魂が生まれた場所

2010年01月10日 | 自分 -

昨夜、放送された「二本の木」というテレビ番組を観た。
それは、癌におかされた夫婦二人が、お互いに日記をつけていた記録を、
後に自費出版したのだが、舞台「ラブレターズ」のように、二人の男女の俳優が
お互いの日記を朗読しながら、時の流れを描いていくというものだった。
とにかく、泣けた・・・。
号泣に近いほどのシーンがあり、俳優人(片岡仁左衛門さん&竹下景子さん)の
見事さもあり、たとえようもない素晴しい“夫婦愛の世界”に浸ることができた。
あんなにお互いを支えあい、愛し合い、慈しみあった夫婦は、めずらしい。
やはり、相手への感謝の気持ちを確認しあって、伝え合うことの大切さを、
とてもしみじみと感じる内容だった。 「愛」にあふれた夫婦だった。



過去の「介護人」としての経験から、当時の気持ちを思い出すことがあり、
涙を止められなかった部分も多々あったようにも感じる。


母の看病をしていたとき、もう亡くなる少し前のことだったが・・・・
長い闘病生活と、病気の進行によって、当時の母はぼぉ~っとした表情の時が
頻繁にあって、最期に近づくにつれ、私の存在も認識できない時も何度もあった。
そういう勝手な思い込みが手伝って・・・残念ながら、当時の私は・・・
事実上の「母との最後の会話」が、100&理解できなかったのである。
それは・・・

   母:「もう、そろそろ、“生まれた場所”に帰ろうかなぁ」
   私:「えっ!生まれた場所って?」  
   母:「わからんの?」
   私:「中久保のこと?あっ、家のことかなぁ?」
   母:「わからんかったら、ええわ」

 そう言って、母はくすっと優しく笑って、私をにこやかに見つめていた。
 そんなことは、本当に珍しいことだった。


当時の私は、咄嗟に、「生まれた場所」が、母が生まれた生家ではなく、
結婚してから住んだ実家だと、短絡的に解釈したのだった。

   私:「病気が治ったら、また帰れるからね」
   母:「・・・・」

 その後、母は、このことについて、口を開くことはなかった。



葬儀の日、住職からの説法で、「生まれた場所」の意味が始めて判明した。
「人は、誰にも“生まれた場所”があって、いつも“その場所でいるのです”。
 この世で亡くなったらまた再び“そこ”へ戻ります。いつも、その方の魂が
 浮かんでいるように滞在している場所のようなイメージをしてみてください。
 そして、またしばらくしたら、その場所から旅立つようになっているのです。」

母は精力的な人で、50歳を過ぎてから大学へ通ったり、四国霊場を三周も
めぐっていた人だった。それも、片足が不自由になった後からだった。
神戸の震災の時には、足をひきずりながら、炊き出しにも出かけて行った。
人々のために尽力をつくそうと、ボランティアに打ち込んだ晩年を過ごした。

それほど信仰の強い人ではなかった記憶があったが、私が家を出てからは、
同居できない淋しさを感じながらも、家を守り抜いてくれた気丈な人だった。
四国霊場を母の姉と妹の仲良し三人でめぐり始めたことで、精神的な柱として
母の中には根付いていたのだと思う。きっと、そうなんだろうと思う。
私には、そういう基礎知識も何もなく、あまりにも母のことを知らなさ過ぎた。
だから最後の会話に出てきた言葉に的確に応えることができなかったのだ。
結局は・・・ただ、単なる介護人として、母を見送ることになってしまった。


これは、「一緒にいる」ことの重要性を感じることとなったエピソードだ。
高校卒業以来、母と深く会話をしたことが、何度あっただろうと・・・・
いろいろと反省することがあり、余計に母の死はとても辛いものとなった。
せめて側にいて、生活の変遷を見ていれば、少しは理解できたかもしれない。
私は、無宗教だし、当時の介護人としての立場としては、キャパシティとして
“いっぱい・いっぱい”だったのも、不幸な現実であったとも思う。
しかし、あの時、理解できなかった私を、優しく見つめていた母の顔は・・・
今も忘れることができない。
私が見た「最後の笑顔だったから・・・」。


しかし、人は、強い生き物だから・・・時間がたって、心が癒えると・・・
その反省を有効的に反転させることができる。
私自身も、母を介護した経験の全てが、父の介護には活かせたと思う。
しかし、今も母への思慕は無くならない。
とても大好きな人だったので、笑顔が忘れられないし、今も恋しい・・・。
だから、「二本の木」のような・・・かわいく切ない“やりとり”に触れると、
つい思い出してしまうのだろう。