仕事の「割り切り感」

2010年08月03日 | 仕事 -

なぜか「重なるときは、重なるものだ」ということは、何度も経験している。

昨日の私は、「驚愕事実の発覚」⇒「茫然自失」⇒「一生懸命」⇒「無常観」という
非常に “あぶないサイクル” の中に、埋没していた。
それを、何度も、何度も、繰り返していたのだ。

どっぷりと、自分が自分を律する機会を失うぐらいに、次から次へと、たくさんのことが
私に襲い掛かってきて、「複雑な状況」と「理不尽な環境」に包まれ続けた。
携帯電話は、常に鳴りっぱなしだった。
メールをチェックしようとしても、それが かなわず、私の心情は泥沼のようだったなぁ。
余波は、翌日まで続き、仕事は深夜まで繰り越した。 徹夜もどきだ。



自分に「全く非がない」状況にありながら、何故、このように謝り通すのかと・・・・
置かれている立場を呪う反面、もう一人の自分は「アホラシイ」という気持ちが、
ふつふつと煮えたぎって、あまりに理不尽な状況に、涙もこぼれてこなかった。
まさに、私の気持ちが、「冷凍庫」の中に、押し込まれているようだった。
そして、カチコチに、凍っているような感じだ。

本当に、年に何度か、あるかないかの大凶日だった。




「泣きっ面に蜂」のように、次に届いたのは、若い頃お世話になった人の訃報だった。

仕事では、言葉とは裏腹に、“氷のような心” のような “対応” をしておきながら、
昔の友人と話していたら、不可解な涙がどんどんと溢れてきて、止らなくなった。
今年、会おうとして、会えなかった人が・・・・死んだ。
事務的な話をしながら、心の中を伝えようとしたら、涙無くしては語れない。
私の青春時代の思い出が、また一つ・・・・灯を消した。
昨秋、電話で久しぶりに話して、「会わなければ!」と思った人だったが・・・・
会おうとしたとき、すでに病魔が襲い掛かっていた。
最後は、肝臓がんだったと言う。




今日は、その他にも、やらなくてはならないことが、山積状態で、私は・・・・
許容範囲を軽く超えた状況だったと思う。

それでも、こうして、少しだけの虚しさと、泣いた後のすっきり感を、この身に抱いて、
今日もまた、冷静な仮面をつけて、「こと」をすみやかに進ませていかなければならない。

仮面など かぶりたくない。
仕事も順調にやっていきたい。
しかし、あらゆることが「うまくいかない時というのは、あるものである」。

重なるときは、本当に重なって同時に「やってくる!」。




私は、人間ができていないので、とにかく「逃げ出したくなる」。
しかし、逃げられないのが容易に解ってしまうので、時折、損な役割を担うことになる。
スタッフに頼られたり、そういうプロジェクトのトップだったりして、どのようなことでも
対処することを避けられない境遇におかれてしまうのだ。

これらの経験が、「糧」になったり、「経験」になったりしていれば良いが・・・・
自分の人生の「垢」にならないように努力はしている。
ただ、今日のように、全く余裕がないとき・・・私は、本能で動く。
察知した状況を、直感のまま判断して、動くしかない。
結果は、後からゆっくりとついてくるだろうと、簡単に決め付けているのだが、
確証など、全くないに等しい。



自分にとって、喜ばしいことは、「執着心が薄れていっていること」。
自分にとって、一番哀しいことは、「信頼していた人に対する気持ちが変わってきている」
という明確な事実である。

しかし、人の気持ちは変わる。
だから、当然の流れでもある。
決して、自分を責めてはいけない。
私には、非はなく・・・・たとえ、どんなに頑張っても成立しないものがあるとしたら、
それは「そういうこと」なのだ。
現実を、ありのまま受け容れ、執着心を薄れさせていき、徐々に、より自分らしい人生、
自分らしい生き方を模索していこうと思っている。


疲れの果てには、“眠り”しかない。
美味しいものを食べて、とにかく、休める日まで「頑張ろう」と思っている。
この身体を横たえることができる、その日までは・・・・・。

そして、今日は、とにかく「明るいことを考えるように努めよう」。