雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキジェットスキー物語 5

2018-12-06 12:38:19 | ジェットスキー&KAZE

★ジェットスキーとはカワサキの商品名で、1971年に開発されて72年からアメリカ市場だけで年5000台ほどの販売が続いていたのだが、KMCという単車事業部の子会社の開発商品で且つリンカー工場生産なので、川崎重工業から言えば『継子商品』だったのである。

 エンジン供給元の発動機事業部もジェットスキーチームは解散されて、このままではJS400・JS500だけで、終わってしまったかも知れなかったのだが、84・85年になって一挙にJS550が2万台を超す販売になって、アメリカのKMCの経営改善には大いに貢献したのだが、川崎重工の明石工場サイドとしては発動機事業本部の550ccエンジンが2万台出荷されただけで、KMCの親元である単車事業本部には何の関係もなかったのである。

この間の事情を当時KMCの社長だった田崎さんが、こんなメールで私に知らせてくれたのである。その一部をご紹介する。

「J/S販売規模を20000隻/年に!」

実質上のトップ、山田熙明さん(当時の川重副社長)からの国際電話、「田﨑君!2割、3割の増産ならともかく、20000隻とは!無理をするな!」と呆れかえったような忠告。これを、丁寧に無視して、単独で勝負に出た状況を想い起こしています。 若かったと思います。

「スノーモビル事業からの撤退」という、日本企業が一番苦手とする退却(転進)、この一大マイナスプロジェクトのため、全体の再建シナリオから抜け落ちている リンカーン工場での操業不足と懸命に闘っている佐伯社長の姿が脳裏に浮かぶ、こうした心境にあった時期に、全米に張り巡らされた情報網からの絶え間ないJS情報のインプット、 自分で試乗を重ねているJ/Sに対する愛などが混然となり、直感が確信へと移りかわり、J/S20000台生産のリスクテイキングの決心となった。まさに、大好きな 天の時 地の利 人の和  時は今!と、大げさに表現するなら 天の啓示 を受けた。

 

2万台以上もの販売規模が実現したとなると、何時までも『継子商品』のまま放置するわけにもいかず明石の単車事業本部としても自らの開発商品とすべきという動きが企画室内で起こるのである。

 一挙に2万台の生産規模にしたのは、KMC社長だった田崎雅元さんだし、企画室は私の管轄だったのだが、当時は二人とも未だ若手部長という職位だったのだが、リンカーン工場の生産拡大も、明石の企画で正規製品として技術部に開発を促す行為も、アメリカ以外の欧州や国内市場への進出についても、二人とも別に相談したわけではないのだが、独断でその実施に踏み切っているのである。

 そしてその翌年もアメリカでは24000台の販売が継続したので、独断先行した行為も何となく『当然の処置』ということになって86年度からは、大庭本部長の指示として、新製品の開発も、欧州・国内の市場開拓も進んで行くのである。

 

★このプロジェクトを『独断専行』したのは、ホントに限られたメンバーで、アメリカでは田崎雅元さん、明石サイドは私と武本一郎さんが『言いだしべえ』でそれを支えて具体的に展開してくれたのは、85年8月にオーストラリア社長の任期を終えて帰国した鶴谷将俊さんと発動機から『ジェットスキーに乗れる』ということで単車企画に異動してきた福井昇さん、たまたま他事業本部から異動して来てスペインに連絡事務所を創って欧州市場開拓に携わった藤元さん、国内ではJJSBA初代会長をされた苧野豊秋さんと、私がこのプロジェクトのために指名し東京営業所長でから引き抜いた藤田孝明さんなどの数名が核になって進めたプロジェクトで、85・86年当時は、職制すらなかったのである。

やっと、ジェットスキーに関する職制が出来たのは、私が企画室から営業総括部に異動した87年度からで、その時初めてジェットスキー部門がスタートし、正規に鶴谷将俊さんがアメリカ以外の世界のジェットスキーの市場展開に旗を振る体制となるのである。

 

 ★この間に明石の単車事業本部の技術部では、JS300の開発が進められるのだがその開発コンセプトは、開発計画書に、『底辺層・初心者、女性など需要創造のためのエントリーのジェットスキーとしてやや小型な船体にKX250ベースの300㏄エンジンを搭載』と書かれていて、明らかに、二輪でいうなら『50ccモペット』のようなコンセプトだったのである。

   

 

KMCの製品』から『カワサキの製品』となるので、単車事業本部の技術部が意気込んで開発に着手した第1号製品なのである。

 

       

  

従来、単車事業本部の明石では、ジェットスキーは何の関係もなかったので、これに乗れるメンバーもいないのである。このJS300の開発テストも、福井昇くんが加古川で、テストに乗ったりしたのだが、もう一つ安定性に欠けるという評価なのである

KMCにも試作品を送ってテスト依頼をしたようだが、田﨑さんは先日私宛にこんなメールを送ってこられたのである。

JS300は、大きな問題だった。JS550よりもう少し小型でコストも安いものをと、モトクロス用エンジンを搭載して明石で開発し、試作艇がKMCに持ち込まれた。 ところが、陸上のバイクとは違って、浮力不足で小型になると非常に乗りにくく、私なんかではとても乗れないし、全然面白くない。日本の福井さんからも、内々で、乗りにくいという評価が寄せられ、KMCは販売しないと決めたが、結局KMMで生産し、ヨーロッパや日本で売るという技術部主導の意思決定となったようである。・・・

 

      

 

 多分、その時の写真なのだろう。こんな写真も送られてきたのである。

 単車事業本部でのはじめてのジェットスキーJS300は、こんなこともあって87年度から国内や欧州市場で販売されることになるのだが、基本コンセプトに書かれたような訳にはいかなかったのである。 

 

 ★そんな情勢の中で推移した単車事業本部のジェットスキー・プロジェクトなのだが、1982年からスタートした単車事業本部の再建計画も86年にはほぼ再建の目途も立ち、大庭本部長は副社長として本社に戻られ、髙橋本部長体制となり、さらに87年度は単車・発動機の合併が行われて、私自身は企画室を離れ、営業総括部に異動となり、そこに新たにジェットスキープロジェクト推進部門が正規にスタートし、鶴谷将俊さんがその責任者となるのである。

 田崎さんもKMCの社長から帰任し企画室への異動となる、そんな新時代が幕を開けることになるのである。

私自身は、従来企画室長でありながら、ヨーロッパや国内のジェットスキー市場開発に関わってきたのだが、新組織では営業総括部門の責任者として、鶴谷さんとともにジェットスキー新事業のアメリカ以外の市場の旗を振ることになるのだが、この古谷・鶴谷コンビのジェットスキー事業展開は90年度半ばまで続き、ほぼ完全な状態に仕上がっていくのである。

この分野ではカワサキが世界初のものであったし、87年度からはヤマハさんの参入もあったりしたのだが、パーソナルウオータークラフト(PW)という新しいネーミングもできて、その安全運転協会(PWSA)の設立など、業界としても確固たるものに仕上がっていくのである。

そういう意味で、この業界の文字通り先駆者として、その初期の段階に色濃く関われたことは、振り返ってみても非常に良かったと思うし、競合メーカーのヤマハさんともホントに親密に接することができたのはよかったと思っている。

次回からは、川崎重工業の正規の製品として、世界展開するカワサキのジェットスキー・プロジェクトについて、この物語は続いて行くのである。

 

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高輪ゲートウエイ  雑感

2018-12-06 07:13:08 | 発想$感想

★東京の山手線に40年ぶりに出来る新駅の名前は『高輪ゲートウエイ

 

JR東日本は「高輪ゲートウェイ」の選定理由を以下のように語っています。

新しい駅が、過去と未来、日本と世界、そして多くの人々をつなぐ結節点として、街全体の発展に寄与するよう選定しました。新駅は、JR東日本が開発している13万㎡の再開発エリアの玄関口となる。また、この再開発エリアは「グローバルゲートウェイ品川」というコンセプトが掲げられ、「世界中から先進的な企業と人材が集い、国際社会に受け入れられる街」を目指している。

     

 

 その新駅名については、8割の人が反対と言われているようでネット上では、いろいろと言われています。 

 

 この話題をネット上から拾ってみました。確かに8割は反対意見で『ダサい』と言っているようです。

  これはツイッターからです。

   確かに、このご意見には納得です。

   

  こんな意見もありました。

     

 

 

神戸にこんな駅名があるとは知りませんでしたが、『京コンピュータ前』ダサい最強クラスだから、高輪ゲートウエイは未だマシだと言ってるのでしょうか?

