人を見る 「 観察力 」

2012年05月10日 | 言葉 -

 


あらゆる場面で必要なのは、「人を見る目」である。
要するに、観察力(observation)だ。

具体的には、 “人の行為に対する目” を 養うことによって、より明確となる。
しかし、それは、まさに自分の感覚に頼るしかない。



「視」 ・・・・・ その人の行為の外面に表れる善悪を視る。

「観」 ・・・・・ その人の行為の動機は何であるか観きわめる。

「察」 ・・・・・ その人の行為の落ち着く帰着ポイントを察知する。



人が何かをしたときに、「何に対して満足しているのか」を知ることによって、
必ずその人の行為の真価が 明らかになる。

外面に現れた行為が正しく清らかに見えたとしても、動機が不純であれば、
あまり信頼できないだろう。

同様に、行為が正しく視えて、動機も正しく観えても、その人の帰着点が
「気楽」 「誘惑」 「飽食」 「ゆがんだ欲求」 だとしたら、果たしてどうだろう。
あっという間に、善悪でいうと、「悪」 に手をそめてしまいそうである。


「行為」は、実際の行動であり、行動に移すことは厳しい現実を伴うこともある。
だからこそ、その人が行った「行為」には、その人自身が表れるのだと思う。


  

「元気だしてちょョ!」  「オラも辛いんだども」



若者重視の国づくりを!

2012年05月09日 | 社会 -

私は、仕事をしながら、今、自分の体調管理に神経を遣い、
完全治癒を目指して、病院通いをしている。
自分自身の 「健康的な黄金期(最盛期)」 を思い起こすと、
どうしても 頭から離れないことがある。

この現在の日本の「社会」は、健康な若者が働く場所がなく、
資産もたまらず、モチベーションも 失くしかけている。
頑張って働いても、良いことがあるとは思っていなくて、給料にも
明確に影響が出て、大幅に上がったりすることはないと感じている。
実際、そうであるし・・・、企業が急に大きく成長することはない。

頑張って働いても、それに即したリターンが少ない(or ない )と
思いこんでいるのだ。
決して、そうではないはずなのに・・・。
それに、人生のメリットは「お金」だけでは計れるものではない。

今は、若者どころか・・・その次の世代が・・・
親の年金をあてにして、親と同居している40代層男性も多いらしい。
彼らにとっても、若干の甘えはあるだろうが、「働く場所がない」と
いう理由もあるかもしれないし・・・
経済的自立だけでなくて、「結婚」する環境も得られないというのが、
同居の大きな要因にもなっているようだ。


すでに団塊の世代は、仕事の第一線から引退しつつあるが、
高度経済成長期の恩恵を経験した世代は、「働くこと」の意味と
原動力を手にしてきた世代である。
羨ましい限りだ。
日本の財政問題は、団塊の世代が中心となって解決してもらい、
若者の負担は 最小限にしてほしいものである。

これからの日本を担う若者たちの世代が、「希望」と「夢」を
失ってしまうような社会にしてはならない・・・。





今年は、ロンドンオリンピックだけれども・・・
東京オリンピックで銅メダルを獲得したマラソンランナーの
円谷選手は、次のような言葉を残して、自らの命を絶ってしまった。

 「 幸吉は、疲れ果てて、もう走れません
  お許しください 」

彼もまた、 “未来を担うはずの若者” で、
“明るい将来を生きることができた” はずの アスリートだった。





コンプレックスや過剰反応によって、自分の未来を(勝手に)決め込まず、
また、自分の基準だけによって思い込むことも辞めて、自分の周囲の人と
常にコミュニケーションをはかりながら、常に「夢」を語れる人でいてほしい。
語らずとも、思い描くだけでパワーをもらえるのが、「夢」や「希望」である。

私の世代でも、私の次の世代でも、あるいは、
引退した団塊の世代にも、まだまだ大きなチャンスはあるはずであり、
それは「仕事」だけではなく、同時に、「人生の挑戦」であり、
大きな意味では「自分自身に対して “挑むこと” 」でもあるように思う。

若者と、まだ社会に出てきていない子供たちの未来が、必ず明るいもので
ありますようにと、心から願う・・・。



自律型人間になること

2012年05月08日 | 自分 -

GWの目標を決めて、規則的に過ごしたら、
自然と起床するようになった。

今日もまた、朝陽の美しい姿を見せて頂いた。
曇りの空から、少しだけ姿を見せていて、
その姿をずっと根気強く待っていたら、
全様を見せて下さった。
「なんとまぁ美しいこと!」
携帯とデジカメで、今日も撮影を試みるものの、
なかなかベストショットは難しい・・・。



