阪神大震災から15年

2010年01月17日 | 社会 -
もう15年もたってしまったのか・・・と、しみじみと感じる。

「阪神・淡路大震災」は、私たちが経験する初めての大震災であった・・・。

その後、連絡が取れるようになって、多くの人たちにお見舞いの電話をする中で、
知らなかった現場の状況を聞き、何度も胸に迫るものを感じたのを覚えている。
明るく苦労話を語ってくれる人もいたり、悲惨な現実をさらりと伝えてくれる人もいた。
どれもこれも、震災がもたらした、人々の暮らしがそこにあった・・・。
あれから、もう15年なのだ・・・。


ちょうどこの日、私はイギリス:ヒースロー空港発の成田便に搭乗していた。
到着間際のニュースを機内で観てから、胸がそわそわして落ち着かなかった。
「信じがたい光景が、そこにはあったから・・・」
すぐには実感が、わかなかった。
「まさか・・・そんなはずはない。あれが神戸だなんて!」
信じられなかった。
ニュースは、まるで映画の一場面のような「ガレキの山ばかり」で・・・
私は言葉を失ったまま、身も心も落ち着かず、機内で硬直していた。

我が実家は、四国:徳島にあり、震災地と大変近い場所にある。
それも、海を隔てたすぐの場所で、神戸からは非常に近い位置にあるのだ。
だから、私は・・・・実は・・・両親の安否が何より心配だった。
「どうか、無事でいてほしい!」故郷の状態がわからず、心からそう願っていた。
成田空港に着いて、公衆電話エリアに走り、すぐ実家に電話すると、父がでてくれた。
阪神大震災の起こった時間は早朝だったので、時間がかなり経過していたこともあって、
徳島への電話の回線はすでに問題なくて、実家とはすぐに繋がった。
「朝方の大きなゆれに、とてもびっくりしたこと」 「あまり大きな被害はなかったこと」
「中庭にある大きな灯篭が倒れてしまって、ぴくりとも動かないこと」を聞いた・・・。
でも「死ぬかと思うぐらい、大きなゆれだったから、こわかった」と父はしみじみ語った。
その後、母の声も聞いて、お互いの安否を確認して、「良かったね」と言い合った。

阪神大震災と聞くと、いろいろな想いが交錯し、たくさんの顔が浮かんでくる中で・・・
あの“落ちつかないソワソワ感”が(まるで)対のように、いつも思い出される。


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あんな状況から現在の状態まで、町や生活を復興させた震災地の皆様のご苦労には、
心から敬意を表します。本当にお疲れ様でした。大事な方を亡くされた多くの皆様、
どうか心安らかに、これからも“今日の日”を忘れず、お健やかにお過ごし下さい。
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今年、私は、母の十三回忌の法要を迎える年となる。
母の一周忌の際に、お墓をたてたのだが・・・・そのときに、実家の中庭の灯篭も
元通りにしてもらった。
大震災の時に倒れた“あの中庭の大きな灯篭”である。

あの灯篭を見るたびに、機内でのソワソワした感情がよみがえってくるのは・・・・
今もかわらないが、もう15年なのかと感慨深い。


毎年「震災にあわれた方にとっては、厳しく、大変な15年だったことだろう」・・・と
ただただ複雑な想いにみまわれる。
天災は、突然に厳しい現実を引き起こし、人間の業を裸にして、試練を与えてくる。
私たちは、助け合い、慈しみ合い、声をかけ合い、少しでも心の傷を癒しあいながら、
生きていきたいものである。 
同じ地球に「生」を受けた者として・・・・。