タバサねーちゃんの古い画像を探していたら、2008年の幼い画像があります。
ということは、タバサねーちゃんは、12歳になったのです。
生まれた年の夏、2ヶ月くらいのタバサねーちゃんです。
タバサの一緒に生まれたきょうだいは、小太郎とねねです。
ねねは不慮の事故で逝ってしまいました
弟か妹を是非ほしいということで、ひめちゃんたちが生まれてきました。
小太郎、元気かな
タバサねーちゃんは、先日、久々にお出掛けしました
村内の桃井塚(ももいづか)です。
昔行った時は、草だらけだったと思いますけど、草刈りしてあるとの情報があったのです。
久しぶりのお出掛けです
確かに草刈りしてあります
むむ、見たことないものがある
あったっけ?
裏にいっぱい文字があります
桃井塚
桃井次郎存命ノ時家臣遺言我何国討死スルトモ遺骨ハ北山善昌之洞可納云 此故山下葬石塔有
平成元年 文化財保護協会新川支部建立
文化財保護協会って?
出典は、善昌寺の応仁記ですって
桃井次郎が生前に家臣に遺言したんですね。
「討ち死にしたら遺骨は北山の善昌寺の洞穴に納めよ。だから山下に葬むり石塔があるのだ。」
辞世の歌かな?
桃の井の花と水とを北山の寺に手向けて無為に至らん
説明板もあります。
「桃井次郎尚常が、新田義貞の首を持って、新川善昌寺の船田入道善昌に渡し、ここで腹を切った」ということですね
新田生まれのひめちゃんちのおかあさんには、理解できない話です。
でも、新里の人は普通に、「新田義貞は善昌寺にいかってんだ(埋葬されているんだ)」と言います。
これが、その腹切り石ですって
古墳の石に見えます
あたちには、つまらないわ
灯籠があります
桃井宮?
桐生市HPによると「文政7年(1824)、二ノ宮村(前橋市二宮町)小松屋庸助」と刻まれているとあります。
お宮があったと言うことになります。
あたち、興味湧かないわ
奥に墓石があります。
ここは、本来は古墳でその後、墓地になったのかも知れません。
石は再利用して。
この桃井塚については、『上野国志』に記述がありません
善昌寺の「応仁記」についても、記述がありません
世良田の毛呂権蔵(もろごんぞう)は、上野の史跡や神社仏閣を訪ね歩いて、安永3年(1774)に、『上野国志』を著しました。
山上の常広寺にもやって来て、竜骨と対面し「竜骨伝記」を写していきました
だから、焼けてしまっても復元ができたのです
善昌寺については、常広寺よりずっと少ない量の記録です。
そして、
新川村にあり。天台宗長楽寺の末寺なり。太平山妙珠院と云。俗に義貞の家老船田入道善昌が建つと云。明拠なし。~(中略)~寺僧の云へるは船田入道、此処に隠居せり、即ここに死去せしと。然れども太平記に船田入道は、建武二年正月十六日、京都の戦に細川卿律師定禅が為に討る。此処に依って見れば無稽の語なり。
「船田善昌が隠居していたはずはない。」と言います。
実は、毛呂権蔵は世良田の、船田善昌館跡に住んでいたのです
いまでも、毛呂邸には、船田善昌館跡のポールが立ってます
新田ロマンかな、桃井ロマンかな?
タバちゃん、またお出掛けしようね