお聞きしたら、神戸海洋博物館に お持ちになっていた船を寄贈するために来られたのだとか。

 その寄贈先が神戸海洋博物館だというので、どんな船かと思って写真を見せて頂いたら、こんなに立派な船で、流石なのである。

 

  

  

 

    

 

今度、カワサキワールドに行ったら、是非実物を見てみたいものである。

ところで、神戸海洋博物館は、いまではカワサキワールドと一緒に運営されているのだが、そのカワサキワールドを創られたのは、当時の川重社長の田崎雅元さんなのである。

ホントにいろいろ繋がるもので、もう10年も続いている『ミニSLのイベント開催をメリケンパークでやりたい』と福井昇くんと一緒に当時川重会長をされていた田崎さんを訪ねたら、翌日に神戸副市長に繋いで頂いたのだが、副市長さんから『メリケン・パークでやる前に一度、神戸フルーツフラワーパークで開催して頂けないか』と頼まれての2008年6月開催だったのである。

これが今はメリケンパークで、10年も続いての恒例イベントになっている第1回目のスタートで、テレビ放映などもあって大変な賑わいだったのである。

そして、そこで藤田修司さんにお会いして、10年経った今もこうして親しくお付き合いができているのである。

 

★私自身は、何故かいろんな方たちと自然に仲良く繋がってしまうのだが、昨日の4人の中で一番解っていないのはカワ販におられたという竹内雄三さんなのである。 

昨日いろいろお聞きしてると当時のカワ販の南昌吾さんなどの話も出るので、ホントに身近におられたのに、現役時代は全く記憶がないのは不思議なことである。

竹内さんは、村島さんとは船の模型繋がりのようなのだが、神戸海洋博物館に寄贈されるような本格的な船の模型をお持ちのレベルなので、私などから見たらプロのレベルかなと思うのである。

 昨日、ご馳走になった芦屋の近くの小料理屋さん「すず喜」は、竹内さんのご紹介のお店だったのだが、

 

        

 

 

        

 

 

        

 

        

 

   なかなか立派な料理が、次から次に出て、こんな楽しい時間を過ごしたのである。

         https://www.nicovideo.jp/watch/sm34327123

       

 

 動画の中には、もっといろいろ写っていて、すっかりご馳走になって戻ってきたのである。

 もうクリスマスも近いが、今年のクリスマス・プレゼントのような楽しい3時間だったのである。

 

   

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日ハムの新球場  雑感

2018-12-15 10:22:59 | 発想$感想

日ハムの新球場北広島市に出来るという話は、何となく知っていた。

 北広島市は札幌に隣接したすぐ隣の市だが、私が現役最後の『北海道川重建機の本社』が高速の北広島を降りたすぐ横にあったので、私にとっては懐かしいところなのである。

札幌の隣なのになぜ『北広島か?』

1884年(明治17年)、札幌県札幌郡に広島県人25戸103人の入植が始まったことに由来し、1894年(明治27年)に移住者に因んで札幌郡広島村とし1996年(平成8年)の市制施行の際に広島県広島市と混同することを避けるため、即日改称して「北広島市」になった

とある。

そんな北広島市に新球場が出来るのだが、こんなニュースが流れていた。

 

   

 

    

 こんな地図を添えて、以下のように書かれている。

 

 日本ハムファイターズのボールパーク建設に伴うアクセス道路建設で、北海道自然保護協会は14日、国の特別天然記念物・野幌原始林への影響が懸念されるとして、ルート変更を求める要望書を北広島市へ提出した。ガラス張りの球場も、鳥が衝突する危険性などがあるとして再考を促した。

 要望書では、アクセス道路「東西ルート」を、環境に多大な影響を及ぼすとして再検討を求めた。新球場を取り囲む市道の4車線化も、森林の伐採につながるとして撤回を要求した。「一帯の森林が周辺の環境に果たす役割は計り知れない。森を破壊しない方策を考えてほしい」と話している。

 

★ホントに『北海道川重建機の本社』のすぐ近くの話なので、Google マップで、いろいろチェックしてみたのである。

 

  

 

こんな感じで、新球場が出来るのは、『きたひろしま総合運動公園の左側』あたりである。

因みに『北海道川重建機』は、地図の左下、道央自動車道路の北広島のすぐヨコなのである。

この地図で見る限りは、そんなに森林に影響があるとも思えないのだが・・・・。

同じ地域をこんな画面で見ると、

 

  

 

こんな画面になるので、要望書で言われていることも、解らぬではないと思ったのである。

さらに、大きくするとこんな画面になって、確かに未だ森林は残っているので、そこに4車線の道路を創ると、結構大量の木の伐採に繋がるのだろう。

 

 

★ 確かに、自然を壊すことになるのだが、日本国中の開発は、自然を破壊してまちにして行った歴史なのである。

 新しい球場を創るとすれば、それはどこかの自然を壊すことにはなるのだが、出来る限り自然を残すようにはしたほうがいいと思ったりはする。

ガラス張りの球場はトリがぶつかる』これも確かにそうである。

賛成・反対を言ってるのではなくて、出来る限り自然を残すようにはして貰いたいとは思うが『自然との共存』は現実にはなかなかムツカシイものである。

 

★かって、札幌には円山球場があって、その時代は巨人ファンが圧倒的だった。

私が札幌にいた1990年代最後の頃に、今の『札幌ドーム』が出来たのである。

天然芝のサッカー場でサッカーができるようにと、そのシステムには川崎重工業もいろいろと関わったりしたのである。

日ハムがホーム球場を関東からここに移したので、北海道は今は「日ハムファン」になってしまったようである。

あれから未だ20年も経っていないのに、世の中はどんどん変わるものである。

 

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人生最後の?? 椅子の塗装

2018-12-15 06:50:33 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 師走である。 大掃除などして、新しい年を迎えたりするのは普通なのだが、私自身はあまりそんなことには拘らずに、新年も1年のうちの1日というような感覚なのだが、何を思ったのか、玄関の前に置いてある椅子の塗装をしようと思い立ったのである。

もう20年程前に買った椅子が塗装が剥げたので、10年前に一度塗装したのだが、その時にはまさに『私流に』何となく塗ったらもう一つ綺麗には塗れなかったのだが、それからまた10年も経って、その塗装も剥げてきたので『塗り直そうか』と思ったのである。

 今回は、Google で『塗装の仕方』を検索すると、いっぱい出てくるので、いろいろちゃんと調べたのである。

 塗装をする前に、『紙やすりで旧いニスを落として、木の面を綺麗に仕上げる』と書かれていて、これは当然の常識なのだろうが、前回はそんな面倒なことはせずに、そのまま塗ったに違いないのである。

 今回は、20年も経っているので、ちゃんと塗ろうと思って、まず『紙やすり』だけそれも3種類も買ってきて、綺麗に仕上げた後、あらためて水性の塗料を買ってきたのである。

