黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

小俣・笛吹坂の恵性院

2020-03-29 21:21:36 | 下野国

夕方、ほとんど雪が上がりました

積もっていた雪もだいぶ溶けました

ひめちゃんは小次郎パパと、諏訪神社の方にお散歩です。

右上の桜の木が見えるところが、諏訪神社です。

諏訪神社、三の鳥居からの風景です。

花散らしの雪にはならなかったようです

誰か通ったのかな?

ひめちゃん、赤い椿似合うよ

 

 

新着記事です

『桐生老談記』では、天正11年(1583)、上野国膳の城主・膳備中守は、小俣城攻撃の中で大手を担当し、笛吹坂で討ち死にしたことになってます

一般的には、元亀3年(1572)搦手の暗闇沢(くらみざわ)で討ち死したといいます。

小俣の笛吹坂って、何処だろう?

いろいろ検索すると、鶏足寺の南の方に、笛吹山恵性院(ふえふきざんえしょういん)があります。

鶏足寺に行くときに通ってます

お使いついでに、ちょっと確認して来ましょう

 

3月22日、渡良瀬川を渡り桐生川を渡り、恵性院の駐車場に到着です。

ちょうどお彼岸の最中で、お墓参りの人がたくさんいます。

広大な墓地を有する、大きなお寺のようです。

 

鐘楼堂の隣に、水子地蔵尊です。

霊場ご本尊のはずです。

本堂です。

笛吹山の山号があります。

 

さて、御朱印をいただきましょう。

庫裏を尋ねると、「御朱印はやめちゃったんですよ。」

「ええ

「あの、では有名な石造の碑は、何処ですか?」

「ああ、稚児の碑(ちごのひ)ですね。坂を登っていくと、道が2つに分かれます。左に行くと、覆屋の中にあります。」

「ありがとうございます。それから、三つ葉ツツジは、咲いていますか?」

「さあ、確認していません。」

「今年は早そうなので、車を置かせて頂いて、確認にいってみますけど。」

 

とりあえず、本堂の東の坂を登ります。

かなり広大な墓地です。

分かれ道に来ました。

左に行けと言われましたけど、右に赤い大きな覆屋のようなのがあります。

ちょっと行ってみました。

やっぱり違いました。

中には、二十二夜塔でした。

それにしても、たくさんの五輪塔です

来た道を引き返すしか、分かれ道には行けません。

汗を掻きつつやっと戻り、左の道を辿ります。

 

ありました

確かに文字がありますけど、写真では判読不能です。

 

いろいろ検索した結果のお話です。

昔、足利の鶏足寺の末寺明月院に「信光」という修行僧がいました。京都から明月院に預けられていた彼は、毎晩故郷の家族を思い出して笛を吹いていました。彼の美しい笛の音は、明月院の近くに住む豪族の娘「菊江姫」の心を捕らえ、彼女も笛の音に合わせて琴をひくようになりました。やがて二人は逢瀬を重ねるようになりましたけど、許されることではありませんでした。二人は強引に引き離され、信光は重病にかかり死んでしまいました。その後、二人が逢瀬を重ねた坂を笛吹坂と呼ぶようになりました。

 

近くに、笛吹童子供養塔とあり、御詠歌もあります。

稚児の碑には、たぶんそのようなお話が刻んであるのでしょう。

稚児の碑の隣は、法印尊光の墓です。

仏手山の末寺明月院の主で、延文5年(1360)に「稚児の碑」を建てた人です

 

西の方には、桐生の町が見えます

この辺りが、笛吹坂なのですね

 

 

 

 

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奥州紀行総集編 9(多賀城紀行・壺のいしぶみ)

2020-03-29 13:50:40 | 奥州紀行

天気予報通り、雪の朝です

3月29日に、ひめちゃんたちは雪の中のお散歩です

ひめちゃんの本当の名前は、衣通姫(そとおりひめ)です

衣通姫は伝説の絶世の美女で、衣からもその美しきパワーがあふれ出ていたとか?

そんなわけで、ひめちゃんちには「そとおりひめ」の名を持つ椿と桜があります。

 

「椿そとおりひめ」は、コロンとしたかわいいいピンクの花です

雪をかぶった桜「そとおりひめ」です。

なかなか風情があります。

ちょっとそこまで、ちい散歩に出た七海ママも、初冠雪です。

ハイシニアのママは、ふきふきしてもらって、今日は朝から室内犬です

 

 

(2018年6月21日)

仙台3日目は晴れました

予定通り、多賀城に行きます

壺のいしぶみ(多賀城碑)や多賀城跡を訪れたいので、東北本線国府多賀城駅を目指します。

 

国府多賀城駅で、博物館とは反対側に出ます。

多賀城のミニチュア南大門があります。

去年は、駅前のこの道をまーすぐ行ってから左折しました。

今年はここを左に行って、館前遺跡を通って壺のいしぶみの方に行きます。

都から赴任した国司の館跡だそうです。

 

あやめ園を通って、東から壺のいしぶみ(多賀城碑)をめざします。

今年は、あやめが咲いていました

去年は7月だったので、何処があやめ園?という感じでした。

でも、余計なことですけど、あやめではなく、花菖蒲ですね。

ゆっくり鑑賞するのはかえりにして、坂をのぼります

 

説明板がありました

多賀城碑の文言の説明もあります

「前半は京(平城京)からの距離、後半は神亀元年(724)大野朝臣東人(おおのあそんあずまひと)が多賀城を設置したこと、天平宝字6年(762)藤原恵美朝臣朝獦(ふじわらのえみのあそんあさかり)が多賀城を修造したことが記されている」と、ありいます。

 

多賀城は京(平城京)から一千五百余里ということは、802、500m(802km)

蝦夷の国境から64,200m(64km)

常陸の国境から220,420m(220km)

下野の国境から146,590m(146km)

靺鞨(まっかつ)から1,605,000m(1605km)

 

下野国境から約150kmということは、上野からは200kmくらいでしょうか?

上野から兵士として移民として、より自然の厳しい陸奥多賀城に行っていたんですね

靺鞨(まっかつ)からは、1605km、都からの距離の2倍です

靺鞨は、中国隋唐の時代に沿海州(朝鮮半島の付け根)にあった国です。

どうして靺鞨からの距離が記されているのでしょう?

交流があったと言うことでしょうけど、日本海の荒波を乗り越えて陸奥にやって来ていたのでしょうか?

 

覆屋の中に壺のいしぶみが見えます

「西」ははっきり見えます。

文字があるのはわかりますけど、はっきり読み取れません

多胡碑(たごのひ・群馬県高崎市)とともに、日本三古碑だということです。

 

昨年より説明板が増えているかな?

あやめ祭りの関係からか、草もきれいに刈ってあります。

 

南大門跡があります。

平安京だと、都大路の入り口朱雀門(すざくもん)にあたるそうです。

左上の多賀城全景拡大図です。

ここにメインストリートがあって、二階建ての朱雀門のような門があったのです

偉大なる多賀城の南大門、我が意に反して多賀城にやって来た上野の民はどう感じたでしょうか?

将来この絵の姿に再建する計画があると書いてあります。

再建されたら、遠い昔上野から来た人々に思いを馳せながらくぐりまーす

 

 

 

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