今日の朝陽を見ながら、感じたことは・・・

自分の中に、「核」となるものがあれば、
他人の意思に引きずられることはない―という
非常にシンプルなこと。
人間として、非常に単純なセオリーである。


不安に付け込んで、意思を操作して 影響を与え、
刷り込みのように 心の作用をコントロールする事件が、
後を絶たないが、それは「自分が確立していない」からで、
ひどく違和感のある(信頼できない)行為だと思う。



最近の思考の基軸となっている「お金」もまた、
納得して金額を話し合うことと、納得して支払うこと、
そして、決して依存しないこと。
どんな時も、「お金」には、綺麗な自分でいたい。


全てにおいて、自分の中で線をひくこと。



人は、自信がないから誰かに相談したくなったりもするし、
恋しいから、友達に(用もないのに)連絡をしたりするが、
その「自分の行為の原点」を大雑把に把握して、
自分が確認していれば、“ぶれることはない”。


昨日も、隣に座った高齢の女性の足もとが心もとなく、
連休明けのためだろうか、(名古屋の息子さんが帰ったばかりで)
一人ぐらしの「自分の境遇」の心配話を私につらつらと話し始めた。

誰とも和やかに接する私が、ふらついた彼女に手を差し出して、
席に座らせて差し上げたのが きっかけだったが・・・・
多くの人が、何かについて 話したがっているのは感じる。
誰かに 話を 聴いてもらいたいのだ。
それは、「不安に感じている日常」についてなのだと思う。
自宅の近くで、濃厚なネットワークが構築できていると
いいのだけれど、なんとも難しいことなのだろうか。
元気な世代が率先して、ボランティアでもいいから、
してあげるといいのに・・・。 
実際は余裕などないのだろうか。



私も、将来は、毅然とした「自律型高齢者」になりたいものだ。

楽しい日々を過ごすためには、やはり「健康」を手にしなければ
何も始まらない。
そんなことを感じながら、朝陽にお願いこと・・・・。


「 私を、生涯にわたって、
  完全無欠ではなくても、
  そこそこの健康な状態で
  いさせてくださいませ・・・」

「 あっ、そうそう・・・
  逝く時は、ぽっくりで、
  お願いいたします・・・・」



「挨拶」 は 社長から・・・

2012年05月07日 | 仕事 -


弊社では、皆が 皆、「挨拶をしない」。

顔をあわせても、しらんぶりで、気分的に快適ではない。

社員同士でも、全く同じだ。

私などは、目線があっているのに、顔を伏せられたりすると、
非常に複雑な感情が芽生える。 
異質な関わりに感じられる。
私は、とりあえず 社会経験があるし、常識観念も持っているし・・・
何より人間的に 一般的な価値観に根差した感情を持っている。
だから、余計に、不可思議な感想を抱いてしまうし、快適ではない。
しかし、社内のメンバーにとっては、挨拶など何の意味もない行為のようだ。

変わっている。

異質な会社の特徴であり、カラ―だと思う。



私が思うに・・・ 「社長は、挨拶をしない人」 だから、
どうしても 皆も挨拶をしないのではないだろうか。

元凶は、「社長の行為(スタイル)」からだと思う。
子供が、親の背中を見て育つように、会社の社員は 社長の行いを見て、
様子をうががいながら、仕事を覚えていく。
特に、他の世界を知らない 新入社員のまま 40過ぎまでになった
弊社一筋の社員などは、「カッコ悪い」ということが、分かっていない。


私は、目の前に立ちふさがって、社長に「おはようございます!」と
大きな声で言ったことがあったが、突然 びっくりしたような顔をして、
小さな声で「おはよう」と言ってくれた。
返しの挨拶はできるんだ・・・・・と、その時は思ったものだ。



挨拶は、人間として、基本的なものである。

挨拶は、社長から始めてほしい。 皆にしてほしい。 声をかけてほしい。

徹底して、社長から、挨拶するようにしてほしい。

おそらく社長に提案しても、子供みたいな返事が返ってくるだろうが・・・
挨拶をするのは、ごくごく普通のことで、相手に対する基本的な礼儀だと、
私は思っている。



本物のリーダーの不在!

