ひめちゃんと獅子丸が、おとうさんを連れてやって来ます
タバサねーちゃんは、都合で1人散歩です。
ひめちゃんと獅子丸が追い越して行きます。
みんなで天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。
ひめちゃんと獅子丸は、ケンくんちの方に曲がりました。
タバサねーちゃんも追いかけます。
獅子丸とケンくんは、お互いに「ボクの方が強いんだぞ」と吠え合ってます。
バイバイ、そのうちにひめちゃんだけで来るよ
三夜沢赤城神社に到着です。
鳥居の前に、宮城村の文化財の案内があります。
「惣門、下馬」の所を通ってきました
赤城神社の由緒書きです。
あったっけ?
古代、崇高な赤城山と水源である沼の神霊を自然崇拝の対象に、農耕の神、東国開拓の神々の大己貴命、豊城入彦命を主祭神に祀り、創建は崇神天皇の御代と伝えられています。
手水社も、コロナ対応です。
そばに大きなサワラの木があります
そばの説明板には、「推定樹齢250年、樹高28m」とあります。
右の狛犬です。
こんにちは
この後ろあたりが、東の神宮寺・龍赤寺かな?
「南勢多郡の廃寺」によると
当初は密教僧により成立したようであり真言宗系であったが、善昌寺(新里町)に属し支配を請けていた。後に寛文11年(1671)以降に寛永寺の末寺になり天台宗に改宗した。
普通に考えると善昌寺は真言宗のお寺だったことになります
それにもまして、どうして赤城神社を支配できたのでしょう
左の狛犬さん、こんにちは
この奥の方に、西の神宮寺・神光寺があったのかな?
たわら杉の中を、拝殿に向かいます。
この場面は今回の写真がなかったので、昨年10月に訪問したときの画像です。
中世武士団のなかでも大胡氏が赤城神社への信仰が篤かったとあります。
拝殿で参拝して、あたりを散策です。
このあたりに、赤城塔があるはずですけど、見つかりません
龍赤寺跡に残る宝塔のはずですけど
本殿の東側には、石段で登れます。
本殿の後ろの高台に人影があります
何かあるのかな?
あるかなきかの道を上ります。
大きな石宮があって、おばさんがきびだんごのようなものをあげてます
「こんにちは こちらは何様ですか?」
「天神様です。今日は初天神なので カメラは遠慮してください。ご本殿の後ろですから。」
「はい。」
何か曰くありそう
思い切って、今日来訪のわけを話します。
「南勢多郡の廃寺という本に、新里の善昌寺がここにあった神宮寺を支配していたという記述があったのです。驚きの記述で、これは是非面影を探しに行こうと出かけて来たのです」
「そうですか。実は我が家は祖父の代まで、ここの神官をしていました。今は別の人がやってますけど。火事になって過去帳等が焼けてしまったので、善昌寺に行って写してきたと聞いています。善昌寺に文書を提出してあったそうです。」
「ええッ、本当ですか」
善昌寺が赤城神社を支配していた時代があったのは、本当なのです
おばさんはまだ参りするところがあるということでした。
邪魔をしないように、撤退です
時間の都合で、神社の西の方は歩いてきませんでした。
昨年の10月の写真です。
駐車場にある剣聖上泉伊勢守の木像です。
ここは上泉伊勢守修練の地とあります。
この奥にはちょっと行けません。
ここらへんが神光寺かな?
「南勢多郡の廃寺」によると、
神仏分離により神主増田家の墓地に移された宝塔や五輪塔は14世紀に属するものである。真光寺は以前、真言宗であったが後に善昌寺末になり支配を受け天台宗に改宗した。
新里村の善昌寺が、赤城神社の神宮寺を支配していた時代があったなんて
でも、ちょっと裏付けの証言を得られました
10月にいただいた御朱印です。
10月の参拝は、ちょっと記事にしにくくて、そのまま放置されていました。
今回の参拝待ちだったのです。
不思議な出会いでした
赤城大明神のお引き合わせかな
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