黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

自音寺沼にたどりつきました

2019-04-13 18:56:49 | 群馬県・旧勢多郡
今朝ひめちゃんは、タバサねーちゃんとお散歩に出ました。
後ろから小次郎パパとののこねーちゃんが、おとうさんを連れてやってきます。



ひめちゃんは、「遊ぼ」の姿勢で待ってます。
パパはひめちゃんとちょっと絡んで、追い越していきます。

抜きつ抜かれつ、帰り道です。



なにげなく、タバサねーちゃんの方が先に出ています。
やはり順位はタバサねーちゃんの方が上です




先日、旧勢多郡粕川村の村主(すぐろ)神社を訪れました。
村主神社に行きたいという人がいたので、翌日また訪れました。






赤い鳥居に満開の桜、いいですね

鳥居の前に、いわゆるシニアカーにのった老人がいました。

境内の散策は前日にすんでいるので、同行者を待つ時間があります。
「こんにちは
「こんにちは

「立派な神社ですね!すごい御神木があったんですね
今は御神木の大きな根が祀られています。
実は、このおじいちゃんは、その御神木を掘り出した一人なんだそうです。
どんなに大きかったか、いろいろ聞きました。

いろいろ話が弾んで、このあたりは昔獅子丸家開基・常広寺の檀家だったという話も出ました。
大正15年1月1日未明の常広寺火災の時には、みんなで駆けつけたのだそうです。
その後何があったのでしょうか?
みんなで離檀(りだん)したんだそうです。
「では、どちらのお寺に入ったんですか?」
「神葬祭だよ。どこにも入らないよ。」
ということは、仏教に絶望したという事でしょうか?

「あのう、自音寺沼(じおんじぬま)ご存じですか?大間々の高津戸にある自音寺は、もと粕川の田面(たなぼ)にあったという話があるんですけど。」
「ああ、知ってるよ。」

道を丁寧に教わりました。
実は昨日、そこを通って帰ったのです

「あのう、沼が2つ有りますけど両方そうですか?」
「いや、北側だけだよ。南側は戦後水不足で掘ったんだ。」

「大間々町誌には、自音寺跡のポールも立ってるという事ですけど。」
「いや、ポールはもう立ってないと思うよ。」


でもまあ、とにかくありがとうございます



『大間々町誌基礎資料・大間々の社寺』の記述

「自音寺伝記」によれば、自音寺はもと勢多郡粕川村田面にあった寺院で、建長二年(1520)に創建された。その後、永禄十年(1567)に上杉・武田が度々合戦に及んだとき、上杉方の武将安田左馬之助が渋川義将に敗北し、厩橋城に戻る途中自音寺に宿陣した。そのことを知った渋川は自音寺に放火し~(中略)~粕川村の旧自音寺跡地には「自音寺跡」の標識が立っており、近くには自音寺沼がある。


が気になっていたのです。

指示された道を辿ります。
あれです



網がかかってます。
フナだか鯉だか養殖中と聞きました。

南の沼も養殖中のようです。



南の沼の脇に降りられる道があります。

振り返ると、当然のことですけど、赤城山が見えます





その先は墓地になっていました。




隣に神社が見えますけど、戻らないと行けません
戻って、なんとか神社裏にたどり着きます。





神明宮(しんめいぐう)とあります。
なかなかきちんとした作りです
境内の大木の陰に、たくさんの石宮の末社もたくさんあります。



狛犬は居ないけれども、手水舎の蛇口は竜です


自音寺跡の標識は見つかりませんでしたけど、自音寺沼にたどりつきました

ここは前橋(厩橋)と桐生を結ぶ上毛電鉄の膳駅のすぐ近くです
そして、前橋から桐生に向かう県道3号線も通ります


敗走して厩橋城(うまやばしじょう)に戻る途中になります

大間々町誌で紹介されている話は、「さもありなん」という感じも受けます















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細川内膳の物語・総集編(子育地蔵と細川内膳の墓)

2019-04-12 16:16:32 | 桐生川紀行
昨日の夕方、ののこねーちゃんのお散歩途中に、突然どこからともなく、白パグが出現しました。
お散歩の後半つきまといます。
家まで付いてました
みんなで騒いで追い払いましたけど、そこらの家でも騒いでいたので、ご近所にも出没したようです。
かなり太めの、大きな男の子でした。
首輪もないし、ここらでは見かけない子です。
ひめちゃんちの門柱に片足あげて、マーキングして去りました。
ちょうど、ウォーキングで通りかかった人の後を付いて、南の方に去ったのです

ひめちゃんは、パパとタバサねーちゃんと南の方にお散歩しましたが、パグくんには逢いませんでした。
おうちに帰れたかな?