      

    こちらも、賛成なのか、反対なのか?

      

   これも褒めてるのか、くさしてるのか?

      

 

 ★ 反対が多い中で、こんな『高輪ゲートウエイ駅?いいんじゃない』という賛成意見のブログも見つけました。

     

 

 ★ この駅と周辺に関するこんな記事を見つけました。

  膨大な記事ですが、閑に任せて全部読んでみました。駅名に関する『解説記事』のようなところもあります。

  この記事を読むと、単に1位になった『高輪』では、ちょっと勿体ないような気もします。

  https://sumaity.com/mansion_new/article/redevelopment_201309/yamanote-new-station.html 

 これはその記事の 冒頭部分です。

 こんな写真もいっぱいです。

   

 

 東京と名古屋を最短40分で結ぶリニア中央新幹線は、東京オリンピックには間に合いませんが、平成39年(2027年)に開業する予定です。このリニア新幹線の東京側の始発駅は「品川」駅港南口の地下に建設されます。
東海道新幹線が停車するようになってからターミナルとしての機能が高まった「品川」駅ですが、さらにゲートウェイとして重要な駅と街になります。もちろんJR東海の駅施設のグレードアップや駅前も都市機能の向上が期待されます。

高輪ゲートウエイ』も、こんな大プロジェクトが完成すると、確かに東京の新玄関口として似合っているのかな と思ったりしました。

    

  https://sumaity.com/mansion_new/article/redevelopment_201309/yamanote-new-station.html

 めちゃ、長い記事ですが、ご関心のある方はご覧になってみてください。

 

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三木綜合防災公園でのジョッギング再開

2018-12-05 06:50:00 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★今年の春から、三木綜合防災公園でジョッギングを始めて、1.5キロのコースを2周して、芝生で100メートルダッシュなどしていたのだが、どうも私は短距離ダッシュは問題ないのだが、長い距離は苦手なのである。

 3ヶ月ほど経って、夏ごろには何とか走れるようになっていたのだが、9月からアメリカに遊びに行ったりして、途切れてしまっていたのである。

 

 三木防災公園は、こんないい環境で、ジョギングコースなども整備されている。

  

   

 

   

 

★アメリカから戻った後も、ジムには週に3回ほど行っていて、筋トレと室内での『ちょっとしたランニング』と水泳などは続けているのだが、体重も2キロほど増えたので、もう一度、『防災公園でのジョッギング』を再開しようかと雨上がりの朝、久しぶりに走りに行ったのである。

 8月頃には、結構長い距離も走れてたのに、また3月のレベルに戻ってしまっている。

 やはり、ちょっとサボるとダメだなと思った。

 1.5キロのコースを走ったり歩いたりしながら、3周してきたのだが外を走るのは、なかなか気持ちがいい。

 防災公園は広大で、いろんなコースがあるのだが、私が走っているのは真ん中のほうにある1500メートルの『ユリノキコース』なのである。

 

  

   

 

★雨上がりで、芝生の中には入れなかったのだが、コースを3周ほどして戻ってきたが、なかなか気持ちもいいので、こんなことを今考えている。

月・水・金は、ジムに行くことにしているのだが、『空いている火・木・土ぐらいを防災公園でのランニング再開しようかな』と思っているのである。

防災公園は車で家から5分ぐらいのところなので、『行こう』と決めたらそんなにムツカシイことではないのである。入園料も駐車料も無料だから何の負担もないのである。

 

★『なぜまた突然に』と思われるかも知れぬが、人間不思議なもので、

 私より1歳年上の 86歳の三浦雄一郎さん南米最高峰アコンカグア挑戦のニュースが流れたのを見ていたら、そのトレーニング風景もテレビに流れて、それが結構ゆったりしたものだったことが『あれくらいの身体の動きでもトレーニングになるのだと思ったのが『きっかけ』と言えば『きっかけ』なのである。

