少し肌寒い朝です。
ひめちゃんとタバサねーちゃんは堀之内を西に出ます。
タバサねーちゃんは、まもなく用を足してUターンして帰ります。
ひめちゃんは、天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。
赤城山はなんとなく近くに感じられました
浅間山もうっすらと姿を見せてました
2020年10月の黒柴家族です。
小次郎パパと獅子丸(父と息子)の関係は微妙でした
膳城は、龍眼寺の和尚の仲介によって、落城を免れました
龍眼寺は、実は龍源寺のことと思われます
写し間違いか、意図的な作為かは、分かりません
膳城の北に位置する龍源寺は、永平寺52世となった宣峰禅師が得度した寺ということです
江戸時代には、末寺25ヶ寺を有する赤城山麓一の名刹であったといいます
『桐生老談記』の作者・高橋守行は、明和3年(1766)9月20日に51歳で死去しています。
『桐生老談記』が書かれた頃も、赤城山麓一の名刹だったでしょう
名刹に対する遠慮か、誤記か
『桐生老談記』に、直接は関係ありませんけど、龍源寺で得度した永平寺52世宣峰禅師の生家が、笠懸のよく通るあたりにあります
『笠懸村誌』(下巻・昭和62年)に、
宣峰禅師は越前、曹洞宗の本山永平寺五十二世をつとめ、勅号を給わった高僧である。江戸中期の延享三年(1746)、鹿田村において、父吉沢五郎右衛門・母とみの三男として生まれた。~中略~禅師は幼名を真三郎といい、粕川村の龍源寺(吉沢家の菩提寺)で得度した後、修行を重ねて関三ヵ寺の一つ、下総の総寧寺の四十世となった。後、江戸幕府の台命により文化五年(1808)十二月二十七日、同寺から本山の永平寺五十二世に就任することになった。
タバサねーちゃんと訪ねたことがあります。
白柴タバサちゃんの鹿田山漫遊記 5(永平寺52世の生家と山際の重制石幢)
鹿田赤城神社のすぐ南に、永平寺五十二世宣峰禅師の生誕地の碑があります。
すぐ東には、山際の重制石幢と子育て地蔵堂があります。
この頃は、タバサねーちゃん、お出かけ大好きなおばちゃんでした
『桐生老談記』とは、直接関係ないですけど、桐生氏と膳氏の調停役として、龍源寺の和尚はぴったり適役なのです
初稿 2019.10.28 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿 2024.10.20