 ホントに何を思ったのか、今回は丁寧にやろうと思って、やすり掛けだけでも2日ほどかけてちゃんと出来たのちに塗装したし、それも、書かれている通り水で薄めて、一度塗った後、十分に乾いてから、もう一度塗ったりしたのである。

 

        

 

   これくらいに、仕上がった。  私としては「大満足」の出来栄えである。

 横ての金の部分にも塗料がついたりはしているが、『そこにテープを貼ればいい』ぐらいのことは解ってはいるのだが、そこまでやる気にはならないのである。

 大きく写してみたが、今回はペーパーを掛けているので、表面は綺麗になっている。

         

 

 少なくとも、20年も経っている椅子には見えなくなった。

 ついでに、こんな置台のようなものも塗ってはみたが、こちらは木が柔らかいので、やすりの掛け方がもう一つだったが、それでも結構綺麗に塗れたのである。

 

          

 

 こんな塗料をベースに、少し水で薄めてこんな刷毛を使っての作業だった。

 

          

 

★ちょっと塗料が余っているので、こんなのにも塗ってみた。

こちらの作業は本来の私に戻って、ペーパなどは一切かけずにちょっと埃を落としたぐらいのところにどんどん塗って行ったのである。

 作業時間が早いのは、私の特技みたいなもので、2度塗り、3度塗りぐらいはやったのだが作業時間は短くて、『あっという間に』完成したのである。

 形状は、なかなかややこしいのだが、塗るだけは全て塗ったことになっているのである。

 この出来栄えも、こちらは『私なりに満足』なのである。

 

          

 

 残った塗料を『どうしようかな?』といま悩んでいる。

 置いておいても、『まず使うことはない』ので捨ててしまおうかと、悩んでいるところである。

 多分、生きてるうちに、もう一度『塗装をする』ことなどないかも知れないのである。

 

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カワサキジェットスキー物語 7

2018-12-14 07:12:50 | ジェットスキー&KAZE

★創成期のカワサキ・ジェットスキー市場の世界展開を図った人たち、そのキーパーソンとなって世界をリードしたのは、鶴谷将俊さんである。

彼はオーストラリアの販社の社長から85年8月に帰任したのだが、その彼に『ジェットスキーを担当して欲しい』と私は突然頼んだのである。小なりとは言え、一国の販社の社長として旗を振ってきたのに、突然部下1人もいないそんなプロジェクトを押し付けられて、当惑したのは間違いないのだが、彼は引き受けてくれたのである

翌86年3月には、発動機事業部からジェットスキーのレースなどにも出場していた福井昇くんが参加してくれて、ようやく『鶴谷ジェットスキーチーム』は具体的に動き出すのである。

ジェットスキーは、世界で初めての製品であったし、カワサキがその先駆者として活動展開を進めたのだが、その展開のベースになったのは『レース』であったことは間違いないのである。

その創生期活動の中心になった国内では、アメリカのIJSBAの流れを組むJJSBAの初代会長としてその協会設立から尽力された苧野豊秋さんを中心に、当初はその活動は西武自動車関連の方やレースに参加されていたメンバーたちの協力を得ての活動だったのである。

 

★そんな川崎重工業以外の外部の人たちの協力でスタートしたジェットスキー・プロジェクトではあったが、非常にスムースに素晴らしいテンポで展開し、87年5月には営業総括部の中に、初めて『ジェットスキー担当部門』がスタートしその長に鶴谷さんが就任して、ようやく単車事業本部の中に正規担当部門がスタートし、私自身も企画から営業総括部に異動したので、ジェットスキー・プロジェクトも本格的に動き出すのである。

最初に、ジェットスキーが世界に認められたのは88年9月、ソウルオリンピックの大会運営委員会に招かれて、ソウルオリンピックの開会式の当日、すぐ前のハンガン(韓江)でジェットスキーのデモンストレーションを行ったことだと言っていい。

 このプロジェクトは鶴谷将俊さんが中心に企画推進し、日本のJJSBAの苧野会長以下関係者と、オリンピックということでアメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア・日本の各国男女チャンピオンを揃えての参加となったのである。 アメリカ以外の世界からこのようなメンバーが集められたということは、その間の活動が、世界的に展開出来ていたという証明にもなるのである。

 カワサキ関係者としては、苧野・鶴谷・福井のメンバーと、私はこのチームの団長として参加することになったし帰国後、川崎重工業の経営会議で大庭浩社長以下経営トップにその報告をすることになったりしたのである。

 

            

 

    

  

これはオリンピック委員会から、記念に頂いたもので、写真としてはこの2枚しかなかったのだが、今回松口久美子三がいろいろ送って頂いたのである。   

    ● 天満選手とオリンピック会場をバックに撮った写真
 
         
 
 
 
    ● 苧野会長と天満選手・ワールドチャンピオン ラリーリッペンクローガー選手と松口さん
 
         
 
 
 
   ● 選手村で宿泊所の前で、苧野会長・松口・松下選手・レース運営の上田さん・小河選手
   
     
 
 この時の宿舎は、オリンピック村の中にあって、ハンガンはそのすぐ前という最高の立地だった。
 
 この写真以外にも大南勝也さんなど、ジェットスキー・プロジェクトが立ち上げって以来のメンバーたちが参加していて、結構な大所帯だったような記憶である。ひょっとしたら金森稔くんは未だジェットスキーには乗っていない時期だったかも知れないのである。
 
個人的なことを言わして頂くと、このプロジェクトのお蔭で私はこどもの頃育ったソウルを訪問できたので、滞在期間の間に、こどもの頃通った小学校や、育った自宅も見ることができたのである。
 
     
 
 
 
★全く白紙の上に絵を描くような、すべてが新しい初めての経験の連続だったのだがに世界からの団体チームが組めるような活動を展開してきた成果として、、『ソウル・オリンピックのデモンストレーション実現』があったと言えるのである。
 
この間、特に重点市場として展開してきた国内のジェットスキー販売網対策としては、従来のボート屋さんが片手間で扱っていた形態から、ジェットスキー専門店網設立を目標に『カワサキジェットスキープラザ構想』を立ち上げ、87年3月には、『カワサキジェットスキープラザ神戸』をその1号店として立ち上げたのである。
 
この店舗は元大型二輪販売店テンポで、吉田純一さんがお持ちだったのだが、JSプラザ1号店として借用しオープンしたものである。
未だ、殆ど販売実績のないような時期に、結構な大型店舗であったことから、関心を呼び後の販売網展開に好影響を与えたのである。
同時に、東京には当時のカワサキの二輪販売トップを走っていた北多摩モータースに『ジェットスキープラザ都』を同じ3月初旬に立ち上げて貰って、東西2店のジェットスキー専門店からスタートしたのである。
 
