昨日、3月11日、三田市内の8つの中学校で卒業式典が開催されました。11日と言えば、東北地方に未曾有の災害が発生した日でもあります。
私は、地元のゆりのき台中学校へ招かれ出席させていただきました。卒業された皆さんは、ちょうど3年前に新1年生として入学したことになります。きっと、いろいろな思いで地震の報道を見聞きしながら過ごしてきたのだろうと思います。
しかし、その彼ら彼女らも新たな道に進み始めます。
(上記画像は、式典終了間際、3年生が、2年生や保護者の皆さんから拍手で送り出されています。生徒は、写っていません)
学校長からは、「豊かな人生を送るためには、夢と希望を持って懸命に生きる努力を・・・」とのエールと同時に「自分だけで生きてはいけない。時には人に頼り、時には人を助けて生きてほしい」と共に生きることで人生の荒波を生き抜いてほしいとのメッセージが贈られました。
私からは、「極める努力をしてほしい」と一言添えさせていただきました。
さて、先週末7日(金)にフラワー市民センターで開催された「人権啓発講座」に参加させていただきました。
テーマは「雲水」曹洞宗大本山「永平寺」の修行僧のことが雲水です。講師は、三田市内高次の「興聖寺」で住職をしている安行英文氏。
安行氏からは、雲水時代の修行内容を交えて、現在の宗教と人権の抱える課題にも触れました。
社会全体で背負うものを「共業(くごう)」といい個人で背負うものを「不共業」と言うとの解説。
ここで言う、社会全体で考えなければならないものとは、本来は個人で抱え込まないで済むような社会保障の制度的なものも含まれるようです。個人が悪いから・・・と言う概念は、本来であれば、社会全体で考えなければならないものだと思います。
ふと、学校教育現場で起こる「いじめ」もこの共業や不共業に通じるものがあると思います。共業の考えがしっかり浸透しておれば、いじめで悩まずに済むと思います。
さて、安行氏からは、もう一つ学びました。
「さようなら」と言う語源。これまで日本人は「さようなら」を余り言わなくなったのではないか。さようならには、負のイメージがあるからだそうです。諸外国での「さようなら」は、「グッバイ」など「また会いましょう」と言うことになり、若い人は、「バイバイ」を好んで使っています。
「さようなら」は、「そう言うことならば」⇒「左様ならば」⇒「さようなら」となったと言います。
「さようなら」は、そういうことなら別れましょうに通じます。仏教界の「諦め」を意味するとのことで、ネガティブな別れの表現は、日本にしかない。とも言われていますが、昨日の卒業式ではグッバイではなくて、やっぱり「さようなら」が似合うと思います。
一期一会の際の「さようなら」。知人の先立ち「さようなら」。ある意味仕方ないと思わなければ、やっていけない場面がいっぱいあります。
3.11のそれぞれの「さようなら」。さようならと言うことで心の整理がつく方も多いのではないでしょうか。
*「さようならの後の決意かな・・・」。卒業時のさようならには、二度と会えないかもしれないが、会った時には、私はこうなっているのだ!と言う夢や希望をもった意味が多分に込められているような気がします。
私は、地元のゆりのき台中学校へ招かれ出席させていただきました。卒業された皆さんは、ちょうど3年前に新1年生として入学したことになります。きっと、いろいろな思いで地震の報道を見聞きしながら過ごしてきたのだろうと思います。
しかし、その彼ら彼女らも新たな道に進み始めます。
(上記画像は、式典終了間際、3年生が、2年生や保護者の皆さんから拍手で送り出されています。生徒は、写っていません)
学校長からは、「豊かな人生を送るためには、夢と希望を持って懸命に生きる努力を・・・」とのエールと同時に「自分だけで生きてはいけない。時には人に頼り、時には人を助けて生きてほしい」と共に生きることで人生の荒波を生き抜いてほしいとのメッセージが贈られました。
私からは、「極める努力をしてほしい」と一言添えさせていただきました。
さて、先週末7日(金)にフラワー市民センターで開催された「人権啓発講座」に参加させていただきました。
テーマは「雲水」曹洞宗大本山「永平寺」の修行僧のことが雲水です。講師は、三田市内高次の「興聖寺」で住職をしている安行英文氏。
安行氏からは、雲水時代の修行内容を交えて、現在の宗教と人権の抱える課題にも触れました。
社会全体で背負うものを「共業(くごう)」といい個人で背負うものを「不共業」と言うとの解説。
ここで言う、社会全体で考えなければならないものとは、本来は個人で抱え込まないで済むような社会保障の制度的なものも含まれるようです。個人が悪いから・・・と言う概念は、本来であれば、社会全体で考えなければならないものだと思います。
ふと、学校教育現場で起こる「いじめ」もこの共業や不共業に通じるものがあると思います。共業の考えがしっかり浸透しておれば、いじめで悩まずに済むと思います。
さて、安行氏からは、もう一つ学びました。
「さようなら」と言う語源。これまで日本人は「さようなら」を余り言わなくなったのではないか。さようならには、負のイメージがあるからだそうです。諸外国での「さようなら」は、「グッバイ」など「また会いましょう」と言うことになり、若い人は、「バイバイ」を好んで使っています。
「さようなら」は、「そう言うことならば」⇒「左様ならば」⇒「さようなら」となったと言います。
「さようなら」は、そういうことなら別れましょうに通じます。仏教界の「諦め」を意味するとのことで、ネガティブな別れの表現は、日本にしかない。とも言われていますが、昨日の卒業式ではグッバイではなくて、やっぱり「さようなら」が似合うと思います。
一期一会の際の「さようなら」。知人の先立ち「さようなら」。ある意味仕方ないと思わなければ、やっていけない場面がいっぱいあります。
3.11のそれぞれの「さようなら」。さようならと言うことで心の整理がつく方も多いのではないでしょうか。
*「さようならの後の決意かな・・・」。卒業時のさようならには、二度と会えないかもしれないが、会った時には、私はこうなっているのだ!と言う夢や希望をもった意味が多分に込められているような気がします。