2012年05月06日 | 仕事 -

私が、現在、所属している契約会社についての「不満」を
何度となく、このブログにも書いてきた。

現在の私の立場は、「一匹狼」で、便利な反面、
非常に、無機的で、やりがいのないポジションである。

 
数年前から、私が希望し続けている「契約書」を終結してもらえず、
会社からは 事務的なことに関して 逃げられている。
 ※実は誰に対しても 契約書は出さないという噂もある
そのため、私は、仕事の責任も、立場も、口頭だけの契約で、
正式には 書面でもらえていない。
まるで、この連休中に、大問題を起こしたバスの会社のようだ・・・。

私は、信頼できないシステムの会社内で、人一倍の頑張りで
一人の社員の何倍もの利益をあげているが、
勿論、誰からも評価されることもない。
何故なら、「一匹狼」だから・・・。

社員は、私が、何をしているか、なんとなく知っていても、
どれだけの利益を(一人で)あげているのかは知らないだろう。







この連休は、自宅で、病気して(ゆっくりと)休んでみて、
あらためて感じたことがある。

とても、簡潔なことだ・・・。


弊社には、“多彩な若い人材” が 常時 入ってくるが、
皆、“不安定な状態” で 仕事をしている。

そして、会社の特徴として、皆、「挨拶をしない」。

これは、やはり、リーダーに責任があるということだ!
一般的にも、部下が 挨拶しなかったら、その上司は、
「挨拶をしなさい 」 と 指導するべきである。

腰がすわらず、上っ面で仕事をしているようなメンバーが
いたとしたら、「もっと、しっかりと仕事をしなさい!」と
言うべきだと思う。

これらを、明確に言えず、指導できないリーダーは、
本物の「経営者」 や 「トップリーダー」 ではない。

基本的なことができないのは、言語道断!
リーダー失格だと、あらためて確信した。

「弊社の経営者(社長)は、本物のリーダーではない!」

こんな簡潔で、当然のことを、あらためて、
自分の中で、確認した。


気を遣って、自分の中で容認してこなかったことだが、
(あえて触れないように、避けてきたことだが )
一般的に考えても、道理的に考えても、他に逃げ道がない。
私の中で、きちんと受け入れて、ある現実を見つめて、
変わらず、たんたんと、前に進むに限る。
 
私は、しがらみを捨てて、冷静に受け入れるべきだ。
弊社の社長は、「本物のリーダーではない」 ということを―。
この業界で、非常に有名な人材でも、人間としては、そして、
弊社の経営者としては、「本物のリーダーではない 」。



とにかく、明確に、自分の中で、容認した。
私の中では、一歩、前進したことだと言えるだろう。

私が、仕事をもっとやりやすい環境について、努力していくべきだ。
しかし、昨年のように「おバカな社員」を二人もつけられると、
自分の仕事どころではなくなってしまうし、かえって仕事が増えて、
おバカな説明が増えて、ストレスも凄く増えて、微妙な環境となる。



しかし、どんなに大変で、苦労をしても、社長からの一言・・・
「よく頑張ってくれたね 」「大変だったけれど、結果オーライだ 」
なんて言葉があれば、かなり印象も、気分も違うものだが・・・
(本物のリーダーにとっては、ごくごく普通のことだと思うが )
弊社の社長は「本物のリーダーではない」ので、そんなフォローは、
聞いたことなどない。 社長が、人に気を遣うこともない。

私が、毅然と、冷静に、その現実を、認識しなければ・・・ネ!



山は遭難する理由がある

2012年05月06日 | 出来事 -

最近は、「高齢者の山岳初心者」 や 「山ガール」が、
どんどん増えていると聞く。

今回の遭難事故で、多くの貴重な命が、奪われてしまった。
連休中の天気の変化で、何組かの人たちが 遭難したのだ。
軽装登山で、装備不足が原因の一つだということらしい。

季節の変わりめの時期、「山」ほど、怖いものはない。
そういう基本的な知識と経験もなく、最近の登山者は、
有名な山に、突然、登っていくという・・・。
私からしたら、信じられないし、びっくりすることだ。


高校時代、私は山岳部所属だった。
  (当時の先輩には、山岳救助隊にいた人もいる)
四国大会準優勝の元山岳部主将としては、基本の基本を
抑えていないことに対して、非常に怖ろしい想いがする。