 当時、日本での年間売上高が200台前後という中で、果たしてジェットスキー専門店が成り立つのか? という疑問が多い中で、これはボート屋の片手間ではダメだと思ったのは、ジェットスキーはレースという専門的な遊びが底辺にある商品だから、専門店でなければ『一定の事業規模にはならない』という私独特の仮説でスタートしたのである。
 
 このジェットスキーの販売網については、当時のカワ販の中から、私とかって一緒に仕事をしたことのある、宇田川勇・藤田孝昭くんという最も信頼できる実力派の二人にお任せして、白紙の上に絵を描いて行ったのである。
 
 この年の4月には、福井昇くんが『ジェットスキープラザの実質1号店』を目指して川重を退社し、6月27日に『カワサキジェットスキープラザ明石』を立ち上げる運びとなるのだが、販売に掛けては未経験の福井くんを親身になって、開店まで漕ぎつけたのは、藤田孝明くんの献身的な協力があったからだと思うし、この『プラザ明石の成功』がその後のジェットスキー販売網構築をスムースにした一因になったのは間違いないのである。
 
 
福井昇くんを、当時の単車事業本部の企画室の私たちが知っていたわけではないのである。
 
 オーストラリアから戻った鶴谷さんの同期の西田さんがたまたま発動機のジェットスキー担当で、彼の推薦で福井昇くんの名前が挙がったのである。さらに発動機でその当時ジェットスキーも担当していた部長は藤川哲三さんで彼は私の同期だったものだから、藤川さんに頼んで福井くんを単車企画に貰い受け、その後ヨーロッパ市場開拓のための市場調査などは、西田・福井のメンバーで2回ほど3ヵ月に亘って行ったりしているのである。
 
 その頃は未だ福井くんも、販売店などやることなど思いもよらなかったのだと思うが、何となくそんなことになってしまったのは、運命だと思うが、カワサキにとっても、多分、福井昇くんにとっても『いいご縁』であったことは間違いないのである。
 
 カワサキジェットスキー物語を書く上で、『福井昇くん』はキーパーソンなのである。当時からはもう40年近いのだが、未だにFacebook ではトモダチだし、NPO The Good Times では理事として手伝ってくれているのである。
 
今回福井くんと、松口さんがいろいろと手伝ってくれたので、この物語も時系列にいろいろと解ったことも多いのである。
 
 
 
★ところで前回の最後にこんなことをアップしたのだが、
 
   
 
松口さんからこんなメッセージと貴重な写真を送って頂いたのである。
 
  
 古谷さんのブログ、いつも楽しく拝見させていただいています

Brenda Burns Chambersさんは、85-87年度のウィメンズワールドチャンピオンです
ご主人は88年度頃のX-2のワールドチャンピオンです
息子さんがいまスタンディングクラスで優勝されたようです

https://scontent-nrt1-1.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/44027602_10212361821511817_8432839561784066048_n.jpg?_nc_cat=111&_nc_ht=scontent-nrt1-1.xx&oh=c621cacde88d8ea4b89c791d11e40fb4&oe=5CA1CAC9
 
 
             
 
 
  『有名人かも知れない』と思ったのだが、まさしく超有名人なのである。
 
 Facebook では、既にトモダチになってるので、ひょっとしたらこのブログもご覧になってビックリされるかも知れないのである。
 
 
  では今回はこの辺りで・・・
 
 

 

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何歳になっても脳は進化する  最終回

2018-12-13 06:38:13 | 私の生き方、考え方&意見

★『何歳になっても脳は進化する』 連載で続けてきましたが、今回で終わりたいと思います。

 この本は、脳神経外科の林成之さんが書かれています。1939年のお生まれですから、先生ご自身が80歳の高齢者ですし、この本を書かれたのが2013年、5年前ですから75歳前後のまさに高齢者になられてからの作品です。

 そういう意味で、この本を読むと『先生ご自身の脳』がホントにお若いなと実感するのです。

 

      

 

この本のあとがきはこのように始まっています。

あとがき  

この本を手に取ったあなたには、「すばらしい」という言葉を差し上げたいと思います。一般に歳をとると、体のあらゆる細胞は老化し、衰えてゆくと考えられています。その中で「何歳になっても脳は進化する!」という一般常識に反するタイトルの本を見れば、「何を言ってるのだろう」「注目を集めるために奇抜なタイトルをつけている」などと思うのが普通です。

 にも拘わらず、この本を手にしたのですから、あなたは統一・一貫性を好む脳の本能の壁を越える力を持っているということです

と書かれています。

私がこの本を手にしたのは、そんなに大袈裟なことではなくて、アメリカの日本の古本屋さんに家内が本を買いに行くのについて行って、本を眺めていたら『何歳になっても脳は進化する』という本が、2ドル50セントで売っていたので、手にしただけのことで、『おもしろそうだな』と思ったのは事実です。

 私はあまり本は読みませんが、気に入った本は何度も読み返すことは間違いありません。私の生涯で印象に残って常に読み返している本は、もう30年近く前の本ですが、服部吉伸先生の『これからのマーケッテング』ぐらいなのですが、この『何歳になっても脳は進化する』はそれに並ぶ、私のお気に入りになることは間違いありません。

 私の本の読み方は、ちょっと変わっていて、一番最初と一番初めはまず最初に確りと読むことにしています。この最後と最初を読めば、その本の骨格というか、値打ちのほどが大体解るので、それを読んで大したことがなければ、『読みたいという気持ち』が起こらないのも事実です。

 

★この本のあとがきで、いわれていることは、この『何歳になっても脳は進化する』は長い自分の脳外科専門医として『いつか形にしてみたいテーマでもありました。』と書かれています。

気持ちはどうしていつまでも20代のままで、年を取らないのだろう?という疑問は私の頭から離れませんでした。その答えは、いつまでも年を取らない気持ちが生まれる脳のメカニズム、新しい独創的な考えを産みだす脳のメカニズムを活用することだったのです

 と書かれています。

年を取りながら脳を進化させていくことは、ひょっとしたら、人生の一大事業になるかも知れません。 で あとがきは終わっています。

 

 

★ 一番最初の『前書き』にはこのように書かれています。

 太字で書かれている部分だけ取り出しています。

 

 「年を取るほど頭がよくなる」本

 脳の力は、年齢と関係なく高められる!

