「絶対矛盾」について…
南郷氏は、「ゼノンのパラドックス」を絶対矛盾だと言い切っている。
「それは何故か?」、
「どういう事なのか?」、
「そもそも運動・変化とは何か?」
「何が変化で、何が運動なのか?」、
「変化も、運動もあるのか?ないのか?」、
「動物は本能的実在である」・「人間は認識的実在である」と言われている。
この「人間は認識的実在である」については、「新・頭脳の科学(第一巻)」[現代社]のP20に以下のように書かれている
(引用開始)…
…前略…すなわち、人間が他の動物と違う様々な特徴を持っているのは、
他の動物がすべて本能のみの統括で生きているのに対して、
人間だけが、本能に加えて認識の統括によって生き、かつ生活している…後略…
(引用終了)
人間には、二重の意識がある。
一つ、現実界の事実像を見ている意識…
二つ、観念内の認識像を見ている意識…
外界の変化・運動像は、外界のモノ自体の実態・実態化の弁証法性…
内界の変化・運動像は、本能的(自然的)かつ認識的(社会的・精神的)な変化・運動像…
本能は世界の変化・運動と一体的な働き…
認識は、自然的かつ社会的かつ個性的な働き…
外界の変化・運動を自然(の弁証法)的に感覚できいても…
それを見詰めている内界の認識が非完璧(個性的・部分的)な弁証法なら…
そこに、外界の変化・運動と内界の変化・運動認識像の一致は至難であろう…
そもそも…
変化とは、あるモノが、あるモノである(と同時に)あるモノでない、という事。
運動とは、あるモノが、ここにある、(と同時に)ここにない、という事。
視覚中心の人間の認識像は、外界像を観念内では一瞬一瞬を像として捉えている。
その一枚一枚を連続的に眺められているだけなら…変化・運動的に流れていくだけである。
しかし、一枚一枚を止めて眺めたら、それは静止であり運動ではない。
それは、DVD再生像を停止ボタンでストップさせた像の連続であろう。
観念内で、自己の認識像をながめている自己を意識しているなら、
そこには静止と運動の区別と連関が起こる。
「ゼノンのパラドックス」は、外界像と内界像の矛盾であり、
それは「認識的実在の人間にとっては「絶対的な矛盾」である…という事である。
この矛盾の克服は、認識の弁証法化であろう。
外界に「変化・運動がある」のでなく、あるのは「弁証法性がある」。
その外界の弁証法性を「人間が変化・運動」と捉えているのであろう。
変化・運動とは、
認識的自在である人間が、
外界の一瞬前の認識像と今の認識像を、
その区別と連関で捉え認識できた時に、
発生する論理的な認識像であろう。
人間の脳には、本能的な動物的な変化・運動性・動物の弁証法性がある。
しかし、脳の機能である認識は、本能的では人間的認識的であろう。
それは、生後の成長過程で体験的・自然成長的・意図的・目的意識的に、体得・学習しているモノであろう。
動物の弁証法性での「一瞬」と「一瞬」感覚・間隔は本能的であり無限小である。
人間の弁証法での「一瞬」と「一瞬」感覚・間隔は、その人間次第で色々マチマチであろう。
人々が、「弁証法」という同じ言葉で表現していても、その内実・中身は。当然十人十色でマチマチという事であろう。
そもそも…
「アキレスの亀」の競争は、アキレスが何も考えず、
ただひたすらにゴール目指して走ったなら、ありえない事である。
「アキレス」が、外界の競争を観念界での競争として考えたから…発生した「パラドックス」である。
これは、「タイムマシーン」での「過去と未来のパラトックス」や「光速運動におけるパラドックス」にも言えるだろう。
これは、全ての「パラドックス」は、外界の弁証法性を、変化・運動ではなく
「パラドックス・矛盾」と捉えてしまっている「内界・弁証法」の誤り・誤使用であろうか…
ゼノンの時代は、外界の弁証法性を、内界での変化・運動と把えようとし始めた時代であろうか…
それは、ヒト的サルが外界に対しての「問い掛け」の始まり、でもあろうか…
ここから、
ヒト的サル⇒サル的ヒト⇒人間的ヒト⇒ヒト的人間⇒人間的人間⇒理想的人間⇒理想的悟得人間への
変化・運動が始まったのであろうか…