登山などはとても真似はできないが、『身体を動かす』ぐらいなら出来るし、あれくらいゆっくりでもレーニングなら『走ったり・歩いたりでも大丈夫だ』と思ったのである。

 そんな『きっかけ』で、私ももう少し『体を動かそう』と思ったのである。

 ブログにわざわざアップしたのは、『このように書いておけば』幾らかでも、『継続にプラスに働く』と思ったからである。

 

     

 

 それにしても86歳の三浦雄一郎さん、『スゴイな』と思う。

 来年1月の登山挑戦らしいが、是非頑張って成功して欲しいものである。

 

   

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2018年 忘年会

2018-12-04 05:56:24 | 発想$感想

★12月2日は今年初めての忘年会で、カワサキの二輪に色濃く関係する仲間たちが集まりました。

50歳から85歳までのメンバーで、カワサキの昔話を中心に展開しました。

『3時間飲み放題』でしたが、あっという間の3時間で、若手は喋らせて貰えないほど、年寄りが元気です。

カワサキのファクトリーライダー多田喜代一さんのFacebook のコメントに『多田さんが若手ですか?』などとあったりしました。

 

          https://www.nicovideo.jp/watch/sm34264551

 私はこんな動画ばかり撮っていました。部屋がちょっと暗かったのが残念です。 こんな雰囲気でした。

      

 

 

 

山本隆さんはじめ、みなさん写真をいっぱいブログにアップしていますので、私はそれを『そっくり頂くこと』にしました。

 

 まずは山本隆さんの写した写真です。

 

   

 

      

 

     

 

     

 

Facebook のコメントで幹事の登山道夫さんが、

  Michio Toyama 山本理事長、昨日はありがとうございました😊 また綺麗なお写真のアップをありがとうございます♡ どうやら3時間コースでは時間が足りないみたいですので、来年は4時間コースの場所を探してみますねd(^_^o)笑

  確かに、3時間では若手の登山さんは、喋る幕なしで『4時間コース』を探そうという心境もよく解ります。

 

       

  こちらは福元勇三さんに、多田喜代一さんが書いてたサインです。

  私も1枚貰ってきました。 このマシンに乗る多田さん、福元さんがワザワザ描いて持参したものです。

  サインも絵も上手く描くものです。

 

    その多田さんが撮った写真もなかなか面白いので・・・少々お疲れかな?

 

   

   

   

   

 

 そして同じような写真がいっぱいありましたが、幹事の登山さんがシャッターを押された写真です。

 ご本人が入っていませんが・・・・

 

    

   

  左から、青木隆・福元勇三・多田喜代一・平井稔男・・山本隆・私・柏原久・渡部達也・さん

 青木さんは遠く豊岡からカワサキの二輪で、ホテルに一泊での参加です。平井さんも飲んだら運転ダメなので、柏原宅に一泊での参加。

 私と登山さんは、煙草は吸うけどお酒は飲まない 渡部達ちゃんのクルマで送り迎え付きの贅沢な参加でした。

 

  

 

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カワサキジェットスキー物語 4

2018-12-03 08:23:10 | ジェットスキー&KAZE

★それまで年間5~6000台の販売で推移していたジェットスキーが一挙に20000台を超す実績を上げることになった1983年頃カワサキの二輪事業は、その長い歴史の中でも最大の危機と言っていい大変な時代だったのである。

 それまでカワサキの二輪事業を支えてきたアメリカ市場のKMCの経営は、ハーレーダンピング訴訟や、アメリカ市場まで飛び火したホンダ・ヤマハのHY戦争の影響を受けての大打撃に加えて、リンカーン工場で生産していたスノーモービルが暦年の暖冬で在庫過多に陥り、それらの原因が重なってKMCは100億円を超す赤字が続き、それが川崎重工業の連結決算にも影響して無配に陥るなど大変な時期だったのである。

 83年7月には当時川重で再建屋と称されていた大庭浩本部長が赴任されて髙橋鐵郎副本部長とのコンビで指揮を取られ、問題のKMCは田﨑雅元さんが、明石側の企画部門にはなど若手部長が担当して、再建を図っていた時期なのである。

          

 

そんな大変な時期に、ジェットスキーの新製品JS550が登場し、田崎さんがリンカーンの工場生産台数を一気に20000台ベースにまで引き上げ、それが市場で完売するという劇的な変化が、KMCの経営改善も、リンカーン工場の工数改善にも大いに寄与したのである。

Ninja900もアメリカ市場に登場して、これもまた世界的に好評だったので、これはKMCだけでなく、世界の販社も明石の単車事業本部の経営改善にも大いに寄与したのである。

 

                 

 この Ninja のネーミングはアメリカサイドからの提案のネーミングだったのだが、当時の明石の事業部サイドの技術部は、忍者というイメージは黒装束で暗いと大反対で、KMCに出張されて『ダメだという大庭本部長』を田﨑さんが『アメリカでは、Ninjaは ゼロゼロセブンのようなカッコいいイメージです』と説得して、初年度は『アメリカ仕様のみ』でそのネーミングNinjaは使われたのである。ヨーロッパ仕様は、Ninja のネーミングは使用されずに、そのネーミングは、GPZ900R だったのである。

Ninja のネーミングの『産みの親は田崎さん』だと言ってもいいのかも知れない。

     

大庭さんを説得したその場面に私も同席していたので、そんな経緯を知っているのである。 

大庭さんは川重の中では『怖いイメージ』で、大庭さんにNOという人は少なかったようだが、当時の単車は田崎さんや私など、結構ズケズケとNOと言ったのだが、大庭さんはかえってそんな単車の雰囲気を楽しんでおられたようで、7月に来られて9月には『単車は思ったより確りしている』と経営会議で仰ったりして、大庭本部長の信頼を数か月で得たのである。

        

★この年、アメリカ市場での急激なジェットスキーの販売増加はあったのだが、この『ジェットスキー』はKMCの製品ではあるのだが、当時の明石の単車事業本部では開発も生産も一切無関係なので、事業本部の経営には一切影響がなく、単にお隣の発動機事業本部がリンカーン工場にエンジンとして出荷しているだけのものだったのである。

そういう状況なので、明石の単車事業本部には、ジェットスキーに関係する人は1人もいない状況だったのだが、何とか『川崎重工業の正規の製品』にしようと動き出したのが、当時の企画室の私の下にいた武本一郎さんなのである。

彼がその決意をしたのは、アメリカ市場でジェットスキーが突如大量に売れ出した84年の夏ごろだったと思うのだが、彼の熱意に動かされて、私も私なりに動き出すのである

 当時、日本国内では西武自動車が逆輸入していたジェットスキーを、当時のカワ販の孫会社のKATが細々と売っていてレースなどの動きが出始めたころなのである。私はこの企画室担当の前は、カワ販常務として国内市場を統括していたので、KATのこともよく解っていて、KATの社長も兼務されていた苧野豊秋さんと国内のレース協会を立ち上げるべく、84年11月にKMCに田崎社長を訪ねているのである。その時アメリカのIJSBAに繋いでくれて、IJSBAの承認を得て、翌年国内にもジェットスキーのレース協会JJSBAがスタートするのである。

これはその時のKMCでの写真だが、苧野さんを囲んで、当時の単車事業再建に関わった明石のメンバーもいる懐かしい顔ぶれである。

    

  

      

   こんな写真もあるが、いずれも田崎さんに送ってもらったものである。

 

★ 川崎重工業としてのジェットスキー事業のスタートは、国内のジェットスキーレース環境の整備から始まったと言ってもいい。

 カワサキの二輪事業のスタート時代も『レース運営委員会』から始まっていて、その委員会の営業サイドの長をされてたのが苧野豊秋さんで、その事務局が私、そしてレース職場の担当が若き日の田崎雅元さんだったのである。

 二輪も、ジェットスキーも遊びの道具なのだから、『その事業の核のひとつはレース』だと私は信じて疑わなかったのである。

カワサキのジェットスキー事業』の本格的にスタートするためには、まず国内のレース協会、JJSBAの確立が『その第一歩』だと思ったし、この出張で日本のJJSBAが公認され、初代苧野JJSBA会長が実現するのである。

 

 ★同じ時期に、明石の開発・生産サイドの対策は、武本一郎さんが同期の技術部の百合草三佐雄さんなどと組んで、単車事業本部の開発製品として、ジェットスキーの開発を目論んだのだと思うが、静かに潜航した対策で、表面には何の資料も出ていないのだが、85年2月の単車事業本部の開発計画書には、単車の開発車種と並んで、9番目にこんなJS300 と X-2 という二人乗りのジェットスキーの計画が記載されているのである。