細川内膳の物語・総集編、子育地蔵と細川内膳の墓です。

名馬小雀の主君・細川内膳の墓は文昌寺にあります。
菱のハイキングではちょっと境内を通過してしまいましたが、実は何回か訪れています。
昨秋のある日も訪れました。

参道脇に、まだ朱の残る2猿2鶏の庚申塔があります。



左の猿は、見ようによっては目をつむっているかな?
右の猿は、右手を口に当てて言わざるに見えなくもないかな?


ちょうど和尚さんが通りかかりました。
「こんにちは 御朱印いただけますか?」
「書き置きでいいですか。」
「はい。」
和尚さんはお忙しそうです。
でも、ここでお寺の人に会ったのは初めてです
和尚さんについて仁王像の間を抜けて、庫裏前で待ちます。



ありがとうございます。
お忙しいのに親切に対応していただきました。



本末転倒ですが、これから境内を散策させていただきまーす



山門の脇に不思議なものがあります。



縄文石器って?
旧赤城村の赤城歴史資料館の石棒を思い浮かべます。
でも、あれは石器時代のものだったけど。



鐘楼堂の下に、菱カルタがありました。

文昌寺 子育地蔵(こそだてじぞう)と五輪塔

子育地蔵堂は普段は閉まってますが、わざわざ開けていただきました。



かわいいお地蔵様やお子様グッズがいっぱいです。



元々の子育地蔵は左の石のお地蔵様だそうです。

かつての火災に耐えて子供たちを見守っているのですね、合掌



本堂の裏にもう一枚の菱カルタがありました。

累代の 百庚申の 塔ならぶ

「雷電山の方向に少し登ると、岩陰や木陰に自然石に文字を刻んだ庚申塔がたくさん安置されている。」とあります。
でも、先日菱ハイキングで雷電山から下りてきたけれど、まったく見つかりませんでした
道が不安でゆとりがなかったせいかな



本堂裏の山の斜面は墓地になってます。

「一番高いところからの見晴らしがまたいいんだ」と、和尚さんに教わったので登りました。



お釈迦様の脇からはるか遠くを望みます。



くよくよしていても、気持ちが晴れてしまうような景色です



さて、ここから降りて右手に細川内膳の墓があります。



左手の階段の奥です。
五輪塔のようですが、寄せ集めた感じもあります。
右の奥に五輪塔がたくさんあります。
菱カルタの五輪塔は、どっちを言ってるのでしょうか?


ここは明治初年に廃寺になった細川家の菩提寺・西善院の跡なのでしょう。
文昌寺と隣接していたということですから。



菱の領主細川内膳、ひめちゃんたちの住んでいる葛塚城堀之内ではまったく知らない人でした。
菱の領主細川内膳、最近少し存在を感じられるようになりました

『桐生老談記』に「細川内膳の内室は上州膳の城主因幡守の妹なり」とあり、膳因幡守は「天文十三年(1544)七月十五日朝、勢を揃え、諏訪の森に集まり、其れより馬煙りを立て乗り出す」とあります。


膳城の近くに、諏訪というのは諏訪神社のあたりしかありません。
諏訪神社の森に集まって出撃したのです

ひめちゃんたちも、時々諏訪神社のあたりはお散歩しています。
菱の領主細川内膳は、まったく無縁の人ではなかったんだ


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細川内膳の物語・総集編(名馬小雀と八条殿)

2019-04-11 20:09:02 | 桐生川紀行
昨日の朝は、雨でした。
雨はそのうちに雪に変わりました
4月の雪です。
さすがに4月の雪なので、積もりませんでしたけど。

ひめちゃんは小次郎パパと、この道で堀之内を北に出て、西側の堀切跡の田んぼを回って帰りました。
やはり、今朝の赤城山には雪がしっかり残っています。



堀之内から見た赤城山です。
画面左奥が内曲輪です。


堀之内の西側から見た赤城山です。



花散らしの雪にもめげず、桜の花は咲いています。

ひめちゃんの足下にわずかに、雪の名残があります。



今日は、いっぱい濡れたひめちゃんたちのバスタオルを洗濯しました。





細川内膳の物語総集編、名馬小雀と八条殿です。


細川内膳は、名馬小雀を桐生氏に渡さずに、攻め滅ぼされたと云います。
菱郵便局の隣に、小雀を祀った小雀観音があります。





菱カルタがあります。



小雀も主君の後を追い舌をかみ切って死んだとあります。




生花と水があがってました



ところで、小雀とは馬の名前にしては、どうして?と思う名前です。
その名前の由来は、小雀を細川内膳に下賜した八条殿にありそうです。


八条殿は、実は大変な有名人であるようです。
扇谷上杉朝顕(おおぎがやつうえすぎともあき)は、現在の埼玉県八潮市八条に館を構え、八条上杉氏を称したといいます。
その曾孫が、八条近江守房繁(はちじょうおうみのかみふさしげ)です。
彼は馬術の卓人として、独自の八条流をなしたそうです。
そうすると、細川内膳も馬術の達人だったことになりますね