南郷氏は、「ゼノンのパラドックス」を絶対矛盾だと言い切っている。
「それは何故か?」、
「どういう事なのか?」、
「そもそも運動・変化とは何か?」
「何が変化で、何が運動なのか?」、
「変化も、運動もあるのか?ないのか?」、
「動物は本能的実在である」・「人間は認識的実在である」と言われている。
この「人間は認識的実在である」については、「新・頭脳の科学(第一巻)」[現代社]のP20に以下のように書かれている
(引用開始)…
…前略…すなわち、人間が他の動物と違う様々な特徴を持っているのは、
他の動物がすべて本能のみの統括で生きているのに対して、
人間だけが、本能に加えて認識の統括によって生き、かつ生活している…後略…
(引用終了)
人間には、二重の意識がある。
一つ、現実界の事実像を見ている意識…
二つ、観念内の認識像を見ている意識…
外界の変化・運動像は、外界のモノ自体の実態・実態化の弁証法性…
内界の変化・運動像は、本能的(自然的)かつ認識的(社会的・精神的)な変化・運動像…
本能は世界の変化・運動と一体的な働き…
認識は、自然的かつ社会的かつ個性的な働き…
外界の変化・運動を自然(の弁証法)的に感覚できいても…
それを見詰めている内界の認識が非完璧(個性的・部分的)な弁証法なら…
そこに、外界の変化・運動と内界の変化・運動認識像の一致は至難であろう…
そもそも…
変化とは、あるモノが、あるモノである(と同時に)あるモノでない、という事。
運動とは、あるモノが、ここにある、(と同時に)ここにない、という事。
視覚中心の人間の認識像は、外界像を観念内では一瞬一瞬を像として捉えている。
その一枚一枚を連続的に眺められているだけなら…変化・運動的に流れていくだけである。
しかし、一枚一枚を止めて眺めたら、それは静止であり運動ではない。
それは、DVD再生像を停止ボタンでストップさせた像の連続であろう。
観念内で、自己の認識像をながめている自己を意識しているなら、
そこには静止と運動の区別と連関が起こる。
「ゼノンのパラドックス」は、外界像と内界像の矛盾であり、
それは「認識的実在の人間にとっては「絶対的な矛盾」である…という事である。
この矛盾の克服は、認識の弁証法化であろう。
外界に「変化・運動がある」のでなく、あるのは「弁証法性がある」。
その外界の弁証法性を「人間が変化・運動」と捉えているのであろう。
変化・運動とは、
認識的自在である人間が、
外界の一瞬前の認識像と今の認識像を、
その区別と連関で捉え認識できた時に、
発生する論理的な認識像であろう。
人間の脳には、本能的な動物的な変化・運動性・動物の弁証法性がある。
しかし、脳の機能である認識は、本能的では人間的認識的であろう。
それは、生後の成長過程で体験的・自然成長的・意図的・目的意識的に、体得・学習しているモノであろう。
動物の弁証法性での「一瞬」と「一瞬」感覚・間隔は本能的であり無限小である。
人間の弁証法での「一瞬」と「一瞬」感覚・間隔は、その人間次第で色々マチマチであろう。
人々が、「弁証法」という同じ言葉で表現していても、その内実・中身は。当然十人十色でマチマチという事であろう。
そもそも…
「アキレスの亀」の競争は、アキレスが何も考えず、
ただひたすらにゴール目指して走ったなら、ありえない事である。
「アキレス」が、外界の競争を観念界での競争として考えたから…発生した「パラドックス」である。
これは、「タイムマシーン」での「過去と未来のパラトックス」や「光速運動におけるパラドックス」にも言えるだろう。
これは、全ての「パラドックス」は、外界の弁証法性を、変化・運動ではなく
「パラドックス・矛盾」と捉えてしまっている「内界・弁証法」の誤り・誤使用であろうか…
ゼノンの時代は、外界の弁証法性を、内界での変化・運動と把えようとし始めた時代であろうか…
それは、ヒト的サルが外界に対しての「問い掛け」の始まり、でもあろうか…
ここから、
ヒト的サル⇒サル的ヒト⇒人間的ヒト⇒ヒト的人間⇒人間的人間⇒理想的人間⇒理想的悟得人間への
変化・運動が始まったのであろうか…