黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

由良信濃守源成重公桐生へ御入部の事、付けたり、寺社の事・その 1

2024-10-24 20:56:23 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久々に赤城南面国道353線沿いの大胡グリーンフラワーパークへ行ってきました

16歳と3ヶ月のタバサねーちゃんも、がんばって歩きました

きれいに草刈りがしてあって、かゆくなる事はありませんでした。

でも、なんとなく動物が少なくなったかな

オウムのキバタンの「こんにちは」に、とっても癒やされました。

 

2019年10月の、黒柴家族です。

獅子丸は実家に帰って4ヶ月、全く遠慮のない天真爛漫の息子に、小次郎パパは戸惑ってます。

 

 

 

 

由良信濃守源成重公桐生へ御入部の事、付けたり、寺社の事・その 1

去る程に、由良信濃守成重公は桐生を乗っ取り、多年所望をここに達す。すなわち、城代は横瀬勘九郎、藤生紀伊を添えて差し置かる。

同六月九日に成重公入部なされけり。二渡村まで御須見ありて、先代の菩提寺西方寺へも見舞い住僧にも対面なられけり。

また祈願真蔵院にも使者計りなり。明くる四月、新田本城は子息上野介国重に譲って同五月朔日、成重公桐生に隠居し給う。

あらすじです。

そうしているうちに、由良信濃守成重公は桐生を乗っ取り、長年の宿願を果たした。
桐生城代には横瀬勘九郎を、藤生紀伊守を添えて差し置いた。
そして、成重公は、同年(天正元年1573)六月九日に桐生にやってきた。
二渡村にまでおでましになり、桐生氏の菩提寺西方寺の住職にも対面した。
また、真蔵院にも使者を送った。
明くる年の四月に、成重公は本拠の金山城を息子の上野介国重に譲って、桐生に隠居した。

 

 

話が大分戻ります

第5話「桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事」最後に

此の日はいかなる日ぞや、天正元年(癸酉みずのととり1573)三月十二日に桐生七代繁栄一時に亡ぶるなり」とありました。

その後日談になるのです


桐生親綱が去った後、とりあえず桐生には城代として横瀬勘九郎を置きます
藤生紀伊守がナンバー2です

その約3ヶ月後、由良国重がやってくるのです。
旧暦の6月9日、現在の7月中頃でしょうか?
田植えも済んで元気な稲穂がお迎えしたのでしょうか?
「御須見」の意味がわかりません
まあ、二渡村に来たのでしょう。
そして、桐生氏の菩提寺西方寺住職とも対面するのです
西方寺住職は、時代に順応した対応を取ったのでしょう



現在の西方寺山門です。



本堂です。



桐生氏累代の墓です。



群馬県指定重要文化財・阿弥陀如来座像の説明板です。

胎内に大旦那佐野大炊助助綱の墨書があって、近年、桐生氏は佐野氏である事がわかったのです

 

真蔵院はわかりません。
祈願真蔵院とあるので、修験者でしょうか
戦国の領主の廻りには、何人も修験者がいて、いろいろな役割を担っていたということです。
もちろん諜報活動とかもやっていたでしょう。
真蔵院は由良方と内通していたのでしょう

『上州坪弓老談記』では

天正2年3月9日に、新田殿入部なされ、山地に渡り迄御見物なされ、西芳寺へ御寄り、住寺に御対面あり。大蔵院へは使者を派遣され・・・・・

使者を派遣したのは大蔵院(桐生市天神町)だとしています



由良成重は、翌年の4月に金山城を息子の国重に譲って、桐生に隠居しました。
ということは、一反金山城に戻ったのですね


 

初稿  2019.11.05  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.24

 

 

(つづく)

コメント
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