この84年当時と言えば、未だジェットスキーは単車事業本部の製品としては承認されていない時代なので、正規の開発予算などもなかった時代なのだが、この予算については、企画の武本さんが確か生産関連の予算から、捻出したのではなかったかと、これは私の推測なのである。 現実に85年2月には、こんな計画が開発計画書に載ったのである。

 

   

 これが単車事業本部正規の書類の中に、最初に登場した『ジェットスキーの名称』なのである。

この開発会議は、大庭本部長主宰のものだから、85年2月に『川崎重工業のジェットスキー事業』は、正式にスタートを切ったとも言えるのである。

 この計画書には『単車で開発・生産する』と明確に書かれているのである。

 

★こんな経緯を経て、ジェットスキーはようやく単車事業部の正規の製品として開発が進められることになるのだが、技術部の開発担当以外には担当者もいないし、この時点ではジェットスキーに乗れる人すらいないのである。

 企画室の私と武本一郎さんだけが解っているだけのそんな状況から、この年の8月にはオーストラリアから鶴谷将俊さんが帰国して、企画室でジェットスキーを担当してくれることになるのである。

 そこからが、ジェットスキー事業の本格的な動きが始まるのである

 

 

 

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何歳になっても脳は進化する  7

2018-12-02 09:44:59 | 私の生き方、考え方&意見

★『何歳になっても脳は進化する』7回目になりました。

 前回は、こんな習慣は止めたらいいということだったのですが、第3章は逆に『こんな習慣』を身につけたらいいということが書かれています。

 そのテーマは『今日から始める「脳が進化する」習慣』です。

  

 

      

  そのスタートは 『脳神経細胞の「老化を防ぐ」私の食事法』 と題して以上の表の5項目を挙げています。

この辺りは、そんなにムツカシイことではなくて、食事は好き・嫌いを言わずにいろんなものを腹八分目に取ればいいのかなと思います。

私などは、戦後の食糧難の時代に育ちましたから、好き嫌いもなくて、ここで書かれていることはほぼ『大丈夫』だと思います。

もし、問題があるとすれば『腹八分目』がムツカシイかなと思います。

 

 

       

 

  次は体の使い方の問題です。

  手足を一生懸命動かしていると、その筋肉で『神経成長ホルモン』造られ、それは最終的に脳に運ばれるので、『体を動かすこと』が一般に考えられている以上に大切です。

 ただ、漠然と体を動かすのではなくて、次の二つの点に注意してと書かれています。

   1.正しい姿勢と水平目線を身につける。

   2.正しい歩き方と体のバランス支点を意識する。

 スポーツはこの二つの条件を揃えているので、テニスやゴルフやランニングがお勧めだそうです。

 その脳の働きの理論として『空間認知能』などの理論が語られていますが、こんな理屈はムツカシイので、

 まずは『背筋を伸ばし、目線を水平にすること』から始め、『肩の高さを左右同じにすればいい』そうです。

 

 

 

     

 年をとっても脳の機能をさらにレベルアップさせていくためには、神経伝達のつなぎ目であるシナプスの数を増やす『発芽』という現象を脳に起こすことが重要です。これは自分の頭を使って自分独自の考えを産みだす作業をすることで、人の物まねではこの現象を生み出すことはできません。

 そのために囲碁や将棋など、先の手を読むときに空間認知能をフルに使うそうです。そんな楽しめる趣味を持つことが効果的だと言っているのです。私はネット碁を毎日数局は打ってるので、これは続けたいと思います。

絵を描くこともものごとを正しく把握するトレーニングになるので脳にとって大変良いことと言えます。

 

       

 年を取ると『耳が遠くなる』人が多くなるのですが、耳が遠くなる理由は『耳そのものではなく脳のほうに問題がある』場合が殆どだと言われています。最近『耳が遠くなった』と思っている人は脳の機能が落ちているのではないかと疑ってみたほうがいいでしょうと、書かれています。

 耳のトレーニングに必要なのは『しっかり理解しよう』『全部聞き分けよう』などと目標を持ち意識をしっかり集中して聞くことなので、音楽を聴いたり、英会話を集中して聞くことなどが効果的だそうです。