 何歳になっても思考力や発想力を伸ばし続けることも十分に可能なのです。

 気持ちは何歳になっても年を取りません。

 「年だから‥」というひとことは、本能のしくみで脳の老化を進めてしまう危険な言葉なのです。

 脳には「おもしろい」「興味がある」と判断した情報については、より深く理解でき思考が深まり、記憶に残るという特徴があります。

 

そして、最後のほうにこんなチェック項目が並んでいます。

 少し、多いですが、すべて並べてみますので、チェックしてみて下さい。

 因みに、私は結構 マル が入りますが・・・・・

 

     

 

考え方やものごとに取り組む姿勢

● 何事も「おもしろそう」「楽しそう」と前向きに考える

● 新しいことに興味を持って取組んでいる

● 明るく前向きでいるよう心がけている

● 主体性をもって物事に取り組んでいる

● 大事なことはくり返し考える習慣がついている

● 人と会話をする時は感情をこめて話している

● 「年だから・・・」という言い訳を言わない

● 「でも」「だって」など否定語を口にしていない

● 積極的に社会とのつながりを持っている

● 目標を持って生活している

● 損得を考えず、全力投球する習慣が身についている

● スポーツなどで「同じことを繰り返す練習」をしている

● 創造的思考力を発揮できる趣味やライフワークを持っている

● 大事なことは「情報を重ねて」覚えるようにしている

● 大事な用事は「終わるまで集中を切らさない」

● 集中力が高まる「マイゾーン」を持っている

● 若い人とコミユニケーションする機会がある

● 「なるほど、そうだよね!」と同期発火する会話を大切にしている

● 意見がぶつかった時はお互いに歩み寄るようにしている

● 話をする時は「相手の立場に立っておもしろいか考える」

● はっきりと聞きやすい声で話すようにしている

● 異性に興味を持ち、いつも好きな人がいる

● 貢献心にもとづく「使命感」を持っている

 

脳と体の老化を防ぐ習慣

● 芽が出る食材を積極的に取っている

● 主食に胚芽米や蕎麦、胚芽うどんをよく食べている

● 水だし茶でテアニンを取っている

● 食事は食べ過ぎず、腹7,8分目にしている

● いつも姿勢を正しく保っている

● 「空間認知能」を鍛える趣味を持っている

● 音を注意深く聞く「耳のトレーニング」をしている

● 注意深くものを見る「目のトレーニング」をしている

● よい本をくり返し読んでいる

● 便秘にならないよう腸腰筋を鍛えている

● 食事中に楽しい会話を心がけている

 

★ちょっと「長かったけど」以上です。

 いい本は、読み返すと、深く理解ができると書かれていますので、このようにブログにアップすることで、さらに何回も読み、その内容を自分のものにすることができると思ったので、こんなことをしたのです。

お蔭様で、Google で『何歳になっても脳は進化する』と検索すると、その1ページ目にこのように私のブログが並んで現れたりします。

 

     

 

  第1回は、未だアメリカにいる頃に、発信していることは忘れていました。10月19日ですから、2ヶ月に亘って、この本を何度も読んでいたようです。

 願わくば、これからも『脳が進化する』ことを願っています。

 

         

 

 

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私の仲間  旧いトモダチ

2018-12-12 07:46:02 | 私の生き方、考え方&意見

★今年も師走になった。この1年も振り返ってみるといろいろあった。

85歳にもなった正真正銘の『後期高齢者』なのだが結構忙しく過ごしたような気もする。

新年はアメリカからやってきた孫とその友達という文字通り『若い人たち』とのお付き合いに始まって、夏には娘ともう一人の孫の末弟がやってきて、秋には逆にアメリカに行って1ヶ月半、娘一家と遊んできた。

春ごろまでは、息子の方の孫・古谷仁が ripple room という『本を出版する』とか言って、それをネットで手伝ってやったりして結構忙しかったのである。

  

 

1年中、身内との、特に若い孫たちとのお付き合いもあったのだが、昔からの旧いトモダチや、新しい仲間のような方にも出会って、一言で言えば『充実した1年』だったと言えるのだろう。

 

★ アメリカから戻ったのが11月初旬なのだが、それからの1ヶ月が思わぬ方から声が掛かったりして、なかなか忙しかったのである。

 まずはこのブログにも、しょっちゅう登場した田崎雅元さんだが、私とのお付き合いは50年前のカワサキの二輪仲間のままのお付き合いが続いていて、この1ヶ月の間に何通のメールのやり取りをしただろう。今朝も新しい写真と共にメールを頂いたりしたのである。

 田崎さんが若い頃、乗ってたジェットスキーの話から、『カワサキジェットスキー物語』を連載することになって、当時の旧い仲間、福井昇くんや、ごく最近は松口久美子さんとも、Facebook で再会して、この物語がもう少し続きそうなのである。

そのほかにもこの1ヶ月不思議なほど昔の仲間からお声が掛かっているのだが、すべてが『カワサキ』での関係だから、私の人生の基盤には『カワサキ』があるのかなと思うし、その生き方のベースは、

Kawasaki .Let the good times roll! 『カワサキに出会う人たちがハッピーになるような活動をカワサキは転がし続けます

私自身の生き方も、この基本コンセプトの通りに生きてきたので、旧いトモダチや仲間からもお声がかかるのだと思っている。

 

●ごく最近、近見孝之くんという元川重の仲間が突然、ホントに突然訪ねてきて、2回お会いしているのである。BSから川重に来られて、英語が達者なところからフィリッピンやマレーシヤ市場の開拓段階から現地で活躍した。

彼の用件は、今回NPO法人を新しく創ったので、その運営などについての相談で、高齢者社会の中で高齢者が生き生きと暮らせるようなことを目指すという基本コンセプトはなかなかいいので、NPO The Good Times のシステムでもし応援できるならと言ったら、非常に関心があるようで2度ほどお会いして話をしたのである。

その理事長さんは名谷病院の名誉院長の瀬藤晃一さん(88歳)で未だお会いしたことはないのだが、 近見さん、何故かこの瀬藤さんに気に入られて、もう20年ものお付き合いのようだし、未だにこのグループの現役で活動しているようである。

どんな展開になるのだろうか?