何故なら・・・遭難には、必ず 「遭難する理由がある」。
そして、それらの理由は、「必ず回避する方法がある」。


これらの経験や、基本情報は、たび重なる山行経験の中で
培われるものである。
すぐに、有名ブランド山に登らず、近くの山から経験して、
山の天気の変化や、対処の仕方などを徐々に経験していき、
有名山には(経験がついてから) 挑戦することをお勧めしたい。


これは、本当に、大変 おせっかいなことかもしれないが・・・
(遭難した御本人は、どうすることもできないが) 列車事故と同様に・・・
もし山で遭難したら、家族の方の負担する費用は 凄い金額になる。
捜索費用としては、救助隊が出るし、ヘリコプターも出動する。
そういうことを加味したら、趣味として、楽しく自信がついて
「私は岳人だ」と言えるぐらいになってから、壮大な景色を楽しむ
ブランド山に登る方が 賢明だと思う・・・。


言霊に込められた気持ち

2012年05月05日 | 自分 -


この連休は、“言葉をしゃべれない” というリスクがあるため、
私の心の奥に潜む 「事実」 「希望」 を 引っ張り出して、
実際、紙に書きながら、そこに “自分の念” を 入れ込んだ。

普通の便箋を使ったが、10枚以上になった。
「産まれてからの私」を、全て知る田舎の人(親戚ではない他人)に
これを郵送することにした。
全くの他人なのに、私の手紙を 全部 保管してくださっている人だ。


   


そして、小学校から高校まで、一緒に、青春時代を過ごしてくれた友人3人に
別の想いを書き記して、これも(彼ら3人に)郵送することにする。

「今」「現在」の私の気持ち・裸の心を、書き記したモノだから、
あまり多くの人には 読んでもらいたくはないが・・・
未来へ向かう私が 何をすることになるのか、何を目指して進むのか、
おそらくこの手紙には その雰囲気が 読み取れるかもしれない。

少なくとも、私が感じている最低限度の素直な「人生観」は記している。


  


今の私は、とてもシンプル・・・・。
ずっと、ずっと、私が憧れてきた気分、心根に近くなってきている。
執着してきたモノや、大事に思っていたモノなどに固執していた頃、
こんな気持ち(心の状態)になるとは、全く思っていなかった・・・。


どうか、「今の私」を 受け止めてほしい。
書き留められた言葉には、「今」「現在」の私の “そういう想い” が、
込められていると思うから・・・。

もしかしたら、来年の私は、また違った私かもしれない。
だから、ある意味で 貴重な 「今の私」を 受け止めてほしい。

受け入れてくれなくてもかまわない。
ただ、受け止めてくれるだけでいい。

理解してくれなくてもかまわない。
受け止めてくれるだけでいいんだ。


気持ちのよい「ご快晴」

2012年05月05日 | 出来事 -

皆さん、身体の具合がとてもよくなっています。
ご心配をいただきまして、すみませんでした。
そして、ありがとう。

今日は、「快晴」。
天気予報通りです。
 
今から外に出られる人は、見て下さい。
とても綺麗な朝陽です。

気持ちの良い朝の空気と、綺麗な色の朝陽が
勇気づけてくれますね。



今日は、思い存分に、遊んでください。

  
     ※混雑を極めた原宿 「竹下通り」


ちっちくん、心配していたけれど、お天気ですョ。
素敵な結婚式になりますように。
今日、無事に終わることを、お祈りしていますから・・・。
特別な日です。楽しんでくださいネ。



私は、小刻みな睡眠しかとれていませんが、
時間は充分です。
比較価値論ではありませんが、元気になっているのを
確実に感じています。


私自身も、日本全国の皆さんも、
今日も一日、素晴らしい「時間(とき)」を
過ごせますように・・・・。


病気をして 「学んだこと」

2012年05月04日 | 自分 -


※看護婦さんがお上手で、私の両腕はアオタンだらけ~~!


春からずっと、私が苦しめられたのは、「気管支喘息」。
医院から専門クリニックへわたり、最終的には専門医にかかった。
病院と医師を変えながら、その都度に、必ず弊害を伴いながら、
どうにか 頑張ってきたということだ。 (今も、闘争中!)

私の場合は、かなり こじらせてしまったようだ。
最初は「咳喘息」と言われ、今は「気管支喘息」と言われている。


初期症状であれば、安静にしていれば3日で回復するような病気でも、
私は・・・日々過密なスケジュールのうえ、緊張したメンタル状態で、
「語ること」を辞めるわけにはいかない環境(仕事)が 続いていた。
だから、安易には 治癒しなかったし・・・、(正直なことを言えば)
医師の判断に起因している部分も多々あることは否めない。
どの時期に、どのような治療をしていくのか・・・患者にとっては、
特徴があったり、苦手な薬があったりするので、そういう判断が、
的確にできる医師に巡り合った時、患者は最短時間で治癒にいたる。
私は、そういうベターなケースには、ならなかった。
いつも最悪の方向へ現実がめぐっていき、そのたびに苦しみを伴った。


タイムリーな時期に、的確な判断をして、治療して頂いてこその・・・
「完全治癒なのだ」と思う。
そういう意味では、私は、全ての経緯において、多くの回り道をした。

     


呼吸器科の専門医にかかったのは、ギリギリの状態だった。

しかし「専門医と言っても、ピンからキリまでいる」と感じている。

  
日々、「咳」 に苦しみ、苦痛に耐え、夜も寝られない状態で、
その上、食べた物を戻したり、お腹を信じられないぐらい下したり、
あらゆる現象と闘いながらの治療期間だった。
先生いわく、「かなり、こじらせてしまいましたね」ということだ。
その頃、「咳」 による身体の筋肉痛も、ひどくなっていた。
当然、夜も寝られないし、日中も耐えがたい現実ばかりだった・・・。

錠剤で治癒するどころか、副作用に苦しめられ続けて、かえって
体力を消耗していった私は、最終的には、毎日「点滴」に薬剤を投入して、
短期で治してしまうという・・・・本来であれば、やらない方法で、
緊張限りない日々を 乗り切ったのだ。
あの頃、毎日が、努力のかたまりと、ギャンブルのような感じだった。

     


この期間に経験したことで、あらためて感じたことは・・・・
「心身共に、健康状態を維持することの大切さ」である。

一人で暮らしている “寂しさ” は 全く感じなかったし、
傍に誰もいない “心細さ” も 何も感じなかった。
当然、孤独死するような “不安” も感じなかったけれど、
私が一番嫌いで、苦手なものと日々対峙しなければならなかった。
それは、「苦痛」 である。

深夜の「咳」が ひどくなると、お隣さんも気にならなくなるが・・・
どこまで耐えられるかという時間との戦い(深夜の判断)や、
痛みによって派生する、あらゆるものに対する不快感と嫌悪感だった。
これらは、かなり明確な感情だったと、今更ながら 思い返す。
私の場合は、咳の苦しみだけではなく、胃痛や、お腹の膨張感、
頻度の凄い下痢など、内臓の異変にまで及んでいた。


私よりも酷い喘息患者は、呼吸することの困難さに苦しみ、
呼吸できなくなる恐怖と、日々、闘っているということだった。
昔の喘息患者は、その苦しみに耐えられず、屋上から飛び降りた人も
いたと、そんな過去話を医師から聞いた。
しかし、今や、呼吸器系の病気は、「負ける」だけではなくなった。
そのことは、希望そのものだという・・・。

私は、アレルギー系の気管支喘息だから、一定の時期がきて、
治療がうまくいけば、完全に落ち着いてくる病気である。
しかし、呼吸器系というのは、肺が中心の悪性腫瘍などが多く、
確率などからいうと、これまでは「負ける」ことが多かったのだろう。
患者が治癒して、病院を元気に退院しなければ、医師としては
心残りな結果になるのだろう・・・と思う。

  ※医師の言葉を、そのまま引用して「負ける」と書いているが、
   私自身には、この言葉は適切ではないという想いがあり、
   書きながらも違和感がある。



    


今回の病気により経験したことで気がついたのは、
私にとっての 「苦痛」 や 「痛み」 のような感覚は、
絶対的なものなのだーということだ・・・。

それは、生涯、はじめて経験した “発見” で、
予想はしていたものの、「やっぱりなぁ」という結論に至った。
若い頃には、しみじみと思い至ることもなかったことだ。

「息が絶えること」よりも さらに 怖いと 感じていることが、
身体的な 「苦痛」 や、耐えられない 「痛み」 なのだと思い知った。

私は、「死」を迎えることは 全く恐いとは思わない。
誰もが通る道だと感じているし、そのこと自体は崇高な瞬間だと
いう印象も持っている。しかし・・・その際に・・・・
痛みに耐えるのも嫌だし、その痛みがずっと続くのも嫌なことだ。



