黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

『桐生老談記』番外編・永平寺52世宣峰禅師のふるさと

2024-10-20 20:31:28 | 桐生老談記の世界

少し肌寒い朝です。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは堀之内を西に出ます。

タバサねーちゃんは、まもなく用を足してUターンして帰ります。

ひめちゃんは、天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。

赤城山はなんとなく近くに感じられました

浅間山もうっすらと姿を見せてました

 

2020年10月の黒柴家族です。

 

小次郎パパと獅子丸(父と息子)の関係は微妙でした

 

 

 

 

膳城は、龍眼寺の和尚の仲介によって、落城を免れました
龍眼寺は、実は龍源寺のことと思われます
写し間違いか、意図的な作為かは、分かりません

膳城の北に位置する龍源寺は、永平寺52世となった宣峰禅師が得度した寺ということです
江戸時代には、末寺25ヶ寺を有する赤城山麓一の名刹であったといいます

『桐生老談記』の作者・高橋守行は、明和3年(1766)9月20日に51歳で死去しています。

『桐生老談記』が書かれた頃も、赤城山麓一の名刹だったでしょう
名刹に対する遠慮か、誤記か


『桐生老談記』に、直接は関係ありませんけど、龍源寺で得度した永平寺52世宣峰禅師の生家が、笠懸のよく通るあたりにあります


『笠懸村誌』(下巻・昭和62年)に、

宣峰禅師は越前、曹洞宗の本山永平寺五十二世をつとめ、勅号を給わった高僧である。江戸中期の延享三年(1746)、鹿田村において、父吉沢五郎右衛門・母とみの三男として生まれた。~中略~禅師は幼名を真三郎といい、粕川村の龍源寺(吉沢家の菩提寺)で得度した後、修行を重ねて関三ヵ寺の一つ、下総の総寧寺の四十世となった。後、江戸幕府の台命により文化五年(1808)十二月二十七日、同寺から本山の永平寺五十二世に就任することになった。

タバサねーちゃんと訪ねたことがあります。

白柴タバサちゃんの鹿田山漫遊記 5(永平寺52世の生家と山際の重制石幢)

 

鹿田赤城神社のすぐ南に、永平寺五十二世宣峰禅師の生誕地の碑があります。

 

すぐ東には、山際の重制石幢と子育て地蔵堂があります。

 

この頃は、タバサねーちゃん、お出かけ大好きなおばちゃんでした


 

『桐生老談記』とは、直接関係ないですけど、桐生氏と膳氏の調停役として、龍源寺の和尚はぴったり適役なのです

 

初稿  2019.10.28   FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.20

 

コメント
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