 目の機能を保つ習慣も大事で、そのためには眼球を早く動かしたり、近くと遠くを交互に素早く見たり、動くものを目で追っかけたりして、『目のストレッチ』をすることが効果的で、『文字を視線でぶち抜くつもりで文字を追う』など兎に角『目を意識的に使うようにする』ことが大事なのです。

女性は近くのものを見る』『男性は全体的にものを見る』力に長じているし、色覚は女性の方が鋭いので、このような男女差を知ったうえで、女性は意識的に遠くのものを見る、男性は近くのものをよく観察したり色の差異を意識してものを見たりするトレーニングをすると、『目に見える世界が変わる』ことが実感できるそうです。

 

 

    

   

文字を読むことは『脳を使う習慣』の中で最も手軽な方法です。

頭を使うという習慣という意味では、好きなものを読むだけでも効果はありますが、人間力を高め、精神的に豊かな人生を過ごすためには苦手なものを読み切ることも大切です。

さらに、脳の機能を高めるためには良い本をくり返し読むことが重要なのですが、『くり返し読むことの大切さ』はあまり知られていません。

 本を沢山読めば確かに知識は増えますが、それではなかなか『脳の思考力は鍛えられません』と言われています。

これは、この本を読んで非常に印象に残ったところなのです。『脳の思考力を高めるために』くり返し読んで、さらにこんなブログにアップしてみようと、自分のためにこんな面倒なことに取り組んでいるのです。

 どなたもいずれは『年を取られる』訳ですから、『脳を活性化する術』をお知らせすることもいいのかなとも思っているのです。ここは『脳の活性化』にとって非常に重要なところだと思っています。

 

 

脳は「楽しい」「おもしろい」などと感じると疲れが取れる仕組みになっているようです。

好きな友達や家族と楽しく会話することで、たまには羽目をはずすのもいいそうです

 

この章で紹介されている生活習慣は実践しやすいものばかりなので『いつまでもイキイキ働く脳』のベースづくりとして あなたの生活に取り入れてみて下さい。という文章で第3章は終わっています。

 

           

 

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ジム通い 1周年

2018-12-02 06:51:15 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★このところ週の内、3日か4日は三木市の体育館にあるジムに筋力トレーニングに通っている。

 昨年の10月末に、プールの帰りに新しくできたジムを覗いたら、担当の女性の方に誘われて、その日のうちに最初の講習を受けて『私のジム通い』はスタートしたので、1周年なのである。

 プールも、ジムも三木市役所管轄なのだが、昨年10月に新しく体育館が出来て従来あったプールとも同じ館内になっているのである。

 

      

 

 『ジム通い』を始めてみると、プールよりはいいような気もして、欠かさず通うようになったのも1ヶ月1000円で、何回行っても、何時間いてもOKという『超廉価』な価格がそうさせたのかも知れない。

 ジムそのものは、こじんまりしてそんなに多くの器械もないのだが、1時間ぐらいやるにはちょうどいいレベルなのである。

 

    

 

体重がもっと落ちるのかな』と期待したのだが、これは予想に反して殆ど変わってはいないのだが、体脂肪率は落ちたし、筋肉は結構確り付いて、太ももなどは『人生で一番太く』なっているような気もするのである。

 一言で言うと、『体がしゃんとした』というのが一番当たっているのかも知れない。70歳代からストレッチは本格的にやってきたので、柔軟性は『20歳代』を常に維持し、年を取るごとに柔らかくなっているのだが、それに筋肉がついたから『体がしゃんとした』感じになったのだと思っている。

 体重も落としたいのだが、これは『食う量』をもう少し落とさないとダメなのかも知れない。脂肪よりは筋肉のほうが重いので体重が減らないのだとコーチの方は仰るのである。

★そんなことで、プールはすっかり『ご無沙汰』だったのだが、9月から『プールとジム』と2階にある『ランニング・コース』はそれぞれ高齢者は、350円・200円・100円の特別価格 になっているのだが、共通券を買うと1ヶ月3000円で、使い放題というので、9月からはこれを買って、プールも復活したのである。

 8時半からジムとランニング・コースで汗を流し、10時からプールで泳いで、昼前に家に戻るというスケジュールで午前中を過ごす健康的な生活が週に3・4日続いているのである。

 