 

●これはカワサキの二輪繋がりだが関東の金井 紫朗さん。Facebook では、毎日繋がっているのだが、二輪もジェットスキーもこなすカワサキファンである。

 ごく最近も『カワサキジェットスキー物語』にリンカーン工場のこんな珍しい写真を貼り付けてコメントを頂いたりしているのだが、

  

 

 来年5月には、地元で市と協働での二輪パレードをやるので、カワサキのメンバーを集めたいというご相談である。大体の内容は解っていて、KAWASAKI Z1 FAN CLUB の登山さんなどが協働されることになっているのだが、一度具体的なご相談に1月に三木に来られるというのである。
 
2015年にはNinjaH2に乗って三木までやってきてその時もカワサキの人より詳しくカワサキのことを知ってるものだから、こんなブログもその時アップしているのである。
 
 
 こんなカワサキマニアに、頼りにされるのも、なかなか気分のいいものである。
 
 
 
● 来週は、東京の村島邦彦さんが関西にやってくるので、お会いすることになっている。
 かってはご兄弟でジェットスキーからのカワサキのお付き合いだったのだが、その後弟さんの村島邦彦さんは二輪関係に変わってインターナショナルトレーデイング村島をやっておられる。
 
NPO The Good Times の関東地区の統括なども手伝ってもらっていて、現役時代からのお付き合いだが延々と続いているのである。
 お兄さんの村島政彦さんは今吉田純一さんを援けて二輪関連のいろんなことに尽力されている。『ジェットスキー物語』を発信したら、久しぶりにコメントなど頂いたりしたのである。
  
 
 
● これもごく最近、珍しい方から長い電話を頂いた。
 
 
  
 
 
 名古屋のミスターバイク斎藤さんである。
 
 斎藤さんは、元々スズキのご出身でそのスタートは『春日井スズキ』からなのだが、特約店制度のスタートの時期に、たまたまお店に伺って、それ以来のお付き合いである。数あるカワサキ特約店の中でも、ひときわ積極的にレース関連などにも力を入れ、サーキットもお持ちだし、MFJ関連でもお付き合いがある。
 
電話のあった前日に、カワサキの新販売店制度の説明会があって、その時斎藤さんらしくいろいろ質問されたようなのだが、『納得する答えを得られなかったので、古谷さんどう思うか?』という内容の電話だったのである。
 
 カワサキの特約店制度は各メーカーに先行して、当時の特約店の人たちとの文字通り協働で創り上げたものだから、旧いお店ほど『カワサキに対する想い』が強烈なのである。今の新制度について、新しい時代に新しいシステムで臨むことはいいのだが、現在の特約店のみなさんの理解を得て、ホンネの腹を割った話し合いができていないのではと思ったりする。
 
 業界の推進者として先日叙勲を受けた吉田純一さんなども『匙を投げた』形だし、この辺が何とかならないのかなと思っている。
私自身の本音で言うと『もう店は要らない』と言われている時代に『また店か』と思うし、この辺りは田崎雅元さんなども同じような意見をお持ちのようだが、もう少しうまく今の販売店さんとの話し合いができないのかな? と思ったりする。
 
 ホンダさんも似たような制度を敷かれているようだが、業界の関係者の人たちの本音の意見は、私のところには結構届くのだが、正直、賛成する方の意見が皆無なのである。
 
 
★カワサキが二輪事業をスタートしてもう50年もの歳月が過ぎた。
販売網だとか、カワサキのイメージというものは、独り『カワサキのメーカーや販社』のものではなくて、長い年月の間にみんなで築き上げた共有財産なのである。
 
田崎雅元さんが、単車事業本部だけではなく、川崎重工業の基本コンセプトにまでした
 
Kawasaki . Let the good times roll ! カワサキに出会う人たちがハッピーになるような活動をカワサキは転がし続けます』
 
 
という基本コンセプトを忘れてしまったのだろうか?
 
今回のカワサキの新政策は、このカワサキの基本コンセプトに合致した政策と自信をもって言い切れるのであろうか?
 
是非、カワサキに出会った人たちが、みんな 『グッド・タイム』になるような施策の展開をお願いしたいものである
 
 
斎藤さんに久しぶりに長い電話を頂いたのに『いいご返事ができずに気になっていたので』せめて私の本音だけは残しておきたくてこんなブログをアップしたのである。

 

  

 

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ゴルフ 雑感

2018-12-11 08:05:29 | 発想$感想

★ 私がゴルフを始めたのは43歳の頃だったから、そんなに早くはなかったのだが、やりかけてからは結構熱中したものだから、その進歩も早くて確か4年目ぐらいには播磨カントリーのハンデイ10にはなったのである。

 私自身はどうもハンデイのシングルなどはあまり興味がなくて、それ以降は月例などの出場も止めてしまったのでオフィシャルはシングルにはならなかったが、70台で回ることもそんなに珍しくなかったので、そこそこの実力であったのは間違いない。

 家にはいっぱい優勝カップが残っている。

 そんな中でも、この企画と営業のメンバーのコンペ『企営会の優勝カップ』は当時の企画室長堀川運平さんが贈呈された純銀製で、そのコンペは15回まで続いたのだが、毎回優勝者が変わって、その第7回に優勝した私が最終戦の取り切り戦でも再び優勝したので今は我が家にそのカップはあるのである。

数あるカップでもひときわ立派な唯一の純銀製のカップである。

 

     

 

第1回の優勝者が田崎雅元さんで、当時の懐かしい錚々たるお名前が14名並んでいるという値打ちのカップなのである。

 

★そんな私のゴルフ歴で、現役最後の2年間が札幌だったので、その当時は年に40回近くやっていたのだが、昨今は年4・5回になってしまっているのである。

 ドライバーなど、そんなに飛距離が落ちたとも思わないのだが、寄せとパターがめちゃめちゃで100を超えたりすることもあるような状態なのである。

来年は、86歳になるので、もう少しちゃんとやって何とか『エイジシュート』でも狙いたいと気分なのだが、殆ど練習もしないぶっつけ本番ではダメなのは当たり前かも知れない。

 然し『グロス86』などそんなにいいスコアでもないという意識だけは未だに残っていて、ちょっと練習でもすれば可能性はあると思っているのだが、そのために練習に行く時間は『勿体ないな』と思ってしまうのである。

 家で、素振りぐらいで何とかならないかと勝手なことを思っているのである。

 

★昨日、ネットを見ていたら、こんなのに出会ったのである。

 

    

 

  筋力は低下などしていないと思っているので、中を見てみると、

  こんな記事に出会ったのである。

 

   

 

 この腕の使い方は、自然に『肩が入っていいな』と直感でそう思った。腕をひねるだけで左肩が自然に入るはずである。

もう一つ『左腕をたたまずに伸ばす』とある。 これはどうもわかりにくいが、家で素振りでもしてみるかと思いだしているのである。

 若い頃、野球をしてたので、スイングについての理屈は『何となく解る』のである。

   

 

 いずれにしても、次回のゴルフは来年の4月だから、それまでの冬の間に庭で『素振り』でもしてみるか、などと思っている。

 果たして、どんなことになるのだろうか?