今回の病気の件を思い返してみると・・・
基礎体力があって、過重労働をしていなくて免疫力があったら、
こんなに酷くなることはなかっただろう。

しかし、だからこそ、日々の健康を過信していた私に、
あらためて「自分の身体の声を聴いてあげる作業」を思い出させ、
無理をしないスケジュールと、生き方に返還していく決心 を
呼び覚ましてくれたようだ。


何の楽しみもなく、働くだけの日々は・・・
私自身の心の豊かさを追求する欲望さえも、削ってしまっていた。
私の人生の中に、私自身が存在しなければ・・・
切ないだけであるし、私自身が満足していなければ、哀しいだけだ。




 

春うららかな時期、
父の「命日」が近づいていた頃に、
このようにして、厳しい初体験の病気にかかってみて、
たくさんのことを感じさせてもらった。

その大いなる気づきを基に、私のこれからの人生を、少しずつ
豊かなものとするように、努力していきたいと感じた。

具体的に 何をするかということは、まだ未定なれど・・・
時間を費やして、いろいろな選択肢を考えていきたいと思っている。


とにかく、「自分を大切にしていなかったこと」 や、
「自分の健康を過信していたこと」 ・・・・・そして、
「無理な日々に目をつむって、何の努力もしなかったこと」 は・・・
大いなる反省点だと、深く感じた。
自分で、自分の人生を (無関心なように) 放置していたのだ。

これらは、重要な収穫だと思っている。



GW中の記録的 「大雨」

2012年05月03日 | 環境 -

今日は、GWに水をさすように、観測史上最高の「大雨」が
降った一日となった。

特に関東地方は、ものすごい大雨が、未明から降り続き、
とんでもない雨量になったようだ。

去年、今年と・・・どんどん「予想できないこと」が、
あるいは記録が塗り替えられるような出来事が発生している。

地球のどこかに、大きな変化が、微妙な状態で存在して、
人類である私たちは、まだ気がついていないだけ・・・
そんな空想をしたりするぐらい・・・日々のニュースは、
驚くことが多い。
また、不慮の事故が、重ねて起こっている。
心がすさむ現実が続いているのだ。
一時、落ち着いていた人身事故も、少しずつ増えてきている。


今日は、避難勧告を受けて、土砂崩れがひどかったりして、
ある地域の人々は、まるで貴重な連休にもかかわらず、
遊びや休みの喜びとはかけ離れた「洗礼」を受けている。
宮城・福島などの東北地方には、土砂災害の警報も出て、
これから注意を呼び掛けられている。


今年は、「浮かれてはいけないよ」「少しは考えて!」と
言われているような印象がする。
連休の後半は、「ちゃんと考えてくれた?」「じゃあ、ね、
お天気も回復してあげようね」・・・って!


この夏も、何か、信じられないようなことが起こりそうだが、
それ相当のことがあっても、キモがすわってきたのが都会人。
首都直下地震の情報や、東電の問題、東北の復興問題から、
政治の世界のトラブルまで・・・・
日々の“あらゆるニュース”に、驚きは隠せない。


昨年と、今年・・・・
いろいろなことが、私の周囲でもありすぎて・・・、地球からの
メッセージも、少しは受け取れる状況にある。
そんな精神状態に、なりつつあるということだ。



でも、本当に、いろいろな人が存在するこの国には・・・
共有できることは限られてくる。
そういう時の私自身の気持ちのコントロールの仕方を覚えないと、
ストレスがたまる一方だ。

賢明な生き方を模索して、自分らしい選択をしたい。
そんな気分と、向き合いながら、今日一日の振り返りをしている。



肩コリマッサージの 「快感」

2012年05月03日 | 雑感 -

今日は、GWなのに、全国的に「大雨」。
パンツの裾が冷たかったが、それでもめげない私!

私の身体が「疲れたよぉ~」と叫んでいる昨今だから、
父の介護を始める前以来なので、すっごく久しぶりに・・・・
マッサージに飛び込んだ。

友人から「鍼灸がきく」とは聞いていたが、
信頼する医院がみつからないし・・・
鍼灸と整体は、施行師次第では、マインドも掴まれてしまうので、
慎重にならざるをえない。
手軽なマッサージから、まずは始めて「メンテナンスの開始」だ。


●結論・・・思った以上に、満足した!

