真っ白な朝でした。
何もかも凍っているという感じです
ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。
獅子くん、「凍てつく大地を踏みしめて」です。
赤城の地蔵岳は、降ってますね。
週末には、突き当たり左のミニカーのサーキット場目指して、他県ナンバーの車が行きます。
ひめちゃんたちは、左折して堀之内の北を廻って帰ります。
籾殻の山は白かったけれど、凍ってません
籾殻は、こんなに寒くても、凍らないんだねえ
帰り道、諏訪神社の枝カットされた桜の向こうに、浅間山が見えました。
186番・大前田地蔵菩薩石像の南に、187番大前田英五郎の墓があります。
行ってみましょう
「大前田英五郎の墓→」の案内に随って到着です。
森の中です。
石造物もあります。
向こうに、説明板らしい後ろ姿が見えます。
さらに奥に進んで、到着です。
とりあえず合掌
江戸末期、国定忠治とならび上州の侠客として知られる大前田英五郎は。寛政五(1793)年、旧大前田村田の田島家の次男として生まれました。
父久五郎は大前田を縄張りの中心とする博徒であり、兄要吉も「大前田の盲親分」と称され、英五郎も小さい頃から父の血を受け、少年時代は「火の玉小僧」と呼ばれていた。若い頃は、博徒の縄張り争いから各地を転々とし、「天下の和合人」と呼ばれる博徒の大親分となって、上州一国のみならず関東、東海、甲州といった県外にも知られ、全国に二百二十四箇所の縄張りを持っていたとされます。
名前は知っていました。
でも、そんなにすごい大親分とは知りませんでした
この北側のさらにうっそうとした空間にも、いくつか墓石があります。
ひっつき草の前に退却です
南側は、歩けそうです
権大僧都の文字が見えます
転がっている僧形の墓石にも、権大僧都の文字があります
もしかして、小さなお寺があった?
権大僧都というと、天保3年(1832)に「山上城家臣団の一覧」を創作した、「権大僧都鏑木武七正保」さんが思い浮かびます。
彼は、200年近く経っても、ある種の人々を熱狂させる法力をもった修験者なのです
ここは、たぶん修験系の小さなお寺でしょう。
入り口付近にあった小さなお地蔵様、もしかして幼くして逝った子どもの墓標かな?
合掌
七海ママの墓標も、石屋さんに依頼しました