八条殿は達人だっただけではなく、永正5年(1508)に『糠部九ヶの部焼き印図』を著したといわれます。
青森から岩手にわたる南部地方に、かつて糠部(ぬかべ)郡がありました。
あまりの大郡であるため、9つの戸(へ)に分けたといいます。
この地方は名馬の産地として有名で、どこの戸の産であるかを示すため、馬に焼き印を押したといいます。

残念ながら、『糠部九ヶの部焼き印図』の原本は失われたようですが、『七戸町史』第2巻第六篇中世に、馬焼き印想像図があります。



(なぜか横向きで、回転してくれません

名馬小雀には、雀の焼印があったのですね


そして、なんと雀紋印の馬印(すずめもんじるしのうまのかね)が、昭和61年に一戸城跡(いちのへじょうせき)から出土しています

一戸町のHPによると、「この糠部の馬産を示す唯一の文献が、永正5年(1508)八条近江守房繁の作といわれる馬焼印図です。それによると岩手県北地方では、一戸7ヶ村の馬には左右に雀の焼印、二戸7ヶ村の馬には雀と二文字を押した事がわかり、それぞれの略図もつけています。」とあります。
雀紋印の馬印の写真もあります。


名馬小雀は、雀の焼印がたぶん左右にあったのでしょうね。
だから、すずめ、すずめちゃんという意味で、小雀と呼ばれたのでしょう



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細川内膳の物語・総集編(『桐生老談記』にみる細川内膳)

2019-04-09 20:18:00 | 桐生川紀行
今朝は寒い寒い朝でした。
ひめちゃんはいつものように、小次郎パパと堀之内を西に出て田んぼ中の道を下ります。
赤城山は、はっきりとは見えません。



雪が降ったようです。
浅間山も榛名山も見えませんでした。

おかあさんは昼頃めでたく自音寺沼にたどりつきました
(詳細は後日レポートします。)
自音寺沼から見た赤城山です。




吹雪いてはいなそうですけど、まだ雪があります。




現在、「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」はFC2にあります。
画像の容量が限界に近づいているので、文字中心の記事になってます。
今『桐生老談記』を読み始めています。
細川内膳は度々登場します。

「黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅡ」はyahooブログにあります。
yahooブログは12月でなくなります。
一部の記事はリメイクして、こちらでアップしたいと思います。
気の向くまま、時には必要に応じて、総集編という形で少しまとめてリメイクしようと思います。
もちろんひめちゃんたちの記事は、最新版です。
お付き合いよろしくお願いします


さて、細川内膳関連の記事は3編あります。

まず『桐生老談記』にみる細川内膳です。


昨秋のある日、細川内膳(ほそかわないぜん)の屋敷門が残っている泉龍院(せんりゅういん)から、菱ハイキングを始めました。



山道を歩き、文昌寺(ぶんしょうじ)で、細川内膳の墓を確認して一応終了しました。
ところで、細川内膳とはどんな人なのでしょう?
菱(ひし)を支配していたお殿様らしことはわかりますけど。
菱は、元々は下野国菱村(しもつけのくにひしむら)です。
検索しても、同名の他人ばかりです。
ふと、「『桐生老談記』にあるかな?」と探してみました。
江戸時代に書かれた軍記物なので、すべて事実とはいえませんけど、他に資料がありません。
テキストは『桐生老談記』平成六年三月三十一日桐生市立図書館編集発行です。

目次に「桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事」がありました。

桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事

~前略 ~爰にまた野州足利郡下菱の郷主細川内膳と申すは、元来摂津国細川分流として、京都に籠もり居る細川丹後という者なり、其の頃野州小俣の郷主渋川の名跡に丹後をけい約して、應永十九年に野州小俣に下り、時に家中外腹の隠し子を取り立て、名跡丹後をそしり、違変して知行に入らず、細川力及ばず関東公方足利持氏公へ訴え、彼の少地を拝領して、其の秋より下菱に住す、其の子修理祐、其の子丹後、其の子主膳、其の子内膳、五代繁栄と云えども内膳の時、都八条殿より小雀という名馬を拝領す、桐生より度々所望致されしに、細川おしんで渡し給はず俺を野心に思し召し、津布子常陸之介を大将として、天文十三甲辰 三月二日、細川を追い散らし名馬をうばいとり、新領家老有坂右京、一式修理というもの心変わり、依って内膳殿夫婦自害におよび、修理は行方なくしっぽんす、扨て内膳殿の内室は上州膳の城主因幡守の妹なり、扨て右京は家の宝をうばいとり、上州竜舞村のしゅうとの里に退いて土民となり、扨て細川跡に津布子常陸之介差し置けり、誠に應永十九年より天文十三年迄五代の間、百三十三年にして滅びにけり~後略~


この記事によると、

細川内膳家は摂津国細川分流で、京都にいた細川丹後という者が初代である。
細川丹後は、野州小俣の渋川氏に跡継ぎとして迎えられる約束で応永19年(1412)に小俣に下った。
ところが、家中は外腹の隠し子を取り立て、細川丹後に従わなかった。
細川は関東公方足利持氏に訴え、少しの領地をもらい、その秋から下菱に住んだ。
其の子修理祐、其の子丹後、其の子主膳、其の子内膳と5代にわたり繁栄した。


それで、細川氏の5代目というのですね


内膳の時、都の八条殿から小雀という名馬を拝領した。
その名馬小雀を桐生氏から何度も所望されたけれど、渡さなかった。
桐生氏は天文十三年(1544)三月二日、津布子常陸之介を大将として襲い名馬を奪い去った。
内膳夫妻は自害した。
内膳の妻は膳城主因幡守の妹であった。


名馬小雀が出てきますけど、連れて行かれるとき自ら舌をかみ切った話はありませんね。
前年天文12年(1543)にポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲が伝えられています。








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さかさ梅伝説の村主神社

2019-04-08 21:33:49 | 群馬県・旧勢多郡
ひめちゃんちに、桜・衣通姫(そとおりひめ)が咲き出しました。
まだ、あまり大きくない木なので、花がまばらですけど。



小さくてコロンとしたかわいい花です
まるで黒柴ひめちゃんのようです




久しぶりにひめちゃんたちのおやつを買いに、大胡のカインズに行きました。
途中、粕川町田面(たなぼ)のあたりで、気になる森がありました。

先日訪問した、大間々の自音寺(じおんじ)は、『大間々町誌基礎資料・大間々の社寺』によれば、

「自音寺伝記」によれば、自音寺はもと勢多郡粕川村田面にあった寺院で、建長二年(1520)に創建された。その後、永禄十年(1567)に上杉・武田が度々合戦に及んだとき、上杉方の武将安田左馬之助が渋川義将に敗北し、厩橋城に戻る途中自音寺に宿陣した。そのことを知った渋川は自音寺に放火し~(中略)~粕川村の旧自音寺跡地には「自音寺跡」の標識が立っており、近くには自音寺沼がある。


「どこだろう?」ずっと気になっていました。
もしかしたら?

帰りにちょっと寄ってみました。

おや、りっぱな神社だ






ナビにも無かったのに、立派な神社です


手水社に竜がいる



新しいもののようですけど、親しみのもてる竜さんたちです


由緒の説明板がありました。

村主(すぐろ)神社の由来は古く、古老の伝えるところによると、延喜元年(901)に創建されたという。本殿は宝永五戌子年九月に再建されたが、前皆戸・西田面三十六戸により明治四十一年一月二十九日西田面字荒神東の菅原神社並びに同神社の末社二社を合祀し、明治四十五年に改築され、童子に現在の弊殿と拝殿が建築された。昭和四十年代、境内には六・七百年の星霜を経た老杉が多数繁茂し、現在の御神木の切株もその一本である。社頭に至れば昼尚暗く、遠く赤城山頂より本社の在所が分かり、尊厳の程が偲ばれた

「すぐろじんじゃ」と仮名がふってありました


拝殿に参拝です。




拝殿の左に御神木です。







「社頭に至れば昼尚暗く、遠く赤城山頂より本社の在所が分か」った大杉の根です
天正八年(1580)武田勝頼の膳城攻めのころにまで、遡るほどであるとあります


社殿の裏に回ります。
特に目につくものはありません。
東の方に何か見えます。



石宮の末社がたくさんあります。
朱の残る一番左の末社が一番大きいです。

朱の鳥居が見えます、裏門かな?



社額は「村主大明神」です。
鳥居の外から南を見ると、もう一つ朱塗りの鳥居が見えます。
あちらは通行不能で、現在は使われていないようです。


さて、帰ろうかとしたら、その使われていない南の朱塗りの鳥居の先に説明板がありました



武田勝頼が天正八年の膳城攻めの時に、村主神社前の泉で一休みした。その時、持っていたの梅の鞭(むち)を逆さに地面に挿した。それが芽をふいた。


ここではなく、この前の方に泉があったんですね。
ちょっと見たところ、泉は見当たりません。
この梅が逆さ梅の子孫ということでしょうか?



どこかで似たような話も聞きました。
でも、さかさ梅は初めてです。


自音寺跡ではなかったけど、さかさ梅伝説の神社に参拝できました

膳城まで車だと5分から10分くらいかな?

もちろん、膳城の前を通って帰りました。
膳城も花ざかりでした







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