      「気持ちが良い」
      「快感!」
      「うう~」と、つい、声が・・・。

長年にわたる身体のコリと、ハリが、徐々に、もみほぐされていくようだ。
“痛気持ちいい” というか・・・、問題の場所(ツボ)に手がいくと
本当に「うぁうぅ~」とか、「はぁ~」とか、自然と声が漏れてしまう・・・。

実際、すごいと思ったのは、咳をしながらマッサージを受けていたのに、
1時間後には 咳が全く止まっていたこと!


初回にお願いした人は、すごいお上手な人で、非常に知識もあって、
いろいろな経験からくる “指が感じたまま” を披露してくれたが・・・
私の身体は、かなり疲れがたまっていて、コリコリみたいである。

知識が豊富なので、私のコリがたまっている部分や、はっている状態について
話している内に、自然と・・・ある想いが芽生えてきた。
疲れている私の身体を、今だけでも癒してあげたくなったのだ。

これからは、定期的に、一週間に最低1回は、「1時間コース」を
受けるように、通っていきたいと思っている。

不思議なことに、身体が「気持ちがいい」と感じて満足していたら、
実は・・・私の心も「行ってよかった」と充実していた。

これからしばらくは・・・私の身体のメンテナンス:初期編である。


映画界の「環境の変遷」

2012年05月01日 | 社会 -


子供の頃(親が帰宅するまでの間) TVでヒッチコック等の巨匠作品を観ては
「映画の世界」 におぼれていた私は、誰よりも「映画」が大好きだった。
異次元の旅をしているような空想の世界に、連れて行ってくれたからだ。


20代から30代になる頃の時代は、飽きれるほど、寝る間を惜しんで
映画を見たし、「映画の歴史」を学ぶように、古い名作映画を観たりした。


そんな私が、今・・・、心から感じているのは「映画業界の衰退」である。

アメリカ・ハリウッドも、日本の邦画業界も、海外も・・・。

映画人の才能が枯渇し、傑作&名作が出てこない。
切なく、哀しい現実だ。
人々は、映画館から離れ、「映画を観る楽しみ」の質が、完全に変わった!




米アカデミー賞の授賞式で有名なハリウッドのコダック・シアターで、
来年、授賞式が開催されるだろうか。 もし、行われたとしても、
明らかに「コダック」という名前は消え去っていく・・・。
これは、時代の流れというものだ。


最近のアカデミー賞やハリウッド映画についても、ある危惧というか・・・
オリジナリティが少なくなって、リメイクが多くなり、斬新な作品はなく、
往年の輝かしい栄光と才能は、探しても 見つからなくなってきた・・・。
映画の文化というものが、衰退しているとしか思えない。

特に、この10年は、昔、心がうきうきしたような作品に出会えなくなり、
最後まで観てから、また翌日もロードショーへ行くという事実は皆無だ。

おそらく、オリジナルのスクリプト(脚本)を書ける人間が少なくなり、
制作サイドが安易な作り方をしている証拠だと言えるのではないだろうか。


アカデミー賞では、審査員一人一人の “質の低下” も著しいかもしれない。
投票するアカデミー会員は、監督、俳優ら約5700人のハリウッド関係者だが、
(少し前ならば)選ばれるはずがなかった作品がオスカーを手にしている。
もちろん、昔も「えぇ~、何故この作品が・・・」 ということは あった。
そういう時は、会社の力関係か、ロビー活動か、と思ったものだが・・・。


私の大好きなメッセージ色の強い作品や、感動的な作品、人生に問いかける
ような作品よりも、ただ「楽しく、娯楽的な作品」が、最近は多く好まれている。
鑑賞する人(大衆)が、そういう映画を選ぶということであるならば・・・・
映画の位置が変わり、映画に求めるものが変わったということなのだと思う。
あらゆるツールが増えた昨今、「映画」の役割にさえ影響を与えているのだ。
それは、時代の変遷というか・・・至極、当然の流れのように感じる。


