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「倭の五王」の謎

2016-09-03 17:31:02 | メモ帳

邪馬台国はどこにあったか、という命題は江戸時代から議論されてきたが、いまだに決着がついていない。私自身は九州北部のどこかだと思っているが、それは研究結果に基づいてのことではなく、安本美典氏(九州説)が主宰する「邪馬台国の会」に出席して、毎月安本氏の知見に接しているために、知らず知らずのうちに感化されてのことである。

畿内説を唱える人々はそれなりに根拠があるわけだし、以前沖縄説を読んだ時も、四国説を読んだ時も、それなりに「なるほど」と感じた。「邪馬台国はどこにあったか」という命題は、今後とんでもない遺跡が発見されるというような事態がおきないと決着はつかないだろう。

邪馬台国と並んでの古代史の謎は、「日本書紀と古事記の記述には嘘がないのか」という命題である。ヤマト朝廷がたとえ万世一系だったとしても、最初から全国的統一政権だったのではないから、記紀は当時各地に並列的に存在した勢力の事跡をヤマト政権の事跡だったかのごとくにつなぎ合せたのではないか。

誰しも同じ疑問を持つらしく、その一つが故古田武彦の九州王朝説だが、最近読んだ「ほんとうにあった邪馬臺国」(多禰隼人著 2016年4月、万来舎発行)の中の「倭の五王」に関する部分も、同じ視点に立っている。

「倭の五王」とは,言うまでもなく、中国古代の宋書に記された讃・珍・済・興・武のこと。宋書には、5世紀にこれら倭国五人の王が朝貢したという記述があるが、記紀にはそれに該当する記述がなく、古来数多の歴史家がどの天皇なのか比定を試みてきたが、年代や続柄などがすべてしっくり収まる説がない。

著者の多禰隼人氏は、「これら5人の王はヤマト朝廷の天皇ではなく、吉備(岡山周辺)に存在した政権の王だった。それぞれ名前が一字で朝鮮系なのは加羅および新羅の国の王の末裔だからだ」という。

そして、讃の陵は岡山市の造山古墳(規模全国四位、被葬者不明)、珍の陵は岡山県惣社市の作山古墳(全国九位、被葬者不明)、済の陵は大阪府堺市の百舌鳥古墳群の内のミサンザイ古墳(全国三位、現在履中天皇陵と治定されている)、興の陵は同じく百舌鳥古墳群の内の大仙稜古墳(全国一位、現在仁徳天皇陵と治定されている)、武の陵は同じく百舌鳥古墳群の内のニサンザイ古墳(全国八位、被葬者不明)であると推測する。

古事記の仁徳天皇の項に「御陵は毛受(もず)の耳原にあり」という記述があるが、多禰氏は「日本一の前方後円墳が飛鳥の王の墳墓でなかったら、記紀は成立しない」として、古事記の記述は歪曲されていると断じている。確かに、仁徳・反正・履中の三天皇の陵に関して、考古学の見地からその治定に疑問があるらしい。

熊本県の江田船山古墳から出土した太刀に「獲加多支鹵大王」(わかたける大王)と刻まれている問題に関しては、学説ではこの大王を雄略天皇に比定しているが、多禰氏はこの「獲加多支鹵大王」とは、その字の通り、若武大王であり倭の五王の「武」であると主張する。

また、ヤマト朝廷よりも権力があった豪族が存在した根拠として、多禰氏は古事記にある二つの記述を指摘している。

(1)  雄略天皇が同じ装束をした葛城の王に出会って「恐れ畏み」奉った。

(2)  雄略天皇が河内に行幸したとき、天皇の御舎に使われるのと同じ鰹木を使った家を見て「だれの家か」と問うたら、それは志幾(しき)の大県主の家だった。

多禰説が正しいかどうかはともかく、だれも多禰説をまったく否定するだけの根拠を提示できないだろう。古代史の謎は謎のままである方がロマンがある。