 

 

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カワサキジェットスキー物語 6

2018-12-10 05:40:26 | ジェットスキー&KAZE

★ひょんなことで始めた『カワサキジェットスキー物語』だが、何となく続きそうな雰囲気になってきた。

今まで何度も繰り返し書いてきたように、ジェットスキーはカワサキにとって最初から正規の製品としてスタートしたわけではなくて、アメリカ市場向けの独特の生まれ方をしているので、当時のことを解っている人は、カワサキの中にも限られていて、特に最初は全く無関係であった『単車事業本部』には、正規の資料も残っていなくて、数人の思惑で動き出したプロジェクトなのである。

おまけに、当時は世界初の商品で、商品名として『ジェットスキー』はあったのだが、一般名がなかったので国会で『エンジン付き海洋浮遊物』と称されたりした『嘘のようなホントの話』も存在するのである。

さらに言えば、カワサキのなかにジェットスキーの遊びのプロなど存在しなかったので、社外の方たちの協力で『ジェットスキーは育っていった』のは事実だし、特に『レースの世界』では、アメリカではJJSBA、日本では当時の西武自動車関連の人たちや、ジェットスキーで遊んでた人たち、そんな人たちが、ジェットスキーを育てていったと言って過言ではないのである。

この話に火をつけた元川崎重工社長の田崎雅元さんは、当時の数少ないカワサキとしてはジェットスキーに乗れたライダーとして、私に『いろんなデーター』を供給頂いたのだが、このほかに、『福井昇くん』が当時のことを時系列に纏めてくれたりしたので、『何とか大丈夫かな?』と思ってスタートしたのである。

 

★そんなところに、これはまた強力な助っ人が現れて、当時の写真など、いろいろ送って頂いているので、今回はその方『松口久美子さん』について、送って頂いた写真の一部などを使ってご紹介したいと思っている。

 

      

 

彼女はジェットスキーの全日本チャンピオンである。

私は、レースの世界にはいろいろと関係があって、二輪・四輪などチャンピオンはいっぱい知ってるが、彼女の実力は飛び抜けていたのである。

ジェットスキーに乗り出したきっかけは? という私の質問に、このように答えてくれている。

井村 雅代コーチのもとオリンピック種目採用を目指しシンクロナイズドスイミングの練習に励んでいましたが、高校1年夏頃、練習に耐え切れず辞めてしまいました。
その頃、姉と一緒にジェットスキーに乗る機会があり楽しいし、試合もある。「日本人がワールドカップに出場したらしいという情報を聞きつけ、シンクロ時代を思い出し「やはり何でもいいから世界に通用する人間になりたい。世界の舞台に出てみたい」と考えジェットスキーなら可能性があるなと思い乗り始めました

 

私に送ってくれた彼女の実績である。

   

   

  アメリカでも、ご活躍だったようだが、国内のレースで、松口さんが優勝しなかったレースなど、私は見たことがなかったのである。

 

★当時の国内の販売網や、JJSBAの協会設立などには、カワサキだけでなく、むしろ西武自動車やいろんな方々の協力があって初めて、ジェットスキーがこの世の中で『カワサキの事業』として成立していったのだと思っている。

 この写真は平成元年(1989)というので、少し軌道に乗り出したころだが、当時のジェットスキーに関わったカワサキのメンバー(後列)と 当時のJJSBA初代会長をされていた苧野豊秋さんを囲んでJJSBAの関係者とそのライダーたちなのである。

 カワサキ側のメンバーは左から。天野・武本・安藤・古谷・鶴谷一番右がどなたかな? 懐かしいメンバーたちである。

 と書いてたら、高原篤さんが『黒田さんではないですか?』とFacebookのコメントで、確かに黒田さんである。

 

      

 

  男性は年間ランキング4位までの優秀選手を招待して表彰し日頃の協力に感謝した会だったようである。

左からジェットスキー協会レース運営代表の上田さん・伊藤選手・小河選手・苧野さん・松口久美子さん・前田選手・斎藤選手・レース運営レースディレクターの日高さん

 特にJJSBAの立ち上がり時点では、西武自動車時代からの上田さんと日高さんには本当にお世話になったのである。

 

★こちらは1年後、JJSBA会長は2代目の石井さんになっている。

 

  

  

平成2年2月21日KHI懇親会左からレース運営レースディレクターの日高さん・飛野選手・松口選手(弟)・金森選手・石井さん・天満選手・松口・伴選手レース運営代表の上田さん  との説明付きである。

 

前年度の写真に金森稔君なぜいないのかな? と思ったりしたのだが、この時には居る。 世界チャンピオン金森稔くんも若いな。    

 

     

 世界チャンピオン金森稔くんについても、思い出いっぱいなのである。

彼を大阪の月木レーシングから、カワサキに引っ張ってきたのは、平井稔男さんである。二輪のライダーからジェットスキーに転身して一躍、実力を発揮し世界の頂点に登ったのである。

今はアメリカのKMCにいる。

これは数年前アメリカの月木さんの娘婿さんがやってたお鮨屋さんでの私と金森君である。

 

        

 この時代、もう一人忘れてはいけない人がいる。

 大南勝也さん、今もPWCの業界に関わっているとは思うが、カワサキも大いにお世話になったのである。

 

     

 これは、松口久美子さんがアメリカにデビューしたころ、繋いでくれたのが大南勝也さんだったようである。

 こんなKMCでの写真も、松口さんが送ってくれたのである。

 

     

   

 大南勝也さんと私のツーショット、こんな写真もある。

 『小島松久・吉村太一さんのマウンテンライダース50周年記念パーテイー』に招かれた時に偶然お会いしたのである。

  私の80歳の誕生日 なぜ覚えているのか?

          

 

 誰かが『私の80歳の誕生日』と言ってくれたようで、太一ちゃんが気を遣ってくれたのである。

 小島松久さんから、壇上でこんな花束を頂いたのである。

         

 

 ★特に、ジェットスキーには関係はないのだが、いろんな人たちと繋がって、そんな人たちのお蔭で『今のカワサキがある』ことを忘れてはいけないと思うのである。

 ジェットスキーは、いまどんあ状況なのか、詳しいことは解っていないのだが、こんな物語をアップできるのも、昔の仲間たちがいろいろと応援してくれるので、何とか昔を思い出すことができているのである。

 カワサキのジェットスキーの創生期の中心になった人は、何と言っても苧野豊秋さんと鶴谷将俊さんである。

 松口久美子さんが当時の貴重な写真を送って頂いたので、いろんなことが思い出せたのである。

 

★ 突然、こんな写真だが、Facebook の私の記事に、突然『いいね』を下さった。

  トモダチ申請したら、すぐ繋がったのである。

  ひょっとしたら、ジェットスキー界で有名人かも知れない? 