★こんな運動は『脳の活性化』にもいいようだし、多分今後も続くだろうと思っている。

 できれば、いま82キロある体重が、70キロ台にならないかな? と思っている。

 それくらいになると、ランニングがもう少し軽く走れるのではと思っていて、2年目の目標にしたいのである。

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 人生の記録  私の日記帳

2018-12-01 05:18:40 | ジェットスキー&KAZE

昭和28年(1953)11月8日から突然私の日記はスタートして、今も尚、『60年以上も続いている』いる。

 その動機については何度かこのブログにも書いたが、朝日新聞に『台湾の蒋介石は30年も日記を書いているのがエライ』というような記事があって、『そんなことなら自分にもできるだろう』とこの年は大学ノートにその日から日記を書き出したのである。

 何となく続いて、蒋介石を抜いたことで、大いに自己満足しているのである。

  60年もの日記帳は、このような形で保管されている。

 

  

 

  最初の頃は、1年1冊だったのだが、そのうち3年連続になり、今は5年連続のものになっている。

 振り返って読んでみたりするときには、連続ものの方がいろんな関連が解って重宝なのである。

  

 

2006年9月からは、殆ど毎日、ブログ雑感日記 https://blog.goo.ne.jp/rfuruya1 をアップしているし、私自身の人生がどんなものだったのかは、結構ちゃんと解るようになっている。

というのも『人の記憶』は頼りないもので、『思い違い』がいっぱいあるのが現実なのである。

 

★何をいまさら『日記の話?』と思われるかも知れぬが、

ごく最近、田崎雅元さんや、福井昇さんとカワサキジェットスキー物語』をスタートさせたのだが、大体のことは覚えているのだが、その年次が『頼りない』ので、日記や、日記を集約してノートに記録した『記録帳』をひっくり返して、チェックしているのである。

 日記を集約して、特に現役時代の会社の出来事を時系列に纏めているのが、ノートの記録帳なのである。

 一応、昭和28年(1953)から今のところ現役引退の2000年ぐらいまでの50年間は、4冊の記録ノートに纏まっている。

 

  

 

 いっぱい付箋がついているのは、この数日読んでみて、ジェットスキーに関連があるところに貼り付けたばかりなのである。

 これくらいネタがあれば、何とかジェットスキー物語も、ある程度正確に書けるだろうと思っている。

 メモ書きみたいなものだが、日記からの抜粋で、これくらいのレベルで書かれている。

 

   

 

  ご覧になれば解るように、結構詳しいのである。たった一行でもそれがどんなことだったのかは、『私には解る』のである。

 

 

    

 

 『苧野さんとKMCへ』 苧野さんとは私にも、田崎さんにも共通の上司の苧野豊秋さんなのだが、この時は国内のレース協会JJSBAの立ち上げのために、アメリカのIJSBAの承認を得るべく渡米して、当時のKMC社長・田崎さんにいろいろ仲介などお願いしたのである。

 その時の写真は、田崎さんから送って頂いているのだが、それが何時だったのかは、『結構正確に』解るのである。

 

    

 

     

 

 このページの一番上、10月18日に『ホテルオークラ、スイートに泊る』などの記述があるが、当時いつも『スイート』などに泊まる贅沢な出張をしていたわけではないのである。

 川崎重工業の大西副社長が来られていて、田崎さんと二人でKMCを、そのあとKMMは私がお伴してのご案内出張だったのである。『ホテルオークラ』とはロスのホテルオークラである。田崎さんも覚えておられると思うが、ホテルに着くと「部屋が取れていない」とホテル側は言うのだが、事情を話すと、すぐに『スイート』を特別価格で手配して頂いて、私と田崎さんはアメリカのホテルで『畳の部屋』に泊まることができたのである。

 

 この大西副社長との写真も、田崎さんが私に送って頂いたものである。

 

    

 

★私は、何故か文章を書くのは『苦にならない』ので現役の頃から、文章はいっぱい残っているのだが、当時はカメラも持たなかったしので、そのあたりを田崎さんが援けてくれているのである。 

 ひょんなことで、スタートした『カワサキジェットスキー物語』だが、こんな作業でなかなか忙しいのだが、この数日のうちに『カワサキジェットスキー物語 5』アップしようと頑張っているのである。

  

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