日本でも、全くそうで・・・・
映画製作の出発点は、「お客様が入るかどうか」・・・という短絡的な発想だ。
最低興行成績をクリアするかどうかが起点なので、映画の内容などは、その次だ。
だから、知名度の高いテレビ作品の延長線上だったり、若い二人の恋物語や、
売れたマンガや アニメ世界の実写版が ほとんどである。

年代を考えても、日本アカデミー賞の審査員もマンガ世代が多くなったのだと思うし、
実際にも、「マンガ」や「アニメ」は(今や)欠かせない日本文化になってしまったから、
当然と言えば 「当然の流れ」 かもしれないけれども、もともと 映画界に いたはずの
“映画をつくろうとする気骨ある映画人” は、どこへ行ってしまったのだろうと、
心から思う。 最初から、信念を持った映画人が、いなかったはずではないだろう。



韓国との合作では、時として、過激で、心地悪くなる映像(戦争映画)が多いし・・・
そんなに無理して、海外と合作する必要があるだろうかーと思うぐらい、
日本の文化背景を描いた映画が少なくなった。
単なる資金の問題であるならば、日韓合作品の映画のテーマが、“韓国統合”の
戦争映画などは やめてほしいものだ。



実際、子供じみた演出も増えてきた。
それが、特徴だと感じたニューフェースとしての新人映画監督が、中堅になっても
同じテイストで映画をつくっている。 成長がない・・・とは言いたくないが・・・。
面白ければいいけれど、ただ笑えるだけの映画は、退屈なストーリーだったと言うしかない。
自分の中に、残るものが、何も ないからだ。
せめて背景には、(少しだけ)深いものや、考えさせてくれるテーマを 潜ませてほしい。
裏テーマでいいから・・・。 多くは望んでいない。

家族映画の場合は、皆で感想を話し合い、より良き「日本文化」や「風習」について
あるいは「家族の在り方」「絆」について語り合える機会を、是非ともつくってほしい。
映画は、テレビと違って、“放送しっぱなし”の内容ではないし、鑑賞料金も高いので、
ちゃんと家族全員で コミュニケーションが はかれる機会にしてほしいと思う。
そして制作側は、そういう内容の映画をつくってほしいものだ。
幼い子供にとっては、そういう何気ないことが「思い出」になったりするのだ。



昔から 「 映画は 時代を映す鏡だ 」と、言われる。
名作映画の枯渇は、世界に共通する事実である。
そして、それらは、今、世界を覆っている閉塞感と無縁ではない。
経済的な背景もあるだろうが、何よりもシリアスなのは、それを制作している人々の・・・
心の問題だと思う。

製作費のかかる映画だからこそ、興行的に伸びなやむ映画であるならば・・・
最初から制作しない方がよいと思うのだけれど、それは映画会社が許さないのだろうなぁ。
でも、企画書を読めば、予想できるはずなのに・・・。
昨今の映画会社の決定権を持っている幹部の皆さんは、世代が違いすぎるか・・・
あるいは、若い人でも・・・眼力というか、洞察力が乏しいのかもしれないと感じたりする。
昔の道理や 過去の実績で 判断しても、無理なのだ ということに、早く気がつくべきだ。
観客の期待する内容の「先」を予測して、先行してもらわないと、真の期待には応えられない。
時代は、恐るべき速さで、流れていることを・・・。
人々は、限りなく、斬新で、新しい世界観を求めていることを・・・。


ある有名な経済人(実業家)が、自信たっぷりで、こう発言した。
「映画産業などは、衰退の限りだ。そういうものにしがみついていること自体、
 成果を求める実業家としては 欠落部分を認めざるを得ない。
 やはり、新しい視点での取り組みが必要になってくる」・・・・と。
正直、このままでは、美しいシネコンをつくっても、ソフトが充実していなければ、
どうしようもないと思ってしまう。
わざわざ足を運ぶ価値観には、もうひとつ魅力にかけるからだ。
まるで、平積みの新刊本が、たった二週間で処理されるかのごとくで・・・ある。



切ない時代に、さしかかってきたと感じる。
そう思いながら、私自身は、相も変わらず、また「映画」を観るつもりだ。
ガラガラの映画館の片隅で・・・。
(劇場の真ん中に、映画鑑賞のマナーもわからない若人たちが固まっているシネコンで!)

おそらく、「ダサク」とか、「何なの?映画」が多いのだろうと予想しながら・・・(笑)。
それもまた、笑い話の一つとしては、面白い経験の一つである。