ひめちゃんは小次郎パパと、堀之内を西に出ました。
諏訪神社の向こうに行こうとしましたけど、ひめちゃんは用心しています
黄色い帽子の集団の通過時間より、少し早いはずですけど。
南に下り、字天神(あざてんじん)の田んぼを廻ります。
パパも14歳半です。
ちょっと背中が曲がったかな?
庚申塚古墳を通って帰ります。
ここの双体道祖神が、地図上には塚越の道祖神として表示される事があります。
あれ、ひめちゃんのシッポの向こうのちっちゃい方は、馬頭観音でしょうか?
振り返ると、古墳の麓にも頂上にも、石造物があります。
これらの石は、どこから持ってきたのでしょう?
もしかして、ここにあった?
古墳の石の再利用の疑惑を感じます
そうすると、この古墳はもっと大きかったはずですね
上野国山上に住んでいた行仙上人の編集したという『念仏往生伝』に、大胡小四郎秀村があります。
大胡は、時にはお買い物に行きます。
大胡太郎の墓石と言われるものが、長善寺にあります。
大胡小四郎秀村は、大胡太郎の子孫と書かれています。
大胡小四郎秀村のご先祖様の墓石ということになりそうです。
これは、是非確認しなくては
長善寺の北側に駐車場がありました。
墓地を抜けて歩くと、まもなく見つかりました
大きいですね
む、おじさん邪魔
でも、大胡太郎の墓石といわれるものは、おじさんとたけくらべです。
斜め後ろからも、やわらかい曲線美です。
説明板を確認しましょう。
塔身の中央に梵字が2つ刻まれている。向かって右が阿弥陀如来、左に地蔵菩薩の種子があり、その左側から「貞和三年三月廿二日」と銘文が刻まれている。
貞和三年(1347)は、南北朝時代です。
もう鎌倉時代は終わってます。
大胡太郎の墓石としては、時代がちょっとあわないようです。
別の資料によれば、長善寺は「大胡太郎が開基。中世赤城南麓の滝窪町白草の地に創建された。弘治・永禄の頃(1555~1569)現在地に移されたという」とあります。
赤城南麓の国道353号線の辺りでしょうか?
少し離れています。
説明板だと、その移転の時に運んだとあります。
でも、こんなに大きく重いものを運ぶのは大変です。
移転の時期は戦国時代まっただ中。
移転してきたのはお寺だけで、もともとここにあったと考える方が自然な気がします。
大胡小四郎秀村は、正元元年(1259)年に42歳で往生しています。
彼は、大胡太郎の子孫と書かれてあります。
中世大胡で活躍した大胡氏の墓石であるようですけど、大胡太郎の墓石というにはちょっとどうかな?
でも、どっしりとした優しいラインの石造物で、大胡太郎の墓石という言葉が似合います
さて、山門から入りなおして、参拝です
どっしりシンプルな門です。
本堂もシンプルな感じです。
右側に、鐘楼堂があります。
かわいいお地蔵さまたちです。
どこかで、会ったことがあるような気もしますけど
左手には、水子地蔵の隣が気になります。
何様かな?
線香立て付きの石殿です
どこかで会ったことがある羅漢さんもいます。
本堂の左に、観音堂です。
向拝の柱に龍のおじさんがいます。
おじさんという感じです。
現代的な龍です
十一面観音はこちらかな?
こんにちは
合掌
本堂をちょっと覗いたあと、庫裏に寄って御朱印をいただきます。
本堂前の手水舎、凝ってます
カエルがいっぱいいます。
無事カエル
これから、大胡氏館跡といわれる養林寺を尋ねます