黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

由良信濃守源成重公桐生へ御入部の事・その 2

2024-10-26 20:35:44 | 桐生老談記の世界

おかあさんは、旧赤城村の蜂蜜屋さんに行ってきました。

車のエンジンがかかると、ひめちゃんが「アタチはも行く

タバサねーちゃんも立ち上がりました

今日はお留守番だよ、又そのうちにお出かけするからね

おとといの「大胡ぐりーんふらわーぱーく」、楽しかったね

お出かけ大好き姉妹です。

小菊の里も咲き始めたかな

 

2019年11月の黒柴家族です。

獅子丸が実家に帰って5ヶ月です

七海ママも、末っ子たちと元気にお散歩しています

獅子丸はひめちゃんと、諏訪神社の向こうの高台にもよく行きました。

獅子丸は、ブロッコリーの葉っぱもよく食べてました。

もちろん、ゆでたブロッコリーも大好きでした

 

 

 

 

由良信濃守源成重公桐生へ御入部の事・その 2

菩提寺金龍寺をも西方寺の上の平に移す。毛はい峠に大門を打ちて、西方寺を塔頭の如くに掠めける。また、西方寺の三十貫の寺領を二十貫文取りはなして、金龍寺へ附けけるなり。

契約の閑心院を前沢に建立し給う。寺号を鳳仙寺と開き菩提所に定む。

明くる三年に新田の青蓮寺を久方村前原屋鋪に移す。同九月、母衣輪権現をも新田より荒戸村へ遷宮なり。是は新田代々の軍神なれば、後に常陸牛久へ国替えの時、また彼の地へ移す。

梅原の天満宮も再建在り。

同月、普門寺も中里山に建立す。

かくの如く寺社の遷宮は天正六年なり。

是より新田、桐生一領にして、上下睦まじく国家を治むる事、実に道広き武徳なり。



あらすじです。

菩提寺の金龍寺をも、西方寺の上の平に移した。
毛はい峠に大門を建てたので、西方寺は塔頭の一つのようにみえた。
西方寺の三十貫の寺領を二十貫文取りあげて、金龍寺へ与えた。
以前から約束のあった閑心院を前沢に建立した。
寺号を鳳仙寺とし、菩提所に定めた。
あくる天正三年(1575)に新田の青蓮寺(しょうれんじ)を久方村前原屋鋪に移した。
同念九月に、母衣輪権現(ほろわごんげん)をも新田より荒砥村に遷宮した。
母衣輪権現は、新田の軍神なので、後に牛久に国替えの時、またその地に移した。
梅原の天満宮も再建した。
同じ月、普門寺も中里山に建立した。
このように寺社の遷宮は天正6年(1578)である。
これから、新田と桐生は一つになり、上下仲睦まじく国を運営できたことは、すばらしい武徳である。



いくつものお寺を、新田から移したとあります

金龍寺も移したんですか
金龍寺は、由良氏が牛久に移る時に、一緒に行きました。
新田からではなく、桐生からいったんですか

新田(太田市)には、江戸時代に新しい領主が再建したと言うことですけど、今も金龍寺があります


『桐生地名考』(桐生市立図書館)には、「金竜台(きんりゅうだい)」の字があります。
語源として「由良成重が建立した金龍寺のあったといわれる台地」とあります



鳳仙寺は、由良氏に内通していた閑心院が、約束通り菩提寺にしてもらったのですね



「天正三年(1575)に、新田の青蓮寺を久方村前原屋鋪に移した。」とあります。


桐生の青蓮寺です。




新田(旧尾島町)にも青蓮寺はあります。
ともに、時宗の寺です


母衣輪権現(ほろわごんげん)も移したとあります。
金山城の近くに母衣輪社があり、隣に修験者の寺があって、付近の修験者の元締めだったとかの話もあります
戦国武将の廻りには修験者がいたといいますから、母衣輪権現を移(分社)したのはかなり意味のあることのようです


普門寺は建立したとあります
桐生の普門寺です

こちらは、曹洞宗のお寺です。

新田・世良田にも、ずーと普門寺はあります
こちらは、天台宗のお寺です。


桐生の人は、気軽に新田から持ってきたといいます
新田の人間には、理解できません
ひめちゃんちのおかあさんは、新田の人間です。
新田にも、同名のお寺が現存するのです

 



初稿  2019.11.07  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 

改稿  2024.10.26 

 



( 由良信濃守源成重公桐生へ御入部の事  終 )

 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする