黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

奥州紀行総集編 7(奇遇の陸奥国分寺薬師堂)

2020-03-27 16:51:39 | 奥州紀行

昨夜、獅子丸は元気ありませんでした

診療時間終了寸前に、動物病院に駆け込みました。

なんと熱があったのです

極太の注射と細い注射2本して帰りました。

今朝は、「早くお散歩に行こうよ」と騒いでいます。

いつものように、ひめちゃんと朝のお散歩です

調子が戻ったのか、沼の方に行こうとします。

葛塚城の堀切の工事は終わったようです。

堀切の工事というより、横切っている道の工事だったなあという感じです。

 

岩神沼(いわがみぬま)に到着です。

ああ、やっぱり高縄の摩崖仏(たかなわのまがいぶつ)にも桜が咲いてる

右上のピンクの所に高縄の摩崖仏があるのです。

さて、じゃあ寄って行こうね

 

途中、花好きおばさんのガーデンがあります。

ひめちゃん、借景で、1枚です

 

摩崖仏に寄ります。

摩崖仏に桜が似あってます

 

 

(2018年6月20日)

ガイダンス施設を出て、陸奥国分寺薬師堂に向かいます。

あれ、去年より説明板が増えているような気がします

 

向こうに見える塔のあるモダンなお寺が、管理しているとか。

もしかしたら、あそこにまで御朱印をもらいに行くことになったかもしれません。

 

それにしても、クラシックすぎる仁王門です。

こんにちは

また、お邪魔します

草履(わらじ)が奉納されています

仁王様の強健な身体にあやかり、足腰の病気の治癒を願うものだそうです。

やはり、草鞋がいいです

故郷の中学校(現在は統合で移転)の近くに、岩松氏ゆかりの青蓮寺(しょうれんじ)があります。

ここの仁王門の前には、いろいろな履き物が並んでいます。

現代風と言えば、そう言えるかも知れませんけど、落ち着きません

草鞋がいいです

 

堂宇の表示や礎石の復元など、境内が整備された感じがします。

 

薬師堂に向かうと、左から作務衣を着たお坊さんがやって来ました

案内所をあけてもらい、御朱印をお願いしておいて、参拝です

狛犬が個性的でした

雨にもかかわらず、少ないながらも参拝者がいました

御朱印を受け取り、境内にある準胝観音に向かいます。

 

心字池あまりはっきりしません

お参りついでに、まわりにある石造物にもお参りです。

 

りっぱなというか、品格のある石造物です。

特に一番左の如意輪観音、感激です

 

個性的な山神さまです。

すごいインパクトがあります

 

芭蕉句碑もありました。

あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒

松尾芭蕉は奥の細道の旅の途中、元禄2年(1689)5月5日から7日の3日間仙台に滞在しました。

今年(2018)の旧暦5月5日は、6月18日です。

旧暦5月7日(6月20日)に、この句碑を訪問したのです

奇遇です

心字池にアヤメが咲いていると、なお良かったのですけど。

 

薬師堂に戻ると、案内所はしっかり戸締まりされ、誰もいませんでした。

数分間の出来事でした

何分かずれたら、御朱印はいただけなかったのです。

奇遇でした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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白柴タバサちゃんの女渕城登城記

2020-03-26 16:31:28 | 群馬県・旧勢多郡

突然ですけど、白柴タバサちゃんの女渕城登城記です。

今朝、おかあさんが、あまりにも汚れた車を洗っていると、タバサねーちゃんは満面の笑顔です。

「ねえ、しばらくぶりにドライブに行くんだよね

「じゃあ、行こうか

『桐生老談記』で、膳備中守(ぜんびっちゅのかみ)が戦死した後、敗軍の部隊は女渕城(おなぶちじょう)に引き上げたとあります

ええ、そんなはずはないでしょう。

引き上げたのは膳城(ぜんじょう)のはずです。

まあ、でも桜の女渕城もいいかな

というわけで、桜の女渕城に出掛けてみました。

 

この時節たぶん誰もいないだろうと思いきや、駐車場には車がいっぱいです

とりあえず、南の方に行ってみます。

はりきりタバサちゃんです

西には、雪をかぶった浅間山がみえます

ちょっとわかりにくいですけど、中央にある家の右奥です。

 

空に何か舞ってます、何だろう?

トンビだ

かなり長い間旋回して飛んでました。

 

クンクン、だれが通ったのかな?

 

中央の説明板の所に出ました。

下の緑の所を歩いてきたのです。

多くの車は、緑の公園でお弁当を広げる人々でした。

あれ、バス停もあります

ひめちゃんちのある、旧新里村には、桐生市に合併してから、バス停は一つもありません

 

桜の季節の女渕城は、初めてかな?

 

右奥の本丸跡に進みます。

新しい説明板があります

水の城ですね

城主として、伝説口碑に高野辺家成、南淵秋郷、古文書戦記に足利直義、荒井図書允、沼田平八郎があがってます。

高野辺家成(たかのべのいえなり)は、淵名姫、赤城姫、伊香保姫のおとうさんですね。

南淵秋郷(みなぶちのあきさと)って、だれだ?

ウィキペディア「元慶の乱(がんきょうのらん)」によると、

平安時代に起きた夷俘(蝦夷)の叛乱である。朝廷の苛政に対して出羽の夷俘が蜂起して秋田城を襲った。官軍は苦戦して鎮圧は難航したが、藤原保則が寛政によって鎮撫して収束した。

この時、上野国押領使で、上野国兵600人と腐臭300人で、夷俘に備えたのが南淵秋郷ということです。

何度かこの説明板をみていますけど、今回初めて南淵秋郷が気になりました

 

さらに奥に行ってみます。

ちょっと日射しがきついかな?

ごめん、タバちゃん用のお水を持ってこなかった

これからのドライブには、タバサちゃん専用のペットボトルとお皿が必要だね。

 

また豊かな水の淵です。

向こう(北)に、魔住田ヶ淵(まずみだがふち)がみえます。

竹藪のあたりです。

三角の史跡の石碑があります。

裏面に史跡について刻まれています。

これだけでは、よくわかりませんけど、以前に『粕川村史』(昭和47年)確認してあります

一説には、往昔高野辺家成というものが当地に住んでいた。女子在り、継母これを憎み、郎等と謀って、魔住多の淵に沈めたので後の人がその淵を女の淵と呼んだことから地名になったという。

 

女の淵から女渕ですか?

いまでは、その面影は全くありません。

 

橋を渡ると、右手に階段があります。

初めて気がつきました

降りてみます

タバサちゃん後ずさりではなく、前向きで降りていきます

降りられました

ごきげんタバサちゃんです

 

さあ、帰りましょう

みんながお昼を待ってるよ。

 

出口(?)に、また案内板があります。

こっちのほうが劣化がウチバかな?

本丸橋を渡って、曲輪橋を渡って、今左上のトイレ近くの▲にいます。

こちらからもいい雰囲気です。

そのうちに、逆回りもしてみましょう

 

 

 

 

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奥州紀行総集編 6(陸奥国分寺・尼寺ガイダンス施設)

2020-03-25 21:38:51 | 奥州紀行

昨夜はとっても寒かったです。

ハイシニアの七海ママと小次郎パパは、昨夜から服を着ていました。

今朝は、ペアルックでお散歩です

この冬は、何度かこんな様子が見られました。

ひめちゃんと獅子丸は、第 2 陣で堀之内を北に出ます。

 

やはり赤城山は白かった

不思議な形の雲が浮かんでます

 

 

2018年6月20日、郡山遺跡に行った後、仙台駅に戻り、「るーぷる」(市内観光バス)と地下鉄の共通乗車券を買いました。

朝の「るーぷる」は込んでいるので、まず地下鉄で陸奥国分寺に行きます。

薬師堂駅で降りると、大きなきれいな案内板があります。

国分寺目指していくと、赤い目立つ建物が見えます。

途中にも、案内板です。

わー、心字池(しんじいけ)があるんだ

 

直進して、陸奥国分寺・尼寺ガイダンス施設をめざします。

 

天平回廊がきれいにできあがってます

昨年(2017)来た時はまだ工事中で、雑然としていました。

奥にガイダンス施設もオープンしていました。

昨年は開設準備中でした。

「こんにちは

ボランティアガイドさんが待ってました

雨のせいか他に訪問者はなく懇切丁寧に解説してくれました

 

天平13年(741)国分寺・国分尼寺の創設の詔が発せられます。

仏教によって国を治めるために、60余国ごとに七重の塔1基を造り、僧寺と尼寺を設けるようにとの詔です。

 

陸奥国分寺の復元図です。

壮麗な国分寺があったのです

朱をふんだんに使った天平というイメージです。

 

陸奥国分寺と国府多賀城の間は約10km、普通は国府に近い所が選定されるそうです。

多くの国では4km以内だそうです。

 

上野国分寺跡と(推定)上野国府跡もそんなには離れていません

 

解説パネルでは、「陸奥国特有の理由があったと考えられる。」としています。

陸奥国特有の理由、知りたいですね

 

国分寺の河原の供給源について説明があります。

国分寺がここに建立されたのは、この供給源(台原、小田原窯跡群)のⅠも関係しているらしいとのことです。

 

地下鉄工事で掘ったので、色々出てきたのだそうです

奈良のイメージの河原もあります。

 

東北大震災が起こったときに、千年前にもこのような大地震がおこったとして、貞観地震が話題になりました。

貞観地震についても取り上げられています。

貞観11年5月26日、旧暦ですからちょうど今頃の季節です

今回の震災は、群馬でもかなりの揺れと被害が出ました。

ひめちゃんちのおかあさんは、あの日、桐生の織物参考館紫(ゆかり)にいました。

ちょうど、売店でお会計をしているところでした。

店員さんが、「この建物は古いから崩れるかも知れません外に出ましょう。」

売店にいた人みんなが外に出た瞬間、建物は崩れ落ちました

そのまま中にいたら、建物の下敷きになっていたのです

 

その後、衰退した国分寺は、伊達正宗が再興するのですね

 

全国の駅路があります。

あれ、東山道武蔵ルートの分岐点が変だぞ

足利からまっすぐだ

確か群馬県の旧新田町の東山道公園から、武蔵ルートが延びていたはずです。

いろいろ検索してみると、「行きは新田駅から南東に下って、妻沼付近または邑楽あたりで利根川を渡り武蔵国府に行き、帰りは利根川を渡ったら足利駅に出て陸奥を目指す」というルートだったらしいです。

新田の東山道公園は大切な東山道の記憶です

 

ガイドさんの説明によると、現在国分寺(薬師堂)を管理しているのは、国分寺の左にある真言宗のお寺だそうです。

仙台藩の庇護があるうちは、国分寺にもたくさんの坊があったけれど、明治維新でみんななくなり、今は1つだけになってしまったといいます。

来るときに見えた、あの塔のあるモダンなお寺です。

たくさんの坊があったところが連坊(れんぼう)だそうです。

不思議な地名だな思ってました。

 

国分寺で御朱印をいただこうと思っていると話します。

ガイドさんは「さっき行ってきたけど、案内所は閉まってたよ。管理しているお寺に行った方がいいと思うよ

 

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奥州紀行総集編 5(多賀城以前の陸奥国府・郡山遺跡)

2020-03-24 15:47:35 | 奥州紀行

ひめちゃんと獅子丸は、風花の中をお散歩スタートです

途中で風花は止みましたけど、寒い朝でした。

赤城山は、その姿を現しませんでした。

 

昼間も時折風花が舞いましたけど、ひめちゃんと獅子丸は、元気に七海ママの昼散歩にお供です

木々の間から見える赤城山には、雪があります

今夜も寒そうです。

また湯たんぽの出番かな?

 

 

仙台2日目は、気温も低い雨の一日でした。

昨日に引き続いて多賀城に行こうとの計画変更です。

多賀城以前に国府があったという郡山遺跡に向かいました。

 

実はひめちゃんちのおかあさんは、ほんの数ヶ月だけど、郡山に住んだことがあります。

もう遠い昔の話だけど、仙台で最初に住んだのが、郡山なのです。

通学に不便なので、八木山に引っ越しました。

まさか、郡山を再訪するなんて思ってもいませんでした。

 

東北本線で南に 1 駅、長町駅で降ります。

まず駅の大きさに驚き、町の大きさに驚きました。

駅前の大通りを下ります。

道路の大きさもさることながら、歩道と自転車道もしっかりとってあります

通勤通学時間帯には、人と自転車があふれるのでしょう。

 

名もない交差点を右折、心細くウロウロします。

間違えたかな?

でも、もう少し行ってみよう。

突然、郡山遺跡の看板(かなり劣化してますけど)が出現しました

よかった、間違えていなかった

さらに進んで、「郡山中学→」の表示を見付けて、左折します。

郡山遺跡は郡山中学の近くということなので、ホッとします。

 

道ばたに郡山遺跡の説明板です。

ちょっと古いけど、さっきのよりはズーッとましです。

下にわかりやすい地図もありました

左上のJR長町駅から現在地まで歩いてきたのです。

 

どうして国府は多賀城に移ってしまったのでしょう?

 

角を曲がってさらに行くと、この2枚にさらに新しい説明板がありました

詳しい説明がありますので、詠みやすいように4分割してみます。

郡山官衙は、宮城県北部や山形県内陸部の最上・置賜地域までを受け持つ国府として選定された。

多賀城は、此れ等の地域が和銅5年(712)に成立した出羽国に移管され、陸奥国の領域が太平洋側のみになった後の国府で、仙台平野北端で海路にも近い所が選定された。

また、養老4年(720)の蝦夷の叛乱も原因の一つと考えられる。

 

だいたいこんなことで、国府は多賀城に移ることになったようです。

 

この遺跡が発掘調査される前に、ひめちゃんちのおかあさんは、仙台を去りました。

知らなかったわけです。

 

何にもないということでしたけど、本当に何もありませんでした

 

駅に戻ります。

キョロキョロしても、昔住んでいたところの見当も付きません

全く変わっているのです

 

長町駅前に、宮城交通のバスが見えます

電車ではなく、宮城交通のバスで、キャンパスのある川内まで通っていたのです

 

長い時を経て、郡山を訪れたことは、何かの因縁なのでしょう

 

 

 

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奥州紀行総集編 4 (多賀城紀行・多賀城廃寺跡)

2020-03-23 16:02:40 | 奥州紀行

ひめちゃんは、昨夜大脱走しました

ここのところ、ハイシニアの七海ママと小次郎パパが、晩ご飯の後にそこらまでのちい散歩をしています。

いつの間にか、みんなが寝る前のちい散歩をするようになっていたのです。

帰ってきて、ハーネスをはずしてもらった瞬間に、ひめちゃんは大脱走したのです

大脱走と見せかけて、居間の前に出現、「入れて、入れてよ

昨夜は室内犬で過ごしました

朝一で、パパ&ママと軽めのお散歩です

帰ってきて、待っていた獅子丸と、2度目のお散歩です。

獅子くん、今朝はじゃじゃ馬の妹をやさしく見守るお兄ちゃんでした

菜の花の向こうの豚舎のあたりは、葛塚城堀之内の内曲輪です。

 

 

(2018年6月19日)今野家住宅から東北歴史博物館・脇を通って、多賀城廃寺跡を目指します。

 

坂がきつい

特別史跡多賀城廃寺跡です。

国府多賀城にあったのに、国分寺ではありません

けれども、ここに壮麗な国府付属の寺院があったのです。

堂宇の跡が復元されています。

史跡巡りのおじさんおばさんが、何人もいました。

黒柴を連れたおばさんもいました

地元の人々の、散歩ルートでもあるようです。

子どもたちもいます

緑いっぱいの史跡で、市民も訪れる所のようです

 

出口がわからなかったので、入り口に戻り、北にある多賀神社をめざします。

上り坂の脇に、紫陽花(あじさい)が咲いていました

悠久の時が流れる空間には、最新品種ではなく、普通の紫陽花が似合います

 

道なりに登って行くと、多賀神社がありました。

説明板由緒によると、

この地は、かつて陸奥国多賀郡の中心地で陸奥国府鎮護寺の境内にあり、当時赴任に赴いた国司、開拓移民が崇敬していた江州多賀神社(現滋賀県多賀神社)を遷祀したとされている。~中略~しかし、朝廷が陸奥征服を果たし、軍事拠点であった多賀城の繁栄も途絶えるに伴い、当社の所在も不明になるほど一時衰退した。

そして、明治時代に復活して、多賀城廃寺の東基壇上に鎮座し、史跡公園の整備でここに移転したということです。

 

ここに来て、間もないのですね

でも、山神と刻んだ石造物もあったので、それなりの場所だったのでしょう。

 

あれ、多賀城廃寺跡の駐車場です

付近の地図があります

入り口(裏口)が小さいけどあります。

説明板もこちらの方が、劣化がウチバです。

 

廃寺跡を横断して、博物館のほうに向かいます。

博物館は閉館間近で入館禁止でした。

素通りして駅に行けません

何度もきていますけど、始めて南側に出ました。

今野家住宅も見えます

モダンとレトロが溶け合った風景です

 

博物館の西を通って、国府多賀城の駅に向かいました

 

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