試行錯誤の果てに

2010年01月13日 | 自分 -

誰だって、人に屈する自分は、腹ただしいものである。
それ以上に、切なく、この身を切られるのは・・・
自分に近しい人に利用されること――。
信頼していた人に裏切られること――。
それも、いつも、何度も、
“ 質を変えて ” ・・・・・

おそらく(その人に)自覚はなくても、「保身」というキーワードがあるために、
イザとなれば、この身は “切り捨てられる” ことがある。
そのたびに、わが身を「学習しないサル」と判断するか、「仕様のない現実」と
判断するかが、自分自身の精神設計のポイントとなる。



若い頃は、「ポイ!」と切り捨てられても・・・それでも良かった。
パワーがあったし、希望もあったし、何をやっても経験になった。
“生きる力” もみなぎり、次から次へと “気力” が先行した。
もしかしたら、「負の力」を “切り返すだけの力” を持っていたかもしれない。
その人に一生頼らなくても、生きていけるという「根拠なき自信」もあった。
実際、そうして、自分の選択だけで、生きてこられたのが不思議なぐらいである。


だが、今は・・・もう違う。
体力は、確実に落ちた。
気力を奮い立たせるのに、時間を要するようにもなった。
昔のように、全ての基準が「純粋なモノ」だけではなくなった。
将来を見据えることを意識しながらも、この身を活かせる場が一番であり、
おそらく、大人としての「したたかさ」も、若干は身につけただろう。
そして、「経験」を手にした代わりに、一般的な興味をすり減らしたとも感じる。
どうしても、先(結果)が読めてしまうからだ・・・。
成長を求め、がむしゃらに働いていた若い頃とは、価値観が変わってしまった。
ガードが固くなったとは思えないが、全てが違う質感になったのは事実だと思う。



そんなことを感じながら、ぼんやり夜を過ごした翌日に・・・・・
私は、こう思う。
         「私は、学習しないサルじゃない!」
         「気力もあるはずだ」
         「まだ可能性もある」
         「無力であるはずがない」



同じ人間の脳細胞の中に、相反する意識が顕在化してくる。
人間というものは、本当にまだまだ理解不能な領域を持っている生命体だと
自分を通してそう思う。

結局は、否定的に物事をとらえはじめたら、危険信号だと思ったほうが良い。
冷静に、自分と対峙する余裕だけは、どんな時も持っていたいものである。

「自分の人生(道)を創造していく」のは、自分しかいない。