黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

浪人をかたらい百人ばかり徒党して(高津戸城取り立ての事、付けたり、城主の事 ・ その 1)

2024-10-27 15:32:48 | 桐生老談記の世界

肌寒い朝でした。

ひめちゃんは堀之内を北に出て、岩神沼まで行きました。

誰かいるかな?

アオサギさんが1羽だけいました

 

旧黒保根村の正円寺の写真を探していると、元気な獅子丸がいます

 

2020年4月、獅子丸は実家に帰って10ヶ月です。

獅子くん、アブラナが大好きでした

寒い朝もあったんだね

まだ20年来のお散歩コースで、堀之内を北に出ていました。

ひめちゃんが、この先で2度足にけがをして、このコースは通らなくなりました

あれ以来、もう一本西の道で迂回して岩神沼に行っています。

諏訪神社の向こうの高台も、よく行きました

貧乏カッパで仲良くお散歩です

タバサねーちゃんも、丸々と元気でした

 

 

 

高津戸城取り立ての事、付けたり、城主の事 ・ その 1(浪人をかたらい百人ばかり徒党して)

去る程に、越後に退ける里見入道の兄弟の子ども、里見随見勝正、同兵四郎勝安は桐生初中の後騒動を伝え聞き、無念というもあやまりあり。

此の上は一先ず故郷に帰り、亡父の仇をほうじ本望を達せんと、心中に思い兼ねて浪人をかたらい、百人ばかり徒党して、君臣三世の契約をなし、時を期して待ち居り。

爰に上州久留川の物頭、阿久沢能登守、松嶋式部入道は先より兄弟と別して親しきに依って、越後、久留川へ兼ねて内通なされしかば、松嶋、阿久沢方より早々帰国なされる旨、通達ある故に、謙信公に暇乞いなられければ、謙信公より武具、馬具の類い、金銀等拝領せられ、契約のことなれば、正木大三、大貫長順丸、この両人は譜代の者なり。そのほか、平山伊之助、垣田佐次右衛門、谷彦雲平、直井秀右衛門、長浜与惣兵衞、篠田宇平次、かれこれ引き連れ、

天正五丁丑(1577)九月二日、桐生久留川に着来せられ、松嶋、阿久沢に対面して初中後の物語事終わって、


あらすじです。

越後に行った里見入道の子ども、里見随見勝正と兵四郎勝安は、桐生騒動の話を聞いて、たいそう無念だった。
この上は、まず故郷に帰って、父の仇を討とう思った。
思っているだけでなく、浪人百人と、君臣三世の約束をして、時を待った。
こうしているうちに、黒川衆の頭、松嶋・阿久沢氏から、早々に帰国するように連絡があった。
松嶋・阿久沢氏は兄弟と昵懇(じっこん)で、越後方も黒川衆に内通していたのである。
謙信公に暇乞いをして、馬具・金銀等をもらった。
譜代の家来と契約した家来をかれこれ引き連れて、天正5年(1577)9月2日に桐生黒川にやって来て、松嶋・阿久沢氏に対面した。



里見兄弟は、元亀3年(1570)3月13日、越後に行きました。
父の里見入道は、その直後20日に石原兄弟の裏切りにより死んでいます
「桐生初中の後騒動」とは、意味不明です
写し間違いと思われます。

亡父の仇は、桐生親綱、石原兄弟です。
天正元年(1573)に桐生城が落城する前に、帰ってこなければ不自然です。
彼らが帰ってきたのは、由良氏が桐生にやって来てからです

浪人百人と主従の契約ができたとは、本当でしょうか?
ちょっと無理がありそうな話です
越後で浪人を集めてというのも、謙信公は放っておけないでしょう

黒川衆の松嶋・阿久沢氏は、確かに越後とも関わりを持ったこともあったですけど

 


旧黒保根村(桐生市黒保根町)の正円寺には、阿久沢氏累代の墓があります。

正円寺のすぐ前が、阿久沢氏の深沢城です。




ちょっと、仇討ちの時期が遅いようです
戦国武将は、仇討ちのために命を懸けて行動したりしないようですけど

 

 

初稿  2019.11.12  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.27

 

 

(つづく)

コメント
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