  Brenda Burns Chambers さん、 松口久美子さんとも確か、繋がっていたのである。

  こちらも大変な有名人である。これも松口さんから教えて頂いたので、また次回にでも・・・

 

   Brenda Burns Chambers さん

  

 

  次回は、松口さんが写真を送って下さったので、

  88年のソウルオリンピック開会式に参加した時のお話などをと思っている。

 

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何歳になっても脳は進化する  8

2018-12-09 05:45:44 | 私の生き方、考え方&意見

★『何歳になっても脳は進化する』8回目になりました。

自分のためにこのブログをアップしています。『いい本は何度も読み返す』ことが脳の活性化に繋がるようです。好奇心を持ち、明るく前向きに過ごすと『脳は活性化し、退化しない』そうですが、私自身の性格そのままですので、そんなに努力しなくても、『脳は退化しない』と気に入っているので、こんなブログを書く気になっているのです。

 

第4章は『何歳になっても進化する脳』のしくみ について書かれています。

気持ちは年を取らない』感動したり、悲しんだりする気持ちは、老若変わらない。確かにそうです。

人の気持ちを生み出しているのは「自我」という本能・自分の存在意義を認めて欲しいという本能の機能で、便利なネットでの会話もいいのですが、人との直接の会話で、『気持ちを込めて』コミユニケーションするのがベストだそうです。

 

 脳のしくみの話なので、ちょっとムツカシイのですが、人の意識には外からの情報によって脳内に感情などが生まれる『外意識』と外からの意識がなくても発生する『内意識』があって、年齢と共に低下してくるのは「外意識」で、名前が出てこないなどですが、これに対して自分の気持ちや考えなどを生み出すメカニズムは年をとってもそれほど変化しないので、『内意識に関連する機能』をどのように高めるかがテーマだと言われています。

 そのためには「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」という脳の本能を高めることで、いつまでも心を開ける仲間をつくり、いろいろな知識を得られる環境を整える、ともに楽しく生きていく相手を見つけることが必要ですと言われています。

そして人間は「おもしろくない」とか「あまり役にたたない」といった理由を無意識に言ってしまいがちですが、「おもしろくない」ものには脳は反応しないので、このような無意識が本当に脳の判断力や理解力を低下させてしまうのです。

 このように無意識のうちに『自分で自分の脳をダメにしているケース』が多いようです。

 

 

★様々な分野で『超一流と言われる人には共通点がある』それは「無理」とか「できない」という否定語を口にしない、明るい性格だというのです。 

私は『超一流』などではないのですが、間違いなくそんな性格で、「何でもできる」とも思いませんが『何とかなるだろう』と常にネアカに前向きに考えるように思います。

 

 「損得抜きで」「間を置いて」「くり返し」考えられるなどは、その通りなのかも知れませんが、そんなことには関係なく、『ネアカに明るく、前向きに、繰り返し考える』ことで解決するような気もします。

 

     

 

 いろんな難しことを抜きにして、『自分自身が明るく前向きな気持ちでいることを習慣化することが大切』と言われています。

習慣化』出来たということは、『体質になった』ということですから、もっと言えば『性格化』されて、その人の性格として身に付いていることになるのでしょう。

 この本をずっと読んでいて、『脳がいつまでも退化しない、むしろ進化させる』ためには、『好奇心を持ち、明るく、ネアカな性格』になれば、『何歳になっても脳は進化する』のかなと思います。

 これは、努力もあるのでしょうが、生来持っている『性格』なのかも知れません。

 

この章の最後に書かれているのは 『イキイキと会話をする』と若返るのはなぜ

なのですが、人に親近感を与える人・イキイキとして会話をする人・使命感をもって社会に貢献している人・いつも前向き思考でテキパキと仕事をこなす人などは、例外なく若々しく見えるのだが、その秘密は何なんだろう?

 その中のひとつの機能は、こんな人たちはみな、『体を使った行動を伴うことで脳の機能を高めている』と考えられるのです。と言われています。

 机の前ばかりにいたり、ネットで静かに話すのもいいのでしょうが、動いて、人と出会って、そこで『イキイキとした会話』をすることが、脳を若く保つうえで有効だと言われているのです。

 年を取ると、何となく『家で静かに』になりがちですが、いろんな人と出会って、昔話でも『イキイキとやれば』脳は若返るのかも知れません。

 

★この本のご紹介もあとわずかになりました。 

 次回で最終稿としたいと思っていますが、脳の活性化には、従来の年寄り然としたイメージから脱皮して、いつまでもちゃんとした姿勢で、体を動かし、仲間を創って、動くことがいいようです。

 脳の本能は『生きたい』『知りたい』『仲間になりたい』の3つだそうですから、基本的にはこの3つの本能を、若い時と同じように働かせたらいいのかなと思っています。

   

         

 

 

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カワサキ Ninjya の話

2018-12-08 06:10:20 | カワサキワールド

★先日 カワサキNinja のこんな写真をアップしたら結構な人気で、Facebook の写真にいっぱい『いいね』やコメントが寄せられてるので、もう少し『Ninja の話』の続きを書こうかなと思っている。

 

     

 

 この写真の説明書きにあるように、最初はこのネーミングNInja は、黒装束の忍者イメージでNOだったのである。

 大庭浩本部長が、提案先のKMCに明石サイドの意見として持っていかれたのだが、それを田崎さんが上手に断って大庭さんを説き伏せてしまったのである

 田崎さんをご存知の方はお解りだと思うが『田崎さんを説き伏せるのは、なかなか大変なのである

推測するに田崎さんの説得をKMCに出張される大庭本部長に技術部が託したのでは?

私はたまたまその席に居合わせて話を聞いていたのだが、大庭さんご自身の強烈な意向ではないことは明らかだったのである。

 

Ninjaのネーミングの発案は、KMCのアメリカ人だと思うが、後述するように田崎さん自身も気に入っていた節がある。

40年近くたった今、Ninja=Kawasaki と言ってもいいぐらいに定着しているので、結果としては大成功のネーミングであったことは間違いないのである。

ただ当時は、技術部は納得できなかったのか、Ninja を使ったのはアメリカモデルだけで、欧州モデルGPZ900Rでスタートしているのである。

因みに、カワサキのクルマで、こんな『ネーミング』がついた車としては「ZEPHYR」があるが、このネーミングも提案者は当時のカワ販の若手なのである。

 

★ネーミングは兎も角、このNinja 900というマシンそのものが良かったのだと思う。

このNinjaのエンジン設計を担当したのは、若き日の山田浩平くんである。

私は田崎さんとも、山田浩平くんとも、不思議なご縁で繋がっていて、一言で言えば『仲のいい仲間』なのである。 

そんなこともあって、この900のマシンを山田浩平くんが、どんな気持ちで創ったのかということは何となく解っている積りである。

私が彼と出会ったのは、Ninja 900が世に出た1982年からずっと後の90年代、カワサキでX-11というサーキット走行マシンの開発をやっていたころ、この時の担当が山田浩平くんで、その時初めて彼と出会ったのである。

 こんなかっこいいマシンなのである。

  

 KAZEというマークがあるように、この開発については 国内販社カワ販がサーキット走行など大いに面倒を見たのである。

  これは当時の岡山のTIサーキットでの写真だが、多田や宗和のライダーたちも乗りたくてマシンに群がっていた。

 これはFacebook に載せたのだが、多田喜代一さんなど、いろんな人がコメントをくれたりしているのである。

       

 

 そんなマシン開発から 山田浩平くんとはその後もいろいろなことで繋がって、このNinja900が山田浩平くんの作だということも解って、何となくいろいろ知っているのである。

 誤解を恐れずに言うなら、若きエンジニアの山田浩平くんのアタマにあったのは「カワサキの名車Z1」で、出来れば「それを抜く存在にしたい」と思ったのではなかろうか? 

私は技術には疎いのだが、このNinja900は、Z1とは正反対のマシンに仕上げたかった節があり、そのあたりのことは、エンジンの細部の仕様に詳しい方に推測してみて欲しいのである。

結果としては、Z1と並ぶ名車に仕上がったと言っていいだろう。

 

★ これは、ごく最近、山田浩平くんご自身が Facebook にアップしたものである。

『私のデビュー作品Ninja900と最終作品NinjaH2を同じ俳優が同じ映画で乗ってくれるのは大変うれしい。こういうことはあまりないと思う。』とコメントされているのである。

 

    

 

 最近出たマシン Ninja H2 は山田浩平くんの最後の作だと言っていい。

 彼はその後カナダ・アメリカKMCなどの販社を経て、品証から技術本部長に戻った時、私にくれた手紙に書いてあったマシンは多分間違いなく Ninja H2のことだったのだと思う。

約束通り彼はこのマシンを仕上げ、世に出してカワサキを去ったのである。

 

★ところで、Ninja H2にも使われた Ninja の名付け親は、今となってはその経緯から、田崎雅元さんなのかも知れないのである。

 田崎さんから、私のところには、このNinja にまつわる話を、いっぱいメールで送ってきてくれているのである。

 

古谷さん

1982年版 The/Ninja の翻訳本、古本をネットで見つけ購入しました。この本が、ニューヨークで大ヒットしているという情報が ネーミング 決心の源泉です。ザ・ニューヨーク・タイムズ のベストセラーリストに載り、以後22週間そのまま名をとどめ、ハードカバーで15万部を売り尽くしたようです。

主人公は、東洋人の母親を持つ日本育ちのアメリカ人ニンジャ、作者の狙いは、名誉を重んじる精神、その根幹に据えた武士道で、当時、日本の企業文化、さらには精神文化に関心が高まり、企業経営のテクニックにとどまらない、背景にある日本人の精神構造を知りたがっていた、ビジネスマン、学生の間にに広まった、と解説されています。

この本の出現で、それまでのマンガティックなワルの 日本人、忍者のイメージが激変した、と云われています。NINJAのネーミング、かなりネガティブな雰囲気の中で強行し、結果は大成功、日本から岩崎さんが持ち込んできた、ポスター、バナーなど大量の広告宣伝物にKMCで用意した Ninjaのステッカーを、貼りまわった姿が忘れられません。 このステッカー、やがては 日本、欧州の大人気用品になりました。

ラッキーは続きました。1986年に封切られた映画「トップガン」は、日米ともに空前のヒットとなり、トムクルーズが ダイナミックに乗り回す ジェットファイターF-14 と KAWASAKI NINJA900、これが、日米の若者の間で大人気、 KAWASAKI NINJA は 憧れのモーターサイクルになりました。

アメリカ人の広告宣伝担当者が、「トムクルーズが NINJA900 に乗る!」と興奮して駈け込んできました.トムクルーズが自ら NINJA を決めた、と聞いています。映画のスポンサーに、という話もありましたが、あまりに高額なので諦めました。 替りに、全米の封切映画館の正面にNINJA900 を展示することにしました。 スポンサーは、コカコーラ になったと思います。

映画 トップガン と カワサキNINJA900 ]で検索すると大量の情報が出てきます。

 

         

 

★こんな昔話を含めて、Ninja について、こんなブログがアップできるのは、今となっては「田崎雅元さんと山田浩平さんと私」ぐらいしかいない、そんな時代になってしまった。

1982年からもう40年にもなろうとしている。3人ともカワサキの現役は離れてしまったが、未だにこんな昔ばなしを楽しんでいる。

 『楽しめる』のは、夫々自分の想いを持って、その時々に当たったからだと思う。

 カワサキには、そんな伝統みたいなものがあって、それが『カワサキのイメージ』に繋がっている。

 できれば『Ninja に代わる新しい何か』を創り出して欲しいなと願っている。

 

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流行語大賞

2018-12-07 05:56:24 | 発想$感想

★今年の流行語大賞が『そだねー』に決まったことは何となく知ってたのだが、他にどんな言葉がノミネートされたのかは全く知らなかった。

 Yahoo の意識調査に、納得しますかとあるが、これは『納得する』でいいと思う。

 

      

 

 

 大賞は、ノミネートされた30の言葉から選ばれるらしいが、そんなノミネートされた言葉で、

 私が、何となく「意味が解った」のは

 あおり運転・悪質タックル・半端ないって・金足農旋風・翔タイム・奈良判定 と そだねー の7つだけで、残りの23は何のことかよく解らなかったのである。

 

        

 そんな中から下の10が選ばれたらしいが、解らなかった言葉を、後学のためにGoogle で検索してみた。

 

       

e-Sports(イースポーツ)とは、エレクトリック・スポーツの略で、複数のプレイヤーで対戦されるコンピュータゲーム(ビデオゲーム)をスポーツ・競技として捉える際の名称です。

●『おっさんずラブ』は、2016年12月31日0時40分から1時40分(30日深夜)にテレビ朝日系で『年の瀬 変愛ドラマ第3夜』として単発放送されたテレビドラマ

●「ご飯論法」とは、裁量労働制や高度プロフェッショナル制度の危険性を国会で野党議員が追及した際に、加藤勝信厚生労働大臣が行った悪質極まりない論点ずらしの話法に驚愕した上西氏がTwitterでツイートをしたのを受けて、紙屋氏が「ご飯論法」とネーミングしたもの

●今夏、日本列島を襲った記録的な猛暑を意味する「災害級の暑さ

●8月に山口県周防大島町で行方不明の男児を発見した尾畠春夫さんを指す「スーパーボランティア

●「#MeToo」ミートゥーはハリウッドの大物映画プロデューサー ハーヴェイ・ワインスタインによるセクシャルハラスメントをニューヨーク・タイムズが告発したことをきっかけに、様々な女性たちが同様の経験や社会の女性の地位についてコメントをSNSで発信した際にタグとして使っていたワード。

●「ボーっと生きてんじゃないよ」NHKで放送されているクイズバラエティ番組で「好奇心旺盛でなんでも知っている5歳」という着ぐるみの少女・チコちゃんが、言うの決めぜりふ

 

なるほどと思ったし、何となく『解った』が『解らなくても大して問題じゃない』と思った。

流行語大賞』などもうなくてもいいのでは